第13話 その席は先に取ってある
旅客は、家の鐘を一度鳴らした。
俺が扉を開けると、薄い茶色の外套を着た女性が立っていた。ミルカより背が高く、真っすぐ立ったまま木箱を腰の高さで抱えている。肩までの黒髪を耳の後ろへきれいに留め、首元には青い布を細く巻いていた。外套の裾から出た長靴はよく磨かれているが、底の縁だけに港の泥が残る。片手に細長い革鞄、もう片手に四角い木箱。俺が中へ招くまで、荷物を床へ置かなかった。
「エノまで乗せていただく、ロゼ・マイエです。レーヴェさんのお家はこちらですか」
「はい。どうぞ。ミルカ、来たよ」
彼女は足元を見て、俺が言う前に玄関で靴を脱いだ。靴底を布で拭く仕草が手早い。俺の紹介を聞くと、自分の木箱を両手で持ち直した。
「ハルトさんもお仕事で?」
「荷物の手伝いをします。操縦はミルカです」
「では、この箱は横にしても大丈夫です。瓶は入っていませんから」
手助けを頼む時に、扱い方を先に伝える人だった。木箱には、染めた糸と布の見本が入っているという。ロゼさんはフェルネの染料を扱う店に勤め、今回はエノで仕入れた糸を使う織り手と、色の相談をする。
「見本を並べて、同じ色に見えるか確かめるんです。お手紙の色名だけだと、作る方と売る方で思っているものが違うことがあるので」
箱を開けると、よく似た青が何枚も並んでいた。俺には一目で区別できない。彼女は触らずに端を指し、日陰で見る時に間違えやすい組を教えてくれた。ミルカに道を任せるこの人も、仕事先へ着けば、相手を案内する側になるのだろう。
ミルカが荷物の大きさを確かめ、預かる物を紙へ書いた。布の巻物六本と、旅客の鞄二つ。俺は指示された棚へ箱を入れ、紐で留める。
ロゼさんは食卓の窓側へ行きかけた。ちょうど俺が座る椅子だった。ミルカが、もう一つの椅子の背を引く。
「こちらからの方が、川が見えます。こっちは、ハルトが荷物を見に行くので」
「なるほど。何度も立つ所にいては邪魔ですね」
ロゼさんは向かいへ座った。もっともな理由だった。荷物を確認するには、俺の席の方が階段と棚に近い。もっともな理由すぎて、昨日の話を覚えている俺だけが、顔を上げられなくなった。
ミルカの視線が一瞬こちらを通る。彼女はそのまま操縦盤へ行った。
「少し持ち上げて、風を見ます。窓は閉めたままでお願いします」
家が地上を離れた。脚の先が石台から抜け、窓の景色がゆっくり下がる。ロゼさんは椅子の端へ手をかけたが、声は上げなかった。
「小さな家は初めてですか」
俺が尋ねると、頷いた。
「飛行船には何度か。でも、台所がそのまま上がるのは、初めてです」
「俺も最初、そこに驚きました」
「あなたは船のお仕事ではないんですね」
「元は家具の修理を少し」
世界が違うことまで、初めて乗る客に詳しく話す必要はない。聞かれた範囲へ答えると、彼女は手元の椅子を軽く押した。
「それなら、いい組み合わせですね。家を動かす人と、家を直す人」
俺は、直せる所だけです、と付け足した。操縦盤のミルカが振り返った。
「今朝、この椅子は見てもらいました」
「頼もしいわ。私は椅子が鳴っても、座り方を変えるだけなので」
「それも大事です。ここ、古いですから」
窓の外でアルトの屋根が小さくなった。大河をたどり、分かれた支流を横切り、畑の色が並ぶ所へ進む。ミルカは高度を上げすぎず、ところどころで風見の向きを見た。
朝のうちに本は返し、飲み水も補充してある。俺は荷物の紐を確かめてから、飲み物を三人分用意した。飛んでいる間に熱いものを持ち歩かないよう、まだ冷たい茶だった。
「ありがとう。よく見てますね」
ロゼさんが言ったのは、鞄の紐の方だった。俺は結び直した箇所を示す。
「角に紐が寄っていたので。少しずれると、ほどけそうだったから」
「私、それで一度、見本をばらまいたことがあります」
「地面で?」
「店先で。お客様が拾ってくださって、そのまま全色の説明になりました」
商売の失敗を、変に恥じずに話す人だった。ミルカも笑い、速度を落として話に入った。
「私は、弟子の頃に荷札を逆につけたことがあります」
「届け先は?」
「隣の倉庫でした。遠くじゃなくてよかった」
俺の輪の取り違えは、少し前のことだ。混ざれる失敗があると分かると、妙に話しやすかった。
昼前、低い丘の間で風が横から当たった。家が大きく傾いたわけではない。けれど茶の表面が片側へ寄り、床に置いた俺の布袋が、ほんの少し動いた。
「荷物、もう一回見て」
「分かった」
ミルカは操縦盤から目を離さず言った。
俺が紐へ手を伸ばすと、ロゼさんも立とうとした。先に声をかける。
「今は座っていてください。必要ならお願いします」
彼女は椅子へ戻り、食卓の茶を真ん中へ寄せた。俺は棚の六本を確かめ、鞄の留め具を締め直した。ミルカへ、全部動いていない、と伝える。
「この谷は抜けない。南へ回る」
地図の線と、窓から見える雲を見比べている。操縦盤の環を指で引くと、家は急に曲がらず、畑の上へ大きな弧を描いた。
「着くの、少し遅くなります。今の風なら半刻くらい」
ロゼさんへそう告げ、ミルカは息をついた。
「承知しました。今日中に着けば大丈夫です」
「充填場のある所へ一度下りるかもしれません。それも含めて」
「お願いします。私の都合で急がせたくありません」
ロゼさんが椅子へ背を預ける。俺も荷物棚の前から戻った。ミルカの額には細く汗が浮いていた。窓を開けて冷ますわけにはいかないので、水を手元へ置く。
「まだ大丈夫?」
「うん。休む場所は、そこ」
彼女が顎で示した先に、丘のふもとの小さな停泊地が見えた。石台が三つあり、一つには郵便の小舟が下りている。
俺はその町の名を尋ねず、まず、下りたら何をすればいいか聞いた。水と荷物、続けて充填場への支払い。それなら、ミルカが息を整える間にできる。
家が石台へ着くと、脚が重さを受けた。そのわずかな沈み方で、飛行が終わったことが分かるようになっていた。
ロゼさんは外へ出て首を回し、俺へ小さな銅貨を渡しかけた。
「充填場に行くなら、私の分の水もお願いできますか」
「家の水があります。飲み水なので、それでよければ」
「では、そちらを。代金は運賃の内で大丈夫?」
ミルカが頷くと、彼女はありがとうと言って手を引いた。何でも追加の代金で解決しようとするのではなく、仕事としてどこまでかを確かめる人なのだろう。
俺は水槽の残りを見た。三人で飲んでも余裕はある。充填場では係員に風晶を見てもらい、ミルカへ結果を持ち帰った。補充をしておけば、予定したエノまでの余力が取れる。
ミルカは石台の陰に腰を下ろしていた。灰色の上着を脱ぎ、細い紐で髪をまとめ直している。
「隣、いい?」
「うん」
座ると、肩が少し近くなった。ロゼさんは停泊地の掲示を見に行っている。
「さっき、落ち着いてたね」
ミルカが言う。
「言われたことだけやったから」
「立ちそうになったお客さんにも、ちゃんと言ってた」
「動く前に言えたのは、俺も最初に言ってもらったからだよ」
彼女は俺の顔を見て、唇を軽く曲げた。
「じゃあ、教え方がよかった?」
「そういうことにしよう」
「そこは、そうだよ、でよくない?」
袖の肘を小さく押された。汗で顔へ貼りついた髪を、ミルカが指で避ける。近くで見るえくぼに、俺は目を止めてしまった。
「何?」
「いや。髪、まだここにある」
自分の頬を指さすと、彼女が同じ所を撫でた。取れず、もう一度触る。
「こっち?」
「もうちょっと」
「取って」
あっさり頼まれたのに、俺の手は一拍遅れた。指先で細い髪を耳の方へ寄せる。たったそれだけのことが、作業の時より難しい。
「ありがとう」
ミルカは普通の声で言った。けれど俺から少し顔をそらし、まとめた髪の紐を結び直していた。
ロゼさんが戻ってきた時、俺たちは二人とも立ち上がった。何かを見られたというほどのことではない。なのに、彼女が俺たちを交互に見ただけで、手をどこへ置くか分からなくなった。
エノへは、約束より少し遅れて着いた。ロゼさんは木箱を受け取り、割れや布の汚れがないことをその場で確かめた。ミルカの紙へ受領の印をつける。
「助かりました。陸の便を待っていたら、明日の相談に間に合わない所でした」
「よかったです。織り手さんのお店、分かりますか」
「ええ。荷車を呼んでから行きます」
ロゼさんはそう答えたあと、俺の手を見た。一昨日の擦り傷にまだ薄い包帯がある。
「家具のお仕事、うちの店でも困ることがあるんです。扉が湿気で閉まらなくなるとか。フェルネへいらしたら、ご相談しても?」
仕事として言われている。俺は嬉しくなったが、できない物まで引き受けたくなかった。
「見てからでよければ。大きい修理は一人ではできません」
「それで十分です。では、お店の札を」
渡された紙には店名と道順があった。俺がまだ読めないことを伝えると、彼女は港からの曲がり角を説明した。ミルカの実家とは、同じ通りだった。
「エダさんの娘さんでしたか。でしたら、場所の心配はありませんね」
母親の名前に、ミルカは頷いた。知っている人の話になったので、二人が少し長く話し、俺は最後の鞄を玄関の外へ運んだ。
荷車が来て、ロゼさんが去ったあと、ミルカは受領の紙を袋へしまった。
「ハルト、忙しくなるかもね」
「扉を見るだけだよ。できるか分からないし」
「うん。そうなんだけど」
彼女は俺の袖を見るでもなく、食卓へ戻った。空いた椅子を一つ押し込み、自分の上着を畳む。
「どうした?」
「さっきの人と話してる時、楽しそうだった」
「仕事を頼まれたから」
「分かってる」
そこで笑われると思った。けれどミルカは椅子に座り、指先で卓の小さな傷をたどっていた。
「分かってるけど、私と話す時より、すぐ返事してた」
俺は彼女の右隣の席へ座った。朝、取っておいてもらった所だ。
「仕事の話は、聞かれたことが分かるから」
「私の話、分からない?」
「たまに、返事を間違えたくないと思う」
言うと、ミルカが傷をたどる指を止めた。
「ロゼさんには、間違っても平気?」
「仕事なら、できないことを先に言えばいい。でも、君が行きたい場所とか、楽しかったって言ってくれた時は、そういう返事じゃ足りない気がして」
俺自身、説明しながらようやく形になった。相手が誰でも同じではない。ミルカには、考える分だけ黙ってしまう。
「じゃあ、今、私といるのは?」
彼女は俺をまっすぐ見て聞いた。
「楽しいよ」
「今のは早かった」
「考えなくても分かるから」
ミルカは目を伏せ、椅子の縁に片手を置いた。二人とも、何を口にしたかが分かっているのに、その名前はまだ言っていない。
彼女が少し息を吸った。
「私も。ロゼさんがここに座ろうとした時、変な気分だった。ハルトの席なのに、って」
「他の椅子でもよかったんだよ。俺は」
「そうじゃなくて」
言いかけて、彼女は俺の顔を見た。俺も、ようやく口を閉じた。
「……ここに座ってほしかったんだね」
「うん。昨日、取っておくって言ったから」
俺は卓へ置いた手を引き、椅子を少しだけ彼女の方へ向けた。
「次も、ここに座るよ」
「荷物見に行きやすいしね」
「それもある」
「それ以外もある?」
「ある」
短い返事だけで、ミルカは笑った。仕事の時に見た、自信のある顔とは違う。左頬だけが先に緩んで、それを隠すように手が動いた。
窓の外では、荷車が空の石台を通っていた。今日の仕事が終わり、家の中が二人に戻った。その広さが、朝より少し変わった気がした。




