第14話 海の匂いがする家
エノを出た翌日、窓の下を流れる川が細くなった。畑の間には乾いた土の道が延び、家々の屋根もアルトのものより平たかった。
ミルカは昼過ぎ、予定していた係留場へ家を下ろした。まだ風晶には余力があったが、この先の海からの風は夕方に強くなるという。俺たちは昼のうちに水を補充し、港の食堂で明朝持って出るパンを買った。
海が見えるのは、翌日の終わり際だった。
窓の外に、畑とも空とも違う青が現れた。初めは細い帯に見え、丘を越えるにつれて広がっていく。地球の海と、何もかも違うわけではない。けれど水の向こうまで続く空を見ていると、この世界にも、俺の知らない場所がまだいくらでもあるのだと分かった。
「フェルネ、あの白い所」
操縦盤の前のミルカが言った。家々が海に向かって段になり、港のまわりに白い壁が並んでいた。風を受ける布が、何本もの竿に干されている。
「あれ、染めた布?」
「うん。風が強すぎると取り込むから、今日はまだ大丈夫」
港へ下りる前、ミルカは髪留めに触った。いつもと同じ留め具なのに、指で何度も確かめる。
「緊張してる?」
「少し。久しぶりだから」
「俺を連れてきたからじゃなくて?」
「それもある」
家が石台へ降りる。俺は荷物の紐が無事なことを伝え、靴を履いた。今日は運び先の店まで、港の荷車を使う。ミルカが操縦を終えたばかりなので、六本を俺が一人で何往復もする必要はない。
外へ出ると、潮の匂いがした。干した魚と染め場の煮汁が混ざって、町全体がアルトより濃い匂いを持っている。
布を届け、受領の紙をもらった頃には、陽が傾き始めていた。ミルカは店の前から坂を指した。
「うちは、あの角を曲がった所」
俺は土産の包みを持ち直した。大きな札の意味を思い出し、つい口元が緩む。
「食べてないね」
「一つも」
「セナの見張り、効いたな」
「自分の分があったからです」
言い方だけは堂々としていた。
坂の途中に、濃い赤の布を入口へ掛けた店があった。店先の浅い棚には、顔料の入った壺と、布の見本が並んでいる。奥で何かをすりつぶす音がした。
「ただいま」
ミルカが声をかけると、すりつぶす音が止まった。
先に出てきたのは、紺色の前掛けをつけた女性だった。四十代くらいで、ミルカより少し背が高い。目元は似ているが、髪は柔らかい茶色で、後ろへ結んでいる。娘が笑うと丸くなる頬の線も、彼女には落ち着いた形で残っていた。前掛けの胸には見本の糸が一本ついている。彼女は入口で娘を見つけ、店の奥へ客を待たせていないか目をやってから、片手を差し出した。
「お帰り。荷物、もう渡せた?」
「うん。港の便も間に合った。お母さん、こっちがハルト」
俺は半歩前へ出た。
「三枝晴人です。ミルカには、こちらへ来てからずっとお世話になっています」
「エダです。手紙で読んだ青年ね。どうぞ。そこ、棚が低いから足をぶつけないで」
挨拶の途中で、俺の足元へ指が向く。確かに、布見本の箱が床へはみ出していた。
ミルカが慣れた動きで箱を奥へ押した。その仕草を見るだけで、彼女がこの店の娘なのだと分かった。
奥から、もう一人出てきた。銀色を多く含む短い髪、厚い指。エダさんより大きい体に、袖口を染めた作業服を着ていた。両肩は広いが、右だけを少し下げている。眉の下の目はミルカほど丸くなく、口を閉じていると、考え事をしているのか不機嫌なのか分かりにくかった。手に染料のついた布を持っている。俺を見る前に、ミルカの顔を確かめた。
「元気か」
「元気。お父さんは?」
「肩が少し。でも仕事はしてる」
それから俺へ向いた。
「父親のオスカーです。娘が世話になってるそうで」
「いえ、世話になっているのは俺の方で」
「この子の手紙には、扉が閉まるようになったと書いてあった」
ミルカが、父親の布を持つ手を下へ押した。
「お父さん、先に手を洗って。ハルトの服につけるから」
「握手する前に分かってる」
言いながらオスカーさんは、水のある方へ戻った。ミルカはその背中へ、右袖も濡れてるよ、と声をかけた。彼は袖を見て、もう一度水場へ腕を出した。
土産を渡すと、エダさんは札を見て笑った。
「セナが書いたの?」
「うん」
「ミルカは食べない。よく持ってきたわね」
「皆、私のこと何だと思ってるの」
「川桃が好きな人」
母親の答えは穏やかで、ミルカだけが反論しにくそうだった。俺がつい笑うと、彼女の目がこちらへ来た。
「ハルトも食べてないからね」
「そこまで俺も疑われてたのか」
店の裏には台所と食事をする部屋があり、その奥に細い庭があった。まだ客が来る時間なので、エダさんは店へ戻る。ミルカは棚から食器を出し、俺には庭の水場を教えた。
「洗ったら、ここに掛けてある布で拭いていいよ」
「ありがとう」
俺が戻ると、彼女は台所の高い所から鍋を下ろしていた。この家でも、背伸びが必要な棚を使っている。
「持とうか」
「届く。お母さんが使うと、そこへ戻るんだよね」
鍋を下ろしてから、俺に見せるように腕を伸ばす。
「私がここに住んでた時は、一つ下だった」
「棚も、誰が暮らすかで変わるんだな」
「ハルトの茶も、うちでは手前になったし」
自分の好きな茶が、飛ぶ家の棚にある。それをこの家の台所で聞くと、何かを一緒に持ってきた気がした。
食卓に並んだのは、焼いた小魚と豆の煮物、酸味のある葉の漬物だった。オスカーさんが店の札を裏返し、エダさんが最後の客を見送って、ようやく四人が座った。
「海の魚、大丈夫?」
エダさんが尋ねる。
「はい。好きです」
「骨だけはね。小さいから、慌てずに」
俺の隣で、ミルカが一本骨を皿の端へ置いた。こちらを見る目が少し得意だった。
話は、仕事の道中から始まった。アルトから来た布の数、エノへ乗せた客、途中で休んだ係留場。オスカーさんはどの町まで飛べたかより、どこで余力を取ったかを聞いていた。
「海へ下る前に泊まったのか」
「うん。一日で詰めたら、最後に風を選べなくなるから」
「それならいい」
娘を心配する話と、仕事の話は、同じ食卓にあった。ミルカも、幼い子へ戻るような返事はしなかった。
俺のことは、エダさんが聞いた。
「帰る方法を調べていると、手紙にあったけれど。ご家族とは連絡が取れたの?」
「一度だけ、短く声がつながりました。母と話せました」
「それはよかった」
そこで一度、エダさんは黙った。俺が話せることを続けるまで、急いで次の質問へ行かなかった。
「向こうでは、一週間以上、俺を捜していたので。帰れるかはまだ分からないんですけど、無事だと知らせられたのは、助かりました」
「食事のことは、話せた?」
「俺から、食べる物も寝る所もあるって伝えました。母は迎えに行くって、場所を聞いていて。詳しくは話し切れなくて」
「そう。まず連れて帰りたかったのね」
ミルカは、ちゃんと食べさせていると自分も伝えたことを言った。エダさんが娘を見る。
「あなたが?」
「今は二人で作ってる。私だけじゃないよ」
「そう。なら、よかった」
その「よかった」が、俺が飢えていないことだけを指していない気がした。ミルカも少しだけ背筋を伸ばした。
オスカーさんが、俺の布袋を見た。
「家具の仕事をしてたのか」
「父の店を手伝っていました。細かい調整が多いです。大きいものを作るのは、父の方で」
「では、あの家の床は見た?」
来た、とミルカが小さく言った。俺はうっかり笑わないように、魚の皿を置いた。
「踏んだ時に大きく沈む所は、今のところないです。ただ、床下全部を見たわけではありません」
「奥の二枚は、ルーネが去年替えてる。そこ以外も古いからな」
「お父さん、それは手紙でも書いてあった」
「伝わったかどうか、顔を見て聞きたい」
オスカーさんは俺を責めているのではなく、娘が言葉だけで返事をしていないか、確かめたかったらしい。
「今回は港へ下りてるなら、明日見に行く。荷物がない方が、見やすい」
「見てくれるのは嬉しいけど、悪い所がないか捜す顔で来ないで」
「悪い所があるか見るんだ」
「同じに聞こえる」
父娘が鍋を挟んで言い合うと、エダさんが俺の皿に豆を少し足した。
「いつもこうなの。ご飯は温かいうちにね」
俺はありがとうと言って、豆を食べた。この家では、娘の帰宅も、床の心配も、夕飯が冷めることも、ちゃんと問題になる。
食後、エダさんは土産の包みを開いた。大きな札を捨てずに、店の帳面へ挟む。
「取っておくの?」
「セナの字、懐かしいから」
ミルカは、ここでも自分の幼い頃が知られているのを、少し照れくさそうに見ていた。
お菓子を一枚ずつ配ったあと、エダさんは娘に尋ねた。
「今日は家に泊まる? あなたの部屋、寝られるようにしてあるわ」
ミルカは俺を見た。港に下ろしたツバメの家には、俺の部屋も、二人の荷物もある。ここへ泊まれば、彼女は昔の部屋へ戻れる。
「俺は港へ戻るよ。朝に迎えに来る」
言うと、彼女は少し眉を寄せた。
「一人で道、分かる?」
「坂を下りて、港。間違えたら戻る」
「そこ、間違える所じゃないけど」
ミルカは笑った。エダさんが、夕方の灯りの位置を教えてくれた。夜は港の門が閉まる時刻があるので、今なら間に合う。
ミルカは残ることにした。ただし送る、と言って上着を取った。俺が断りかけると、まだ眠くないから、と先に言われた。
店の外の坂は、海からの風が涼しかった。ミルカの髪が肩の後ろから浮き、細い銀色の線になった。
「ごめんね。お父さん、床ばっかり」
「俺の父も、多分、家を飛ばす話を聞いたら、木の重さを先に聞くと思う」
「お父さん、似てるのかな」
「仕事の所だけかも。うちの父は、俺の椅子を見て、削り方が雑だって言う」
「本当に雑なの?」
「たまに」
ミルカは声を出して笑った。坂の下の港には、竿へ吊るした灯りが並んでいる。俺たちの家の青い扉も見えた。
「ハルトが家へ帰ったら、私がここへ泊まってる感じになるんだね」
彼女が言った。
「今日だけね」
「うん。今日だけ」
その言葉を、ミルカは自分でも繰り返した。研究所で声が切れた時とは違い、明日の予定がある。明日の朝、俺はこの坂を上って彼女を迎えに行く。
扉の前に着くと、彼女は鍵を俺へ渡した。いつも荷物袋に入れている方だった。
「閉めて寝て。あと、夜に茶が飲みたくなったら、上の缶じゃなくて、手前の方」
「俺の茶?」
「うん。荷物を留める時に、奥へ動いたから。戻しておいた」
「分かった」
俺が鍵を持つと、ミルカはすぐには離れなかった。家の扉と俺を一度ずつ見て、手を上げる。
「じゃあ、また明日」
「おやすみ」
「おやすみ、ハルト」
彼女は坂を上っていった。途中で一度振り返り、俺がまだ扉の前にいるのを見つけて笑った。
家へ入ると、俺は棚の手前から茶を取った。いつもなら、湯を沸かす前に、ミルカにも飲むか聞く。一人分を淹れた湯飲みを、卓へ置いた。
椅子は四脚ある。そのうちの二つを毎日使っていて、もう片方に誰もいないだけで、台所の音がよく聞こえた。
俺は窓を少しだけ開けた。飛行中ではない。港の風が、潮の匂いを家の中へ運んだ。
明日、彼女を迎えに行く。その前に、朝食を食べずに出ないようにしよう。多分また、エダさんも同じことを聞く。
そう考えて、俺は残っていたパンを、朝の分として棚へ分けた。二人で暮らしている時にはしなかった、小さな準備だった。




