第15話 お母さんにはまだ言わない
朝、坂を上ると、店先へ水をまいているミルカが見えた。袖を肘まで上げ、髪を後ろで一つにまとめている。俺を見つけると、持っていた桶を足元へ置いた。
「おはよう。ちゃんと眠れた?」
「うん。君は?」
「眠れた。枕が違って、最初ちょっと変だったけど」
昔の部屋で寝ても、今の枕の方を思い出すらしい。俺は彼女の袖についた水滴を見て、自分も何か持つ物があるか尋ねた。
「もう終わった。お母さんが朝ご飯を食べていけば、って」
「少し食べてきたんだ」
「じゃあ、茶だけでも」
奥へ入ると、エダさんが昨日の土産を小皿に並べていた。朝からお菓子なのは、普通の朝食がもう済んだかららしい。
「ミルカが、塩が多すぎるスープを作ったと話していたわ」
席へ座った途端、そんな話になった。
「あれは俺も味見しなかったので」
「ハルト、そこは言わなくていい」
「二人とも、って言われた方が困る?」
エダさんは茶をよそい、娘の前へ置いた。
「あなただけなら心配するけど、二人で食べたなら、次に変えられるでしょう」
「実際、変えたよ」
ミルカはすぐ答えた。俺も頷く。あの鍋は、翌日、水と豆を足して食べた。
店へ客が来たので、エダさんは立った。ミルカも手伝いに行こうとしたが、父親と一緒に家を見に行くように言われた。今日は昼過ぎに、祖母の家へ顔を出す予定もある。
オスカーさんは腰へ工具袋をつけていた。俺が持っているドライバーより種類が多く、どれも使い込まれている。
「工具も扱うんですか」
「店の棚と、染め桶の台は作る。椅子は下手だ」
きっぱり言ってから、歩き出した。得意なものが分かれているのは、俺には安心する話だった。
ツバメの家では、床を見るために、俺とミルカが机を少し寄せた。オスカーさんは床を踏んで回り、玄関近くの板を指で押した。古い継ぎ目の音を聞き、次に家の外へ回る。
家の脚が石台へ下りている間に、床下をのぞける。俺は汚れてもいい上着を着て、下から板の支えを見た。頭を打たないように進むと、オスカーさんが反対側から灯りを当てた。
「そこは去年の板。奥はその前」
「乾いてますね」
「今はな。水槽の下が濡れた時だけ、娘に見てもらわんと」
ミルカが外から声をかけた。
「漏れてないよ。補充の時、見る」
「今は漏れてない」
「分かってる。次も見る」
俺は二人の会話を聞きながら、床板の裏を見た。今すぐ取り替えが必要な腐りはなく、支えの留め具も抜けていない。隅に一つ、薄い割れがあったので、ミルカに場所を見せた。重い荷物をそこだけに置かないことと、次の整備でラウラさんにも見せることにする。俺がその場で家の土台まで直せるわけではない。
外へ出ると、オスカーさんは工具袋の土を払った。
「これなら、戻る旅は大丈夫そうだ。長い旅の前に、いつもの所で見てもらえ」
「うん」
ミルカの声が少し柔らかくなった。
家の中で茶を飲む時、オスカーさんはミルカがいつも使う椅子へ座った。ミルカは自分も別の席に座り、俺には隣の椅子を引いた。俺が笑いをこらえていると、膝に彼女の指が一瞬触れた。
「何かあったか」
「いえ」
俺たちの返事が重なった。父親は気にせず、腰を少し動かして椅子を確かめていた。
「椅子も、悪くない」
それは祖母の椅子への評価で、俺の修理への褒め言葉なのかは分からない。けれどミルカは、晴人が最初に直した椅子だと伝えた。
オスカーさんが、俺の顔を見た。
「帰る時まで、娘の家具をよろしく」
「はい。できる所は」
「この子は、困ってても自分でやろうとする」
「お父さんに言われたくない」
「俺はお母さんに頼んでる」
「お母さんが気づくんでしょ」
彼は茶を飲んだ。反論しない所が、正解のようだった。
祖母の家は、港から海沿いの道を少し歩いた所にあった。飛ぶ家ではなく、白い壁の小さな平屋だ。窓の外に植木鉢が並び、風の強い側には木の覆いが立っている。
ミルカが鐘を鳴らす前に、窓が開いた。
「玄関は開いてるよ」
低く、少しかすれた女性の声だった。
中へ入ると、銀髪を短く切った女性が椅子に座っていた。七十歳を越えているだろうか。ミルカより小柄で、背も少し曲がっているが、こちらを見る顎は上がっていた。皺の深い目元と、口の端にある細い笑い線。ミルカと同じ銀色でも、長い髪を風へ流す彼女とはずいぶん違う印象だった。膝へ薄い布をかけ、手の中に針を持っている。小さな風見飾りの布を縫っているところだった。
「ルーネです。あの家、まだ落ちてない?」
挨拶より先に家のことを言ったのは、ミルカによく似ていた。
「落としてない。今朝お父さんも見た」
「じゃあ、見られたんだね。ご苦労さん」
祖母の方は、床の心配を少し笑っていた。ミルカは手を洗う場所も聞かず、針のそばへ落ちた糸屑を拾った。家をくれた元の操縦者は、孫が来ても針を置かない。
「あと二針。それが済んだら、顔をちゃんと見せて」
「先に見ればいいのに」
「ここで止めると、どこを縫ってたか忘れる」
俺たちは椅子のそばで待った。二針のはずが、三針になった。ルーネさんは糸を切ってから、今度は本当にミルカの両頬へ手を添えた。
俺が名乗ると、ルーネさんは椅子の隣の籠を指した。
「そこ、置いていいよ。旅行帳は持ってきた?」
ミルカが荷物袋から、あの帳面を取り出した。押し花を挟んだ頁は開かず、祖母が北の空を記した所を見せる。
「まだ行ってないけど、次の長い旅はこっちにしたい」
「いい時期だ。着くまでに風が変わるだろうから、日にちは急がないで」
ルーネさんは自分の字を読んで、当時より変わった港の名前を一つ教えた。ミルカが余白へ書き加える。旅の記録は、そのまま現在の案内図にはならない。
「晴人さんは、北も一緒に?」
「行ければ、と思っています。ただ、元の家へ帰る研究も進んでいて」
俺は時計の痕と通話を、短く説明した。ルーネさんは、知らない術について詳しいふりをしなかった。自分も漂着者の話は聞いたことがあるが、声をつないだ場にいたことはない、と言う。
「家族には、帰って顔を見せたいね」
「はい」
「この子にも、好きな所へ行ってほしい」
どちらか一方を、後から打ち消す言い方ではなかった。ミルカは帳面を膝に置いて、頷いた。
「私も、そう思う」
ルーネさんは娘の娘を見て、少し目を細めた。
「それなら、二人で考えな。若い時に作った予定は、変えられるんだから。変えたものを全部、間違いにしなくていい」
そう言って、針を布へ戻しかけたルーネさんは、ミルカが開いた古い頁を見つけて手を止めた。
「そこの港は、魚の煮込みを頼むといい。ただ、量が多い。二人なら一つで足りる」
「おばあちゃん、一人で食べたの?」
「食べた。次の日、朝ご飯はいらなかったね」
「そういうこと、帳面に書いてない」
「空のことを忘れる前に書いてたから」
ミルカは余白へ短い字を足した。俺にも、一皿という数字だけは読めた。
ミルカが縫っている物を尋ねると、近所の子へ渡す風見飾りだという。家をもらった時、同じ模様の飾りがあったらしい。
「それ、まだうちにもある」
「古くなったら、替えな」
「残しててもいいでしょ」
「残すのと、働かせるのは別だよ」
その返事を聞いて、ミルカは帳面の表紙を撫でた。押し花も、この家の古い来歴も、新しいものと取り替えて捨てる必要はない。
帰り際、ルーネさんは俺に小さな木片を一枚くれた。風見の羽根を取り替えた時の端材だった。
「手に持てる物を直す人なんだってね。形がいるなら使いな」
「ありがとうございます」
薄い、軽い木だった。何を作るか、その場では決まらなかった。ただ、俺の折尺や鉛筆と一緒に袋へ入れた。
坂を戻る途中で、ロゼさんに教わった店へ寄った。まだ彼女はエノにいる。店の主人へ紙を見せると、頼まれていた扉を案内してくれた。上の端が少し膨らみ、湿る日には枠に当たるのだという。
俺は一度開け閉めして、留め具が緩んでいないことを確かめた。削る道具はないし、削ってよい程度も、今の湿り具合だけでは決められない。
「今日は調整だけなら。木を削る所は、地元の方に見てもらった方がいいと思います」
主人はそれでいいと言った。戸の下の隙間へ入り込んだ小石を出し、取っ手のねじを締めると、引く時の力が少し減った。それ以上を、直ったことにはしなかった。
短い作業の代金を受け取り、俺は店を出た。ミルカは入口の布を見て待っていた。
「思ったより早かったね」
「できる所までだから」
「ちゃんと言えた?」
「うん。削るのは別の人に、って」
「じゃあ、よかった」
腕のある職人として自慢されるより、その程度の俺を分かってもらえる方が嬉しかった。
実家へ戻ると、エダさんが店の奥へミルカを呼んだ。俺はオスカーさんと、店先の棚に残っていた壺を片づける。一つずつ重さが違うので、札を見せてもらいながら、下の段へ置く。
台所の入口から、ミルカの声が聞こえた。
「まだ、そういう話にはなってない」
俺は壺を持つ手を止めそうになった。何の話かは聞いていない。続けてエダさんが何か答えたが、店の音に混ざって分からなかった。
俺は壺を置き、次の札を尋ねた。オスカーさんが見せた文字を、二度聞いてしまった。
夕飯の後は、二人ともツバメの家へ戻ることになった。明日、天候がよければアルトへ向かう。灯り市に間に合わせるには途中で一泊、港へ帰るのは明後日の見込みだ。
別れる前に、エダさんが俺へ小さな包みを渡した。葉の漬物だった。
「途中で食べてね。汁は漏れないようにしたから」
「ありがとうございます」
「ミルカは、朝に弱い日があるの。起きない時は、先に食べて」
「お母さん」
「初日から飛ばしすぎないで、という意味よ」
彼女は笑って、娘の肩へ手を置いた。
「帰ってきた顔が見られて、よかった」
ミルカは、それまでの言い返しをやめた。少しだけ母親へ近づき、肩を合わせる。俺は包みの紐を見ていた。
家までの道で、ミルカが台所の会話のことを、自分から話した。
「お母さんに聞かれた」
「何を?」
「ハルトは恋人なの、って」
海の音より、彼女の足音の方が近かった。俺はすぐに頷けず、かといって冗談に変える気にもなれなかった。
「そうじゃないって、言った?」
「まだ、そういう話にはなってない、って言った」
「……まだ」
自分で言ってから、言葉を拾いすぎたと思った。ミルカも少し頬を赤くしたが、取り消さなかった。
「先にお母さんへ言うの、変でしょ」
「うん」
「だから、お母さんには、まだ言わない」
俺たちは港の門を通った。並んだ灯りの下で、彼女の顔を見たかった。けれど見ると何かを言ってしまいそうで、青い扉の方を見た。
鍵は、今日はミルカが持っていた。彼女が開け、俺が漬物を台所へ運ぶ。家の中には、昨日淹れた茶の匂いが少し残っている。
「昨日、一人だったんだよね」
「うん。変な感じだった」
「寂しかった?」
軽い声ではなかった。俺は包みを置いて振り返った。
「少し」
ミルカは扉を閉めた。外の潮風の音が、小さくなった。
「私も、自分の部屋だったのに、朝、隣に声をかけそうになった」
「お母さんが返事した?」
「声は出さなかったから。出したら、きっと聞かれた」
そこで二人とも笑った。まだ話していないことを、母親へ先に言わずに済んだのだ。
俺は湯を沸かした。ミルカが二つ湯飲みを取る。一人で使った昨日の湯飲みも、もう洗って元の棚へ戻してある。
「明日の朝、起こしてもいい?」
彼女が尋ねた。
「うん。俺が先に起きてたら、俺が声をかける」
「それでお願い」
二つの湯飲みが食卓へ並んだ。昨日空いていた隣の椅子を、ミルカが引く。今度は、取ってあると言わなくてもそこへ座った。




