第16話 灯りを見に行くだけだから
フェルネを出る朝、ミルカは俺より先に起きた。俺が台所へ下りると、旅の途中で食べる分のパンが切ってあり、漬物の包みも、小さな容器に分けてあった。
「お母さんに言われたから?」
「朝に弱い日がある、って言われたのが悔しいから」
「今日は弱い日じゃないね」
「うん。今日はね」
俺たちは、そこで少し笑った。得意ではない日があることまで消さなくてもいい。
帰りの旅では途中の港に一泊し、次の日の夕方、アルトへ着いた。ラウラさんの修理場へ顔を出すと、研究所からの手紙はまだ来ていないという。出発前に頼んだ連絡先の変更は、向こうに届いていた。俺はその報告だけ聞いて、今日のうちに係留の手続きを済ませた。
港は前より人が多かった。灯り市を見に来た船が並び、家を泊める場所もいつもの石台とは少し離れている。ミルカが組合で空きを確かめていた間に、俺は飲み水を補充し、処理場へ出す物を運んだ。旅の終わりにも、家の用事はある。
その翌日が、第六月の初日だった。
朝の市場はまだ普通に開いていたけれど、道の上には、細い紐で灯りが吊るされていた。紙や薄い布の覆いが、赤、青、黄と並んでいる。中へ入れる小さな光石は、暗くなってから配るらしい。
セナの店では、川桃の菓子を小さく切ったものが次々売れていた。ミルカは手を振ったが、彼女も店も忙しそうだったので、話しかけずに通った。
「夕方、来るって言ってあった」
「俺たちも、何か手伝う?」
「今日は、遊ぶ方にしたい」
ミルカはそう言って、俺を見た。
「いい?」
「もちろん。手伝う予定だったわけじゃないし」
「じゃあ、夕方までに用事を終わらせよう」
俺は買い物袋を持ち上げた。朝食と昼食、それに翌朝の分を買えば、途中で家へ戻る必要はない。ミルカは店に並んだ小さな髪飾りを見ていた。布の花と細い留め具を合わせたもので、服と同じ紺色がある。
「これ、どうかな」
彼女が俺へ持って見せた。紺に細い白の縁がついている。
「似合うと思う」
「まだつけてないのに」
「色が」
「色だけ?」
ミルカは口元を少し曲げ、髪の横へ当てた。俺は正面を向いている彼女を見た。銀色に、紺の花が一つ置かれる。その小さな差だけで、普段の髪の長さが違って見えた。
「つけた方が、もっといい」
「じゃあ、こっちにする」
他の色へ戻らなかった。自分の財布から代金を出し、店の人に留めてもらう。俺は荷物袋を持ったまま待った。
贈ればよかっただろうか、と後から思ったけれど、買った物を嬉しそうに触る彼女へ、今さら俺が代金を出すのも変だった。今日は似合うと伝えられた。それで、いいことにした。
夕方、家の前でミルカを待った。俺は買ったばかりではないが、洗ったシャツを着ている。彼女もいつもの紺のワンピースだった。灰色の上着の代わりに、薄い白の肩掛けを持っていた。
扉が閉まると、彼女は鍵をしまい、俺の前へ来た。
「どう?」
「朝より、よく見える」
「花?」
「花も。服も」
最後を付け足す時、俺は言葉を詰まらせた。言わなければ何も始まらないのに、言うと全部伝わってしまいそうで困る。
ミルカは髪飾りを触った。
「これ、取れそうになったら教えて。飛ぶ時には外すけど、歩く時は大丈夫なはずだから」
「分かった」
市へ行く道は、人の流れが一つになっていた。普段は荷車の通る川沿いが、今日は歩く人だけの道になる。大きな飛行船の船員も、近くの町から来た家族も、一緒に灯りの下を進んでいた。
俺たちは最初にセナの店へ寄った。夕方にはほとんど売り切れていて、店先には小さな包みが二つだけ残っていた。
「これは予約。あんたたちの分」
セナが前掛けを外しながら言った。
「頼んでないよ」
「昨日の顔を見たら、今日来るの分かるから。代金はいる」
俺とミルカはそれぞれ財布を出した。旅の土産と違い、今度は持ち帰る相手の札がない。
「海のお母さん、喜んでた?」
「うん。札も取ってた」
「あれまで? 次、もっと丁寧に書こ」
セナは笑って、露店の並ぶ方へ顎を向けた。
「茶なら、橋の手前に出てる。うちは片づけが終わったら行くから、待たなくていいよ」
彼女が皿を奥へ運ぶのを見送り、俺たちは人の多い道へ出た。ミルカが俺の袖をつまむ。
「こっち。橋の手前に出るなら、細い道の方が」
「近い?」
「混まない」
近道とは別の価値だった。
細い道にも灯りが吊るしてあった。日がまだ残っている時は、赤い紙の色だけが見える。俺たちはそこで川桃の菓子を一つずつ食べた。手のひらに残る粉を、ミルカが払う。
「ハルト、それ、口についてる」
自分の唇の端を指した。俺が同じ所を拭くと、違う方、と言う。
「こう?」
「反対」
ようやく取れると、彼女は声をこらえて笑った。
「今度は私が取る番だったのに」
途中の停泊地で、髪を避けた時のことだろう。俺は拭った手を下ろした。
「じゃあ、次は」
「次もつけるつもり?」
「そういう意味じゃなくて」
何を言っても、笑われる方へ行く。ミルカは紙の袋を小さく畳み、俺の袋に一緒に入れた。
橋の手前には茶と温かい豆の露店があった。食べ物を選ぶ間に日が沈み、吊るされた覆いの中へ、小さな光が入れられていく。火を使うものと、石を使うものがあり、光の色も少し違った。
川面に灯りが揺れた。浮きクラゲの光は、もっと下流に細く集まっていた。誰かが追って船を出そうとしていたが、係員が岸から見るよう声をかけている。
俺たちは豆を買い、橋を渡る人の邪魔にならない所で分けて食べた。ミルカが匙を持つ手に灯りが当たり、指先が赤く見える。
「これ、好き」
「漬物と一緒だと、もっといいかも」
「家にある」
「持ってくればよかったな」
「また食べる理由になるから、いいよ」
彼女はそう言って、俺の方へ器を寄せた。最後の豆を、俺が食べる。
暗くなると、川沿いへ人が増えた。ミルカは俺の袖をつかみ、細い道から出る所で立ち止まる。
「ちょっと、前が空くまで待とう」
俺は人の流れを見て、彼女が入れる隙間を探した。手を伸ばすと、ミルカの指が袖から離れた。
「手、つないでもいい?」
聞くと、彼女は俺の手を見た。それから、俺の顔を見た。
「人が多いから?」
理由としては、それが一番説明しやすかった。けれど今日は用事がなくても一緒に出てきた。席を取ってほしい理由も、もう聞いている。
「それもあるけど。つなぎたいから」
俺は、言ってから手を引かなかった。ミルカが薄い肩掛けを片方の腕へかけ、空いた手を重ねた。
「じゃあ、少なくなっても離さないで」
「分かった」
手のひらの温度が、袖越しと違った。俺の指の間へ彼女の指が入り、握る強さを二人で変えた。歩き出す時、ミルカは自分の足元を見ていた。
橋を渡る間は、話が少なくなった。俺は前を見るふりをして、川の灯りよりつないだ手を気にしている。彼女の歩く速さへ合わせると、少しだけ肩が近づいた。
橋の先で人が散った。川沿いに空いた腰掛けを見つけ、二人で座る。ミルカは手を離さなかった。俺も離さず、空いた方の手で包みを膝へ置いた。
「少なくなったね」
「うん」
「離さないんだ」
「そう言われたから」
ミルカがこっちを見たので、俺は慌てて続けた。
「言われなくても、離したくない」
「後から付け足した」
「大事な方を後にした」
彼女は口元を緩め、つないだ手を二人の間へ置いた。その時、袖が少し下がって、手首の細さが見えた。俺の時計の留め具が彼女に当たらないよう、位置を変える。
「それ、お父さんが直した時計だよね」
「うん」
「手をつなぐ時にもあるんだ」
「外してた方がいい?」
「そうじゃない。向こうのものと、こっちのものが、近くにあるなって」
ミルカは時計に触らなかった。ただ、その隣の俺の手を、少し強く握った。
その時、研究所で声をつないだ日のことを思い出した。家族に帰りたい気持ちを話しても、この手を離さずにいられるだろうか。彼女が俺を送り出したいと言った時と、寂しいと言った時の顔は、同じ人の顔だった。
俺は、今日ここへ来てよかった、と伝えた。
「私も。灯り、ちゃんと見てる?」
「見てるよ」
「さっきから、こっちばかり見てる」
指摘されると、否定できなかった。ミルカは自分の頬へ空いた手を当てた。
「何かついてる?」
「ついてない」
「じゃあ、いいけど」
いい、と言ったまま、彼女も川の方へ顔を向けた。灯りが銀髪の上を動き、朝に選んだ花の白い縁が、暗い所でも見えた。
帰りは、同じ橋を渡った。茶の露店は片づけを始め、セナは別の職人たちと話していた。俺たちに気づいて片手を上げたが、つないだ手を見て声をかけたりはしなかった。
家へ戻ると、玄関でようやく手を離した。鍵を開けるためだった。ミルカは鍵穴へ一度入り損ねて、小さく息をついた。
「暗いから」
「うん」
「見ないで」
「鍵を?」
「顔」
俺は扉の上の鐘を見た。さっきまで、顔を見ていてもいいと言われた気がするのに、今は駄目らしい。
中へ入り、灯りをつける。ミルカは髪飾りを外し、包みに入れた。俺が台所から二つ湯飲みを取ると、彼女が食卓へ座った。
「これ、今度もつける」
「うん。見たい」
ミルカは包みを卓の端へ置いた。俺が湯を注ぐ間、さっき離した方の手を膝で握ったり、開いたりしている。
俺も似たようなことをしていたので、見なかったふりをした。今日は、手をつなぎたいと言えた。その言葉より先のことは、まだ喉の近くに残っていた。




