第17話 帰り道で言えなかったこと
灯り市の翌朝、ミルカは髪飾りをつけていなかった。台所では袖をまくり、鍋の中の豆を木の匙で混ぜている。
俺が階段を下りると、いつものように顔を上げた。
「おはよう。眠れた?」
「うん」
「私、少し寝るの遅くなった」
「俺も」
理由を詳しく言わなくても、二人とも分かっている顔だった。
朝食の後は、帰港した家の片づけをした。フェルネで見つけた床の割れの位置を紙へ書き、荷物棚へ目印をつける。ミルカは風晶を充填場へ持っていき、俺は洗濯物を干した。昨日つないだ手も、今日は普通に濡れた布を絞る。
昼、ラウラさんに椅子の仕事の残りを手伝わせてもらった。張られた座面を上から押し、古い枠と新しい布の間を確かめる。俺が最初に引いた帯は残っていた。自分がやった所だけを褒めてほしくて見てしまい、慌てて別の椅子も見た。
「明日も来られるか」
ラウラさんが聞いた。
「はい。午前なら」
「では、その間だけ。午後はうちの仕事で外へ出る」
仕事をもらえると、予定が一つ増える。俺はそれをミルカへ伝えるため、夕方、少し急いで家へ帰った。
彼女は食卓で、祖母の帳面の地図を写していた。北の港の名前を、今の地図と比べている。
「そこ、名前が変わった所?」
「うん。おばあちゃんが書いた年の後に、係留場が川の向こうへ移ったんだって」
「道も違うのか」
「陸の道は一緒。でも、家で下りる場所は違う」
俺は椅子へ座り、彼女の地図の空いた端を見た。自分の帰る場所は、その紙には載っていない。載っていないからといって、二人の予定から外れたわけでもなかった。
その日は研究所から手紙は来なかった。
次の日の午前、ラウラさんの修理場へ郵便の小舟が着いた。テオが荷物を二つ下ろし、その後で、封のされた細長い紙を持ってきた。
「ハルト宛。こっちはラウラ宛。研究所から二つある」
俺は作業台から手を離した。工具を片づけてから受け取る。その一呼吸の間に、心臓の音が大きくなった。
「読める所だけ先に読んでみるか?」
ラウラさんが尋ねたが、俺は首を振った。
「ミルカと一緒に聞きたいです」
「なら呼んでこい。昼まではいる」
テオが俺の隣で、自分の手袋を直した。
「家は今の石台だな。俺が行く。お前、その顔で走ったら、道にいる人まで急がせるぞ」
「ありがとう」
「手紙が来たって言うだけ。中身は知らないからな」
彼はそう確認して、港へ戻った。何かを察して勝手に良い知らせだと伝えない。その慎重さがありがたかった。
しばらくして、ミルカが来た。上着を着た時に髪が一筋中へ入ったらしく、肩の所を手で探している。俺が手を伸ばしかけると、彼女は自分で引き抜いた。
「来たんだね」
「うん。まだ読んでもらってない」
事務室で椅子を並べ、ラウラさんに手紙を開いてもらった。エルネストさんの字は、ミルカでも慣れない部分があるらしい。最初に図と数字を見て、それから本文へ戻る。
時計の痕を測った値と、前回の音声接続で得た値を合わせると、風脈が強く重なる時期の見込みが立った。初回の人体通過を試せる日は八日後。ただし天候と当日の観測で中止することがある。
通り道を開けるのは、約二十分。そこへ置く標石を、向こう側へ運ぶ必要がある。運べれば、こちらの石と同じ周期で働かせる見込みがある。周期はおよそ三十日で、一度閉じたら、翌日また開けることはできない。
ラウラさんはそこで読むのを止めた。
「ここまでは分かったか」
「はい。最初に俺が石を持って向こうへ行くんですね」
「書いてあるのはそうだ。向こうで置く場所も確認する。勝手に走って家へ帰る試しじゃない」
続きには、初回は標石を設置した上で、開いている間に戻る短い試験を推奨するとあった。戻る義務ではなく、繰り返し通れることを確かめるための手順だ。
次の月の窓を使って家へ帰れば、こちらへ戻るのはさらに次の窓になる。長く向こうで暮らすこともできるが、戻るには石を置いた塔へ行かなければならない。
ミルカは紙の図へ指を置いた。
「これ、家は通れないんだよね」
「人と、持てる荷物だけ。家の大きさは無理だ」
「うん。北へ行くなら、戻る日にはサイラにいないと」
彼女はすぐ旅の地図を考えた。俺が帰れるという話を、自分の予定に入れようとしている。
でも、声の最後は、少し硬かった。
「人は、ハルト以外でも?」
ラウラさんは別の手紙を見た。
「漂着者の痕は場所を特定するためで、通る人間を選ぶ鍵ではない。ただ、最初の実験には誰でも入れない。安定と、双方の管理を確かめてから相談する」
ミルカは頷いた。俺の家族に会えるか、という問いはまだ言っていなかったけれど、その可能性も、今初めて具体的な形を持った。
手紙を最後まで読み、俺たちは六日後にサイラへ向かうことにした。一日で着けなくても間に合うよう、前日ぎりぎりの移動はしない。返事には、初回の短い往復を希望すると書いてもらった。
向こう側にも声で知らせる準備がある。先に管理人と連絡を取って、家族が塔へ来られるか確認する予定だという。母が待っていた場所が、いよいよ、俺が立てる場所になる。
修理場を出ると、昼の光が眩しかった。ミルカは紙を俺の袋へ入れ、紐を引いた。
「なくさないようにね」
「うん」
歩き出してから、二人とも少し黙った。帰れる話は嬉しい。試す日が決まったのも嬉しい。けれど昨日、俺が彼女の手を握っていたことは、手紙に書かれた日付から離れていなかった。
市場の角で、ミルカが足を止めた。
「パン、買って帰る?」
「うん」
「じゃあ、私は野菜見てくる」
いつもなら一緒に選ぶ。今日は分かれて買い、店の前で合流した。ミルカの袋には、俺が好きだと言った焼き野菜用の根菜が入っていた。
家で昼食を用意する時、俺は包丁を握ってから、うまく野菜へ刃を入れられずにいた。彼女が鍋の火を落とす。
「今、切らない方がいいよ」
「そうだね」
俺は包丁を置いた。ミルカも隣に立ったまま、まな板を見ていた。
「帰れるって聞いて、よかったと思った」
彼女が先に言った。
「うん」
「でも、帰り道、何を話せばいいか分からなかった。嬉しいね、だけ言うと、違う気がして」
俺は彼女へ向いた。
「俺も、ありがとうしか出てこなかった」
「それも、変」
「変だね」
ミルカは唇を軽く結んだ。
「帰ってほしくない、って言ったら、困る?」
その問いを、俺は少し考えた。言われたら帰れなくなる、という返事は違う。彼女に、それほどの重さを持たせたくない。
「……帰るのは、やめられない」
口にしてから、問いへ答えていないことに気づいた。ミルカの手がまな板から離れる。
「今、やめてって言った?」
「違う。そうじゃないね」
彼女は鍋の方を向いた。俺はその横顔へ言葉を足しかけ、何を言っても、言い直しだけになりそうで黙った。火を落とした鍋の底が、小さく鳴った。
「ごめん。日が決まった途端、俺、説明することばかり考えてる」
「私も、よかったねって言えたらと思った。でも、今日は無理みたい」
ミルカは匙を鍋へ入れ、固まりかけた豆を一度混ぜた。それから、こちらを向いた。
「寂しい。それだけなのに、帰る話をしてるハルトに言うと、別のことになる気がした」
「俺が、別のことにした」
返事をすると、彼女は少しだけ頷いた。
「一回だけなら、まだいい。試して戻るって分かってるから。でも、その後、本当に帰る時は、一月とか、それより長く会えないんでしょ」
「多分、一度は向こうで、そのくらい過ごすと思う。家族に話して、大学や仕事のこともちゃんとしたい」
「うん。必要だと思う。でも、今はすぐ、楽しみだねって言えない」
彼女はまな板から手を離し、自分の指を重ねた。
「分かってても、寂しいのは消えないね」
「俺も、君と会えなくなるのは寂しい」
そこは、言わなければ伝わらない。俺は彼女の目を見た。
「帰る話をする時に、君のことを考えてないわけじゃない。昨日の手も、忘れたわけじゃない」
ミルカの顔が少し赤くなった。
「忘れてたら、怒る」
「忘れられないよ」
言ってから、俺も目をそらしたくなった。彼女はまな板へ視線を落とし、切りかけた野菜を鍋の方へ寄せる。
「今日は、どっちが切る?」
「俺。もう大丈夫」
「じゃあ、私は焼く」
野菜を切ると、最初の一切れだけ厚くなった。ミルカは何も言わず、薄いものと分けて鍋へ入れた。食卓でも、いつもより言葉は少なかった。俺たちは帰還の日を変えなかったし、彼女の寂しさも、食事が終わっただけで消えたわけではなかった。
午後、俺は余った紙へ、向こうへ帰ったら話すことを書いた。母に、探してくれてありがとうと言う。父に仕事の道具を返す。妹に勝手にいなくなってごめんと言う。大学へは、一度自分で問い合わせる。
その下で鉛筆が止まった。
ミルカの名前を書いた。日本の文字だと、彼女には何て書いてあるか分からない。
隣で地図を見ていたミルカが、紙へ目を向けた。
「それ、向こうへ持っていくの?」
「うん。話しそびれたくないこと」
「いっぱいある?」
「結構」
彼女は紙をのぞこうとせず、俺の鉛筆を見た。
「私のことも、話す?」
「話す。家族は声しか知らないから、どんな人か、ちゃんと伝えたい」
「塩の話は、しなくていい」
「分かった」
「あと、私がお菓子を食べる話も」
「それは普通の話じゃない?」
「セナの札の話をするなら、ハルトも食べたかったって言って」
俺は笑い、紙の余白へ、甘いものが好き、と書いた。
ミルカは俺が何を書いたか分からず、少し不安そうな顔をした。けれど俺がそのまま紙を畳まずにいると、自分の帳面へ戻った。
まだ家族へ伝える呼び名は、救ってくれた人か、一緒に暮らしている人だった。灯り市で手をつないだ人、と言うには、俺と彼女の間で先に伝える言葉がある。
俺は紙の空いた所へ、もう一行だけ書いた。帰る前に、それを日本語でだけ書いて終わりにしたくなかった。




