第19話 ただいまを言うために
サイラへ行く前日、俺はミルカに三十リルを返した。
食卓へ小さな袋を置くと、彼女は最初、旅の共同費だと思ったらしい。手元の帳面を開きかけた。
「服の分。借りてたものだから」
「もう、揃ったの?」
「修理場の仕事と、フェルネの調整の分を合わせて。共同費は別に取ってある」
大きな仕事をしたわけではない。できる所をやり、少しずつ払ってもらった。服の借りを返しても、ミルカと暮らした日が全部清算されるわけではない。そのことは、俺も彼女も分かっていた。
ミルカは袋を受け取り、財布へ移した。
「ありがとう。じゃあ、服は全部、ハルトの物だね」
「最初から着てたけど」
「うん。でも、そう言っておく」
彼女は笑い、共同費の帳面を閉じた。
旅の荷物は前より少なかった。家へ積んでおく物はそのままで、実験に持っていく袋だけを整える。腕時計と、向こうの財布、父の工具、話すことを書いた紙。初回は短い試験なので、食料も着替えも持ち込みすぎない。
スマートフォンを起動すると、残りは三パーセントになっていた。画面の中の家族写真も、見晴らし台で撮ったミルカの写真も残っている。
「向こうで、充電できるよね」
ミルカが言った。
「うん。最初は塔に行くだけだから、家の充電器を持ってきてもらえたら」
「写真、なくならない?」
「電池が切れても、普通は残る。このまま壊さなければ」
俺は電源を切った。今度は、そこで見られなくなることを、終わりだとは思わなかった。
翌朝、ツバメの家はアルトを離れた。途中で一度休み、陽が残っているうちにサイラへ着く。ミルカは今日も風の状態を見て速度を変えた。俺が帰るための大切な旅だからといって、無理な操縦にはならない。
研究所へ着くと、エルネストさんは待合の椅子から立った。前より髪が乱れていたが、机の上の道具は整っている。
「間に合いましたね。今日は説明だけ。明日の朝に、もう一度、向こうへ声をつなぎます」
俺は腕時計を外した。彼はすぐには取らず、俺の手元で時間を確かめる。
「これを失わせるための試験ではありません。痕は場所を探すために使います。通過の際も、あなたが着けたままで」
「よかったです。父が直した物なので」
「はい。前にも聞きました」
エルネストさんは頷いた。説明を覚えてくれていることが、嬉しかった。
標石は、一人で抱えられる大きさだった。掌に載せるには大きいが、背負い袋へ入る。角を布で覆い、向こう側へ着いたら、指定した向きで置く。塔の階段の壁が接触点なので、管理人に場所を確保してもらう。
戻る道は、石を置く前から開いている同じ通り道だ。ただし向こう側で位置を動かすと、見え方が変わることがあるので、管理人と一緒に決めた位置を離れない。装置は両側を保つためのものだが、最初の開放を無条件に保証できるわけではない。
「もし途中で閉じたら?」
俺が尋ねると、エルネストさんは紙の数字を指した。
「向こうで待っていただきます。標石の働きを確かめながら、次の周期に合わせます。あなたの身体を引いて戻す仕組みではありません」
「向こうの家族の所にいることはできますね」
「はい。ですから、今回はそちらにも迎えをお願いしてあります。事故を想定して、帰る場所を空にしない」
ミルカは俺の隣で聞いていた。彼の説明が終わるまで口を挟まず、最後に、試験の中止判断について尋ねた。エルネストさんは、通過前の観測で基準を満たさなければその日は開かない、と答えた。
どんな結果でも恋が試される、という話ではない。測って、できる範囲でやる。できなければ次を考える。俺たちは説明を最後まで聞き、紙へ署名した。
翌朝の音声接続は、前より長く保てた。
管理人の声の後に母が出た。俺は、明日、短い試験をする予定だと伝える。母はすでに研究員から概要を聞いていたが、俺自身から聞くと、何度も同じ部分を確認した。
「帰ってくるの?」
「塔の所に出る。最初は、石を置いて、短く戻る試験になる」
「また、そっちへ戻るの?」
「うん。繰り返し通れるか確かめたいから。その次に、ちゃんと家で過ごす時間を取りたい」
母が黙った。昨日ミルカが聞いた時とは、別の沈黙だった。
「今度は、いなくなる前に言ってるんだね」
「うん。いつ戻るつもりかも、話す」
「分かった。お父さんと真帆も連れていく。管理人さんに、場所は聞いてるから」
俺は家族の名前を聞いて、喉が詰まりそうになった。母だけではない。父も妹も、明日、塔へ来る。
「充電器、持ってきてもらえる?」
「携帯の?」
「うん。向こうで撮った写真がある。まず、見せたい」
「分かった。そんなの、何本でも」
「一本でいいよ」
母が少し笑った。笑う声は、前の短い接続の時より近く聞こえた。
通話が終わる前に、俺はミルカと恋人になったことを伝えた。隣にいる彼女が、俺の袖をつまむ。
母は、あの女の子と、と言った。それからすぐに答えを求めず、会ってから聞く、と言った。
「ちゃんと、ご本人にもお礼を言いたい」
ミルカが一歩前へ出た。
「ハルトが無事に帰れたら、私も嬉しいです。明日は、こちらで待っています」
母は、その声にもありがとうと伝えた。俺とミルカが袖の所で重ねた指は、通話が終わるまで離れなかった。
試験の日、研究所の庭は静かだった。人が集まる催しではない。装置の前には必要な研究員だけが立ち、ミルカは低い柵の内側、指定された位置にいた。
俺は標石の入った袋を背負い、時計の針を見た。エルネストさんは石の数字と、俺の時計が進む幅を、もう一度確かめている。
空気の中に薄い線ができた。塔で見たものと似ていたが、あの時より輪郭が分かる。向こう側に、濃い灰色の壁が見えた。
「開きました。急がず、足元を見て」
声を聞いてから、俺はミルカへ向いた。
「行ってくる」
「行ってらっしゃい」
彼女は無理に笑っていなかった。けれど俺の目を見て、頷いた。
「戻ったら、話してね」
「うん」
俺は線の向こうへ足を出した。落下の感覚はなかった。一歩目は石の階段だった。空気の匂いが変わり、古い埃と、川の湿り気が鼻へ入った。
目の前に母がいた。いつも仕事へ着ていく薄いブラウスの襟が、片側だけ内へ折れている。肩までの黒い髪にも寝癖が残っていた。身長も顔も、写真の中で知っていたままだ。それなのに目の下の影が濃く、俺を見つけた目だけが大きく開いた。
俺の名前を呼んでから、言葉が止まった。手が俺の肩へ来て、腕へ移り、顔を確かめる。
「本当に、晴人」
「うん。ただいま」
その返事を言い終える前に、母が俺へ抱きついた。俺も腕を回した。ミルカの髪の匂いと違う、家で使う洗剤の匂いがした。
「ごめん。心配かけた」
「今、言わなくていい。後で聞くから」
母はそう言ったのに、離れた時には目が濡れていた。
背後から、父が近づいた。短く刈った黒髪に白いものが混じり、額の横に眼鏡のつるの跡がある。頬が以前より少し細いが、歩く足はしっかりしていた。退院した頃に俺が荷物を全部持った時、黙って一つ取り返した人だ。今日は何も持たず、俺の背負った袋と顔を交互に見ている。三枝家具の作業着ではなく、襟つきのシャツを着た父と会うのは久しぶりだった。
「怪我は」
「ない。指を少し擦ったけど、もう治った」
俺が手を見せると、父は小さく頷いた。
「帰ってきたなら、まず座らせたいが。今は忙しいんだな」
「石を置く試験がある。時間も短い」
「じゃあ、それを先にやれ。ここにはいる」
父の隣には、妹の真帆がいた。肩へ届く髪を一つに結び、いつも額へ出す前髪を今日は全部上げていた。俺より頭一つ近く低い。高校の鞄ではなく、普段の小さな鞄の紐を胸の前で握っている。家では食卓へ座るなり話し始める妹が、俺へ何か言う前に、二度唇を開いた。
「お兄ちゃん」
「真帆。ごめん」
「ほんとだよ」
彼女は怒った声で言った。目は母と同じように濡れていた。
「学校で、何て言えばいいか分かんなかった。お兄ちゃんがいなくなったって、変な話になって」
「うん」
「帰ってきたら、ちゃんと話して」
「話す」
真帆は袖で目を拭き、俺の背の袋を指した。
「それ、落とさないで。今、すごく大事なんでしょ」
「そう。ありがとう」
管理人が、階段の広い所を空けてくれた。俺がいなくなった日は見ていないが、その後、家族が何度も来ていたことを知っている人だった。
「ここでいいと、昨日聞いた。人が入らないようにはできる。掃除の時にも動かさない」
「お願いします」
俺は布から標石を出し、指定された向きへ置いた。向こうにある研究所の声が、細い線から届く。エルネストさんの指示に合わせ、石を壁から離したり、回したりする。
父は手を出さず、俺が置く位置だけを見ていた。知らない道具の専門家にはならない。でも、転がりやすい所へ置いていないかは分かる。
「底は平らか」
「うん。大丈夫」
石が安定すると、線の輪郭が少しはっきりした。俺は時計を見る。まだ決めた時間の半分も経っていない。
母がスマートフォン用の充電器を出した。塔の管理室から電源を借りられる。長いコードを足元へ渡さないよう、管理人と父が壁沿いに通した。
俺は携帯をつなぎ、電源を入れた。写真の一覧が開く。母は画面を見て、まず、空にある家を何度も見た。
「本当に、家が飛ぶんだ」
「うん。この家に住んでる」
次に、見晴らし台のミルカを見せた。銀髪が光の中へ流れ、少し驚いたようにこちらを見ている写真だ。母が静かに息をついた。
「この子が」
「ミルカ。二十歳。家を飛ばす仕事をしてる」
父は画面の背景へ目を向け、それからミルカの顔を見た。
「お前と、笑ってるな」
次の写真は、二人で撮ったものだった。俺の肩の隣に、彼女がいる。真帆が画面を近くでのぞく。
「お兄ちゃん、顔が固い」
「撮り慣れてなかったから」
「この子の方は、楽しそう」
「俺も楽しかったんだよ」
言ってから、俺は息を整えた。
「俺、向こうでこの人と一緒に暮らしてる。家に帰りたいのと同じくらい、向こうへ戻って一緒にいたいと思ってる」
母はすぐに賛成とも反対とも言わなかった。俺の画面を見たまま、短く頷いた。
「それは、ちゃんと家で話そう」
「うん。次の窓で帰って、一月、家にいたい。大学にも店にも、自分で話したいから」
「一月あれば、話せるね」
母が答え、父も頷いた。真帆だけは、今日はもう帰るの、と聞いた。俺は向こうへ戻る理由をもう一度伝える。
「もう一回通れることを確かめたい。いなくなるためじゃなくて、帰れるようにするため」
真帆は唇を結んだ。
「じゃあ、次も来て。言った日、ここに来て」
「来る」
俺は時計を見た。研究所から、予定した帰路の確認を始める声が届く。まだ余裕はあるが、残り全部を家族との会話に使うわけにはいかない。
母ともう一度抱き合い、父の手を握った。父の手のひらは、自分よりずっと硬かった。
「時計、動いてるな」
「うん。向こうでも動いてる」
「そうか」
父は時計を見るのをやめ、俺の顔を見た。
「次は、飯を食べていけ」
「うん」
真帆には、触っていいか尋ねる前に肩を叩かれた。俺も軽く肩へ手を置いた。
「またね」
「また。ほんとに」
管理人へ礼を言い、俺は線の前へ戻った。母が見ている。今回は家族の目の前で、行き先を伝えて歩く。
「行ってきます」
家族の返事を聞いてから、俺は研究所の庭へ足を出した。
ミルカが、待っていた位置から歩いてきた。走らず、装置から離れた所で俺を見た。俺が袋を下ろすと、彼女は両手を伸ばした。
「お帰り」
「ただいま」
今度は俺から抱きしめた。彼女の腕が背へ回る。短い試験だったのに、向こうへ戻れるか分かるまでは、彼女も怖かったのだと思った。
しばらくして離れると、エルネストさんが観測の結果を知らせた。両側の石は同じ周期に合わせられた。次の開放は約三十日後。時刻の細かなずれはその前に計算し直すが、石を向こうへ運べたことと、同じ窓の中で往復できたことは、今日確認できた。
俺はお礼を言った。研究がすべて終わったと言う人はいなかった。次の観測も必要で、標石の管理人への説明も続く。けれど、帰り道は、理論だけのものではなくなった。
家へ戻る途中、ミルカは母と父と妹のことを順に聞いた。俺は答えながら、父の時計の言葉を話した。真帆が俺の写真の顔を笑った話もした。
「私も見たかった」
「今度、写真を撮ってくる。充電器も戻してもらえるようにしたし」
「うん」
彼女は俺の手を取った。
「最初は、家族とちゃんと過ごして。そのあと、私も会いたい」
「会ってほしい。母もお礼を言いたいって」
「それは、声でも言ってもらったから。今度は、ハルトの好きなものを教えてもらいたい」
俺は頷いた。救ってくれた恩人としてだけでなく、俺の恋人として家族に会う。その順番を、彼女が自分で言ってくれた。
玄関を開けると、小さなツバメが揺れた。ミルカが鍵を掛け、俺が靴を脱ぐ。食卓には二つの椅子が並んでいた。
次の三十日の間に、俺たちは北へ短い仕事の旅をした。まだ光の輪までは行かず、ベル村でニナに会い、以前教わった薄いパンを今度はこちらで焼いた。アルトへ戻ると、ラウラさんに床を見てもらい、長い旅に備えて割れのある板を交換した。俺は手順を見て、できる所だけ手伝った。
季節は少し進んだ。帰ってきた母の顔を、家の中で何度もミルカへ話した。彼女からも、母親へ送った手紙の返事を読んでもらった。エダさんは、まず二人とも朝ご飯を食べるように、と書いていた。
次にサイラへ向かう朝、ミルカは俺の服を一月分、袋へ詰めすぎようとした。向こうには自分の服があると伝えると、一本だけ紐をほどく。
「そうだった」
「君が貸してくれた服は、持っていく」
「もう、貸してない」
「買ってくれた服。返した服じゃなくて」
言い直すと、彼女は一枚を畳み直した。
「お母さんに、これを着てたって見せて」
「うん」
別れの日は、最初の試験と同じ庭に来た。今日は袋が少し大きい。家族の所で一月過ごし、さらに次の窓で戻る。日にちは二人とも紙に持った。
ミルカは俺の上着の襟を直した。直す所がなくなっても、指が少し残った。
「寂しいけど、行ってらっしゃい」
「俺も寂しい。帰ってくる」
「待つだけの一月にはしないよ。仕事もするし、フェルネにも手紙を出す。北の地図も、もう少し調べる」
「戻ったら、聞かせて」
「うん。ハルトも、話すものを持ってきて」
俺は彼女へ短く口づけた。事前に聞いたら、彼女が少し笑って頷いたからだった。離れた後、ミルカは上着を整えるふりをもうしなかった。
手を離し、俺は通り道へ向いた。
家族の元へ帰るのは、彼女を忘れるためではない。俺が元の暮らしを自分で引き受け、その上で彼女に会いに来るためだった。




