第20話 銀髪の魔女の家には帰り道がふたつある
玄関の鍵は、俺の持っていたもので開いた。
塔で家族と合流し、車で帰ったあと、母が俺へ開けるよう言った。父は鞄を持ち、真帆はその隣で待っていた。
鍵を回すと、いつもの音がした。扉が少しだけ重い。梅雨が過ぎ、暑くなっていたので、木の枠が湿っているのかもしれない。
「ただいま」
家へ向かって言うと、母が後ろから、お帰り、と答えた。
俺の靴を置く場所は空いていた。階段の上の自分の部屋も、机に置きっぱなしの本も、そのままだった。父が頼んだ修理の図面は、もう別の人の手で作業が終わっていた。
夕飯には俺の好きな煮物が出た。母は魚も焼き、真帆がご飯をよそう。父は俺が昔使っていた湯飲みを出した。
食卓へ座ると、三人の顔が一度に見えた。誰も笑ってごまかさず、俺が箸を取るまで見ていた。
「いただきます」
俺が言ってから、皆も食べ始めた。
最初は食べ物の話だった。向こうの豆と根菜、海の魚、果物の名前。母は、俺が料理を覚えて帰ったことを驚きすぎなかった。
「自分でもやってたもんね。人に任せきりじゃなかったなら、よかった」
「うん。二人でやってた」
言うと、真帆がスマートフォンを俺へ向けた。
「この人、怒る?」
画面には、俺の携帯から送ったミルカの写真がある。
「怒るよ。俺が返事を変に遠慮した時とか」
「ずっと優しいだけ、って言われたら、逆に心配だった」
妹の答えは、妙に具体的だった。写真のかわいい女の子へ浮かれた話だけを聞くつもりではなかったらしい。
俺は、家へ帰ることを止められたことはない、と伝えた。研究所へ行く予定を優先してくれたこと、寂しいとは言ったこと、その後で自分の仕事の話もしたこと。
母が箸を止めた。
「あなたは、どうしたいの」
「ミルカと付き合い続けたい。向こうで一緒に旅をしたい。それから、大学には戻りたい」
俺は、欲しいことを並べただけで終わらせず、持って帰った紙を出した。
「全部同時にできるとは思ってない。今は三十日くらいごとにしか通れない。向こうへ行ったら、その間はこっちの用事に来られない」
「電話は?」
「門が開く時に声をつなげる。それ以外は、今のところできない。手紙も、その時に持って渡す」
父が湯飲みを置いた。
「店の手伝いは、毎週来る約束にはできないな」
「うん。復学までの間に、行ける日だけ手伝うって、ちゃんと言い直したい。俺がいるつもりで予定を立ててもらったら困るから」
「それは俺の方で変えられる。お前がいなくなった間に、手伝ってくれた人もいる」
父は俺を見た。
「だが、大学は、向こうの風に合わせて授業が終わるわけじゃない」
「分かってる。春に復学する予定は変えたくない。その時は、こっちで学期の間を過ごす。向こうへは休みの長さを見て行く。ミルカとも、その話はする」
母はすぐに、なら安心、と言わなかった。俺が書いた紙を見て、次の窓の日を確かめる。
「それを、彼女も分かった上で続けたいと思うか、聞くのね」
「うん。俺だけで決めない」
「家族に話せば全部よし、ではないからね」
その言葉に、俺は頷いた。俺の家族が許すことと、ミルカがどんな暮らしをしたいかは、別の話だ。
真帆が味噌汁を飲み、俺の紙の端を押した。
「私は、一か月会えないくらいなら平気。大学に行った時も毎日会ってたわけじゃないし」
言ってから、彼女は俺を見た。
「どこにいるか、帰ってくる予定があるか、分からないのが嫌だった。急にいなくなるの、もうしないで」
「しないようにする。日が変わる時も、分かったら知らせる」
「分からない時は、分からないって言って」
ミルカにも似たことを言われたと思った。相手の心配をなくすため、できない保証を渡しても役には立たない。
「そうする」
俺が答えると、真帆は魚の骨を皿の端へ置いた。
「あと、戻ったら写真。今度は固い顔じゃないのも」
「頑張る」
「そこ、頑張る所じゃないけど」
母が笑い、父も少し笑った。食卓に家族の笑う顔が戻る。俺は煮物の皿を取った。向こうの焼き野菜も好きになったけれど、これを食べたい気持ちは、別に消えていない。
翌週、俺は父の店へ行った。失踪していた間の連絡や手続きは、家族がしてくれた部分を聞き、自分の顔を見せて説明する必要のある所へも行った。大学には、復学の手順と来年度の予定を問い合わせた。向こうの生活があるからといって、何も言わずに戻れるわけではない。
店では、塔の管理人の椅子が直されていた。あの日、俺が寸法を取りに行くはずだった椅子だ。父はその座面を指した。
「来た時、壊れてたのはこっち。お前が持っていった工具だけじゃ足りなかった」
「見てから借りようと思ってた」
「そうか。見られなかったな」
父はそう言って、修理を終えた面を撫でた。俺が帰ったから、あの日を取り消すのではない。頼まれた仕事は別の人が終え、その椅子が今ここにある。
俺は自分の布袋を棚へ置いた。父に借りていた道具を、元の箱へ戻す。異世界で使ってきた小さなドライバーも、汚れを拭いた。
「これは、持っていっていい」
父が言った。
「店の物でしょ」
「お前が使ってる方が、置いとくより働く。向こうにも同じ道具があるなら、無理には言わんが」
「じゃあ、持っていく」
俺は布袋へ戻した。父は腕時計を見て、留め具だけ調整してくれた。塔へ帰った時にも見ていた、いつもの時計だった。
「その子は、まだ空を飛んでるのか」
「多分。運ぶ仕事をするって言ってた」
「お前がいなくても、できるんだな」
「うん。元から一人でやってた人だから」
「なら、お前が行くのは、手伝わなきゃ潰れるからじゃない」
「そう。一緒にいたいから」
父は俺の返事を聞き、少しだけ頷いた。
「それなら、仕事にして言い訳せずに話せ」
言った後で、店の扉の下を指した。俺はしゃがみ、戸が引っかかる所を見た。家の扉より古い癖があり、削る前に留め具を締めた方がよかった。
「ここ、持ってて」
父が言う。俺は扉を支えた。向こうで覚えたことを見せるためではなく、今ある仕事を二人でする。
作業の途中で、俺はミルカの話をした。海へ下りる前には無理をしなかったこと、荷物の扱い方を俺へ教えたこと、自分の家に好きな物を掛けると言ったこと。
父はねじを締めながら聞いていた。
「会ったら、まず家を見たいが。家は来られないんだったな」
「来られるのは人と、持てる荷物だけ」
「じゃあ、本人に聞く」
床を確かめたがるオスカーさんと、少し似ている。俺が笑うと、父は理由を聞いた。ミルカの父親の話をすると、そんなものだろう、と答えた。
大学の返事が来るまでには日がかかった。復学に必要な書類と、確認する窓口をメモした。来年度の細かな時間割はまだ決まっていない。
その週の終わり、俺は大学へ行った。学生証は家の机の引き出しに残っていた。門をくぐる時、久しぶりに鞄の中を確かめずに歩けた。窓口で相談を終え、演習室のある棟まで足を延ばした。
廊下には、学生が作った椅子や照明の写真が貼ってある。俺のいた班の展示はもうなかった。代わりに、箱を開ける時に蓋をどこへ置くかを調べた作品が並んでいた。俺は写真の前へ屈んだ。立ったまま使う時と、座って使う時で、同じ箱の見え方が違っていた。
「三枝?」
顔を上げると、演習で同じ班だった友人が立っていた。前は短かった髪が、耳にかかっている。腕に大きなボードを抱えていた。
「連絡、見た。戻ってきたんだな」
「うん。心配かけた」
「いや、こっちより家の人だろ。……何言えばいいか分かんないな。座る?」
俺たちは自販機の横のベンチへ座った。彼はボードを壁へ立て、缶のコーヒーを二つ買った。片方を渡され、俺は鞄の財布へ手を伸ばす。
「いいよ。それくらい。で、来年戻るの?」
「戻りたい。演習、どんなことやってる?」
彼は立てたボードを膝へ載せた。年を取って握力が弱くなった人でも使える、道具の収納を考えているという。俺は図の端にある取っ手を見た。低すぎる、と言う前に、自分の模型のことを思い出した。
「これ、座って引く?」
「そう。立っても使えるようにしたいけど、どっちでもって考えると、どっちにも微妙でさ」
彼は紙の上へ手を置き、引く仕草をした。俺も真似した。隣の缶が倒れそうになり、二人で止める。
「それ、前もやったな」
「俺の収納箱の時?」
「取っ手を直して、今度は蓋が開かなくなったやつ」
「そこまで覚えてなくていい」
笑うと、戻ってきたという感じが初めて、この場所でもした。父の店では、直した物を使う人へ渡す。ここでは、まだ形にならない物を並べ、使う場面から考える。俺はそれを、またやりたかった。
ミルカの台所で、塩の瓶を勝手に動かさなかったことを思い出した。自分には便利でも、使ってきた彼女の手には邪魔になる。向こうで覚えたことを、彼女への気遣いだけにせず、作る物へも生かしてみたかった。
「戻ったら、また一緒に作ろう」
友人が言った。休学する前と、同じ言葉だった。
「お前、もう別の授業に進んでるだろ」
「昼なら来られる日もある。まず戻ってこいよ」
俺は頷いた。門の周期に合わせて授業を抜ける計画では、この机に腰を落ち着けられない。春からは日本で学ぶ。それをミルカへ話す紙に、授業という一語だけでなく、今日見た図と、収納箱の話も書こうと思った。
家で過ごす一月は、待っているだけではなかった。母と買い物へ行き、真帆に写真の保存先を教えてもらい、父の通院にも一度付き添った。
ある晩、母が遅番で、俺が夕飯を作ることになった。台所で豆を煮ていると、味見の匙を二本出していた。一本を流しへ戻し、ひとりで鍋を見る。
湯気が上がるたび、ミルカが髪を耳へ掛ける仕草を思い出した。向こうでは今、夕飯なのか、まだ飛んでいるのか。時計を見ても、それだけでは分からない。言って帰った仕事は終わったかもしれないし、風待ちで予定が変わったかもしれなかった。
スマートフォンを出す。彼女の写真はすぐに見られたが、送る先はない。俺はメモへ「今日はこっちの豆で作った」と打ち、一度消した。紙に書き直すと、説明より先に、隣で味見をしてほしかった、と書いてしまった。
「お兄ちゃん、鍋」
真帆の声で顔を上げた。蓋の縁から泡が出ている。慌てて火を弱くし、彼女へ匙を渡した。
「味見、頼む」
「私でいいの?」
「真帆に頼んでる」
「はいはい」
妹は豆を一つすくい、熱い、と口を開けたまま笑った。俺も笑った。ミルカがいない食卓へ家族がいて、家族と笑っていても、ミルカの味見を聞きたい気持ちは残っていた。
帰ってきた母へ、向こうでは最初のスープの塩が多かった、と話した。母は一口食べて、今度は塩をちゃんと入れたね、と言った。
「その話、ミルカから聞いた?」
「あなたがさっき言ったの」
俺は自分で言ったことを、もう忘れていた。真帆が隣で笑う。
「惚気ると、何を言ったか分からなくなるんだ」
「そういうつもりじゃ」
「ミルカはここでこうする、ミルカはこう言った。ずっと出てくる」
自覚があるので、強く否定できなかった。母はスープをもう一口飲み、俺を見た。
「彼女に会えたら、この味でいいか聞いてみたいわ」
「違うかもしれない。向こうの豆と少し違うから」
「それも含めて」
母は異世界の話を聞く時も、ご飯の話を足場にしていた。俺が見たもの全部を、そのまま自分も見たことにはしない。ミルカと顔を合わせられる時が来たら、声と写真の向こうを自分で知りたいという。
研究所から事前に聞いていた条件では、今回の観測が問題なく終われば、ミルカの短い通過を相談できる。地球側の管理人にも、俺以外の人が来る可能性を伝えてあった。ただ、無条件に大勢が行き来する話ではない。塔の出入りと標石の管理を、両側が把握できる範囲で始める。
俺は母へ、もし当日可能なら塔で少し会ってほしい、と頼んだ。母は頷き、父も真帆も一緒に来ることになった。
帰る日が近づくと、寂しさはなくならなかった。家の湯飲みを洗いながら、次はこれを一月以上使わないのだと思う。向こうではミルカが、空いた椅子を見ているかもしれない。
俺は彼女へ話すことを紙へ書いた。家族のこと、大学のこと、店の仕事のこと。撮った写真も、携帯に保存した。電池が向こうで切れることはまだある。だから紙の写真も何枚か用意し、祖母にも見せられるよう袋へ入れた。
母は服を詰める俺を見て、食料の包みを一つ渡した。持っていく物は、研究所から説明された範囲を守る。何でも運べるわけではないので、小さな焼き菓子だけだった。
「ミルカさんと食べてね」
「うん」
「あなたが全部食べないように」
俺は包みの紐を見た。今度は、俺の方に見張りが必要らしい。
約束の日、俺は塔へ行った。最初に漂着してから、八十八日が経っていた。
父の車で向かい、家族と階段を上る。管理人が標石の前を空け、今日も触らずに置いてあると教えてくれた。
声が先につながった。エルネストさんが両側の時刻を確かめ、俺も時計の針を読む。前の二回と同じように、壁の前に薄い線が生まれた。
母が鞄を俺へ渡した。
「行ってらっしゃい」
「行ってきます」
今日は、どちらへ帰るのかを家族に尋ねられなかった。両方に俺の暮らしがあり、どちらから出る時にも、この言葉を使う。
俺は線を越えた。
研究所の庭に、ミルカがいた。灰色の上着に紺のワンピース、銀色の髪を後ろでまとめている。祭りで選んだ髪飾りは、胸元の小さな袋から出して、今日は髪につけてあった。
彼女は俺を見ると、一度だけ足を止めた。俺も立ち止まり、荷物を下ろした。
「ただいま」
「お帰り、ハルト」
顔を見て話したのは一月ぶりだった。写真の中の彼女は動かず、今目の前にいる彼女は、笑って俺へ近づいてくる。
抱き合うと、髪飾りが俺の頬に少し当たった。ミルカが離れようとしたので、俺は、痛くない、と伝えた。
「ちゃんと、戻ってきた」
彼女の声が、胸の近くから聞こえた。
「戻ってきたよ」
「分かってたけど、見たら、また分かった」
俺も同じだった。髪飾りが少しずれたのを、彼女が抱き合ったまま直そうとする。俺は腕を緩めた。写真にはなかった動きだった。
エルネストさんは、残りの時間を使ってミルカの通過を試せると知らせた。観測の値は基準内で、家族と管理人も向こうで待っている。本人の希望を、もう一度確かめる。
ミルカは頷いた。俺の手を取り、今度は自分が塔へ向かう。
「髪、変じゃない?」
「かわいい」
「そうじゃなくて」
「変じゃない。それも本当」
彼女は俺を見て、少し笑った。人と会うための緊張で、手を握る力が強くなっている。
俺たちは二人で線を越えた。
塔の階段へミルカが足を置き、壁と窓を見た。風の流れを探すように顔を上げたが、術は使わなかった。
「ここから、落ちてきたんだね」
「ここから、向こうへ出た」
彼女が俺の手を握り直した。母が近づき、名前を呼ぶ。
「ミルカさん」
「はい。ミルカ・レーヴェです。初めまして」
ちゃんと名乗ろうとしている声だった。母は俺を見る前に、彼女へ向かった。
「千佳です。晴人の母です。あの時、声を聞かせてくれて、本当にありがとう」
「私も、お母さんの声が聞けて嬉しかったです。ハルトが、ずっと話したいって言っていたので」
母は頷き、持ってきた小さな写真を渡した。家族の食卓の写真だった。俺が紙にしていたものとは別に、母も用意していた。
「こっちで、こういう所に座っていたの。向こうのご飯の話も、たくさん聞いたわ」
「ハルトも、こちらで豆を煮たんですか?」
「ええ。向こうのご飯に少し似せたかったんですって」
「味見はした?」
母が俺を見ると、ミルカも見た。
「しました」
二人へ答えると、真帆が笑った。
「真帆です。お兄ちゃんの妹。写真、すごくよく写ってた」
「ありがとう。私も、あなたの写真を見たよ」
ミルカは家族写真の時のことを話した。真帆は、今度は一緒に撮りたい、と言った。
父は最後に名乗った。ミルカの手を握り、風のない所でも家は飛ぶのかと聞く。彼女は飛べるが消耗が増える、と答えた。
「それなら、風のない日に休むのは、大事だな」
「はい。ハルトも、飛ぶ日に荷物を見てくれます」
「できる所で使ってやってください」
「一緒にいてくれる方も、嬉しいです」
ミルカは俺の隣で、はっきり言った。俺の家族の前だったので、顔が赤くなる。父はそこをからかわず、頷いた。
時間は短かった。写真を一枚撮り、次は地上を歩く時間も相談しようと話す。家族へ礼を言い、俺たちは開いている通り道の方へ戻った。
母が俺の名を呼んだ。
「次の日、決まったら、声で知らせて」
「うん。門の窓には研究所へ戻る。来ない月は、先に話す」
どちらに長くいるかは、毎回相談する。けれど連絡の予定は、何となくにしない。
ミルカが俺の家族へ手を振った。俺も振り、二人で庭へ戻る。通り道が閉じたあとも、俺の手には彼女の手が残っていた。
ツバメの家は、研究所の係留場で待っていた。青い扉を開けると、玄関の木の鳥が、前と同じ場所に掛かっていた。
食卓には、新しい地図と、俺の名前を練習した紙があった。ミルカは俺の服をしまう前に、椅子へ座って、と言う。
俺は茶を淹れようと台所へ向かい、棚の手前へ伸ばした手を止めた。茶の缶がない。代わりに、乾かした果物の皮の瓶があった。
「茶、切れた?」
「あるよ。左。ひとりで淹れる時、その方が取りやすかったから」
彼女は缶を取って俺へ渡し、元の場所へ戻そうとした。俺は手前の瓶を動かしかけて、やめた。
「そこでもいい。場所、覚える」
「でも、前はここだったでしょ」
「うん。今はそっちなんだね」
ミルカはしばらく缶を持ち、それから左へ戻した。俺は湯を沸かした。彼女は椅子へ座り、地図を畳む。前は俺の席まで広げなかった紙が、今日は少しはみ出している。
「ごめん。こっち、一月ずっと使ってた」
「分かる。机、広くなるよね」
そう答えると、彼女の手が止まった。
「……寂しかった話をしてるんだけど」
俺は湯飲みを置きかけたまま止まった。彼女も少し目を伏せた。
「広いからよかった、じゃなくて。地図を置けても、今日はこっちへ寄せたいの」
紙を半分に畳み、俺の椅子を引く。俺は湯飲みを二つ、近くに置いた。
「俺も、一人で味見したくなかった。向こうで匙を二本出して、片方戻した」
言うと、ミルカが顔を上げた。
「今度は、戻さなくていいよ」
「うん」
座った彼女の椅子は、以前より卓へ深く入っていた。俺が肘を置くとぶつかり、二人とも少し引き直した。ミルカは俺の腕を一度握ってから、手を膝へ戻した。
何から話すか決めてきたはずなのに、茶が淹れ終わるまで、俺は日本の豆の話しかできなかった。
「一月の間、二つ仕事をした。エノの方と、ベルの方。ニナ、今度は袋を一人で持ててたよ」
「会ったんだ」
「うん。ハルトは家へ行ったって話した。今度、写真を見せたいって言ってた」
彼女は自分の一月を、順に話した。仕事で飛び、風の荒れた日は泊まり、セナの店へも行った。俺のいない間を、全部寂しさの話にはしなかった。
俺も家族のことを話した。大学へ戻る予定を変えたくないこと、学期の間は向こうにいるつもりだということ。
ミルカは模型と大学の友人の話を、何度か聞き返した。どこへ戻りたいのか説明できたつもりでいた俺は、学期の間は日本で過ごす、と言ったところで声が小さくなった。彼女は地図の端を押さえた。
「私も、旅は続けたい。ハルトが学校にいる間、ずっとサイラで待つのは、できないと思う」
「うん。それは頼まない。でも、会う日を決めておきたい」
「私も。……学校って、夏になるまで休みがないの?」
「短い休みはある。でも、一月向こうにいられる長さか、まだ分からない」
ミルカは指で地図の川をたどった。今日会えたばかりの人へ、また会えない長さを話している。俺は持ってきた予定の紙を、彼女が見やすい向きへ回した。
「学校が始まる前に、分かる分を持ってくる。来られない月も、ちゃんと話す。今は、ここを空白にしておくしかなくて」
「空白、嫌だね」
「うん」
彼女は鉛筆を持ち、空白を囲みかけてやめた。
「今日決まらない所は、次に話そう。でも、待ってたらいつか決まる、にはしたくない」
「次の窓で連絡に戻る時に、もう一度。大学の予定がまだ来なくても、そこは話す」
ミルカは頷いた。紙を畳むまでに、少し時間がかかった。
「春までは、まだ一緒に行ける?」
「行ける。次の窓にはここへ連絡に戻って、それからまた旅に出る。風待ちの日も取れるように、帰りは寄り道を少なくしよう」
「じゃあ、まず北」
彼女は祖母の帳面を開いた。押し花を挟んだ頁も見せる。声が届いた日の記録の下に、俺が戻った今日の分を、二人で書き加えた。
母の焼き菓子を開け、茶をもう一杯淹れた。ミルカは包みを見て笑った。
「ハルトは食べない、って書いてない」
「俺も一緒に食べていいはず」
「じゃあ、分けよう」
隣に椅子を寄せて、彼女が座る。空いていた一月を無理に埋めるのではなく、今日はここにいる俺と、一つの包みを分けた。
北へは三日後に出た。水槽を満たし、食料を積み、ラウラさんに整備の最後の確認をしてもらった。見送りに来たセナは、長い旅用の菓子を袋へ入れ、途中で分けて食べるよう言った。
テオは郵便の仕事へ出る前に、北の港の風の情報を置いていった。俺は紙を読みきれず、ミルカに最後の一行を教えてもらった。文字の練習は、旅に出ても続く。
家が石台から離れる時、俺は窓の内側から手を振った。人々が小さくなる。ミルカは操縦盤の前で、川沿いの道を見ていた。
「今日はベルまで。先に休んで、そこから北へ行く」
「分かった」
俺は荷物の紐を確認した。家の向きを変える風の音が、床を通って響く。
「ハルト、窓から何が見える?」
「川と、畑。あと、風見に鳥が来た」
「風雀?」
「多分。君が教えてくれたやつ」
彼女はちらっと見て、そうだよ、と答えた。俺も、少しずつこの世界を自分の言葉で呼べるようになっていた。
北の観測地へ着くまでには、二週間かかった。風が強い日に二度休み、途中の町で食料を足した。飛ばない日に、ミルカと洗濯物を干した。俺が薄いパンを焦がし、彼女が焼き直す前に一口食べて、これなら端を取ればいい、と言った。
光の輪を見に行く夜、家は地上の石台へ脚を下ろしていた。俺たちは上着を着て、近くの丘へ歩いた。飛びながら追うための光ではない。安全に泊まれる場所から、空を見上げる。
初めは、白い雲に見えた。けれど暗い空の一角が淡い緑に変わり、細い弧が、ゆっくり広がった。
ミルカが俺の手を握った。声は出さず、祖母の帳面で見ていた形を、そのまま空へ探している。
「見えたね」
俺が言うと、彼女は何度も頷いた。
「うん。見えた」
銀髪の上に、空の色が薄く映っていた。涙なのか風のせいなのか、目が光って見える。俺は決めつけて拭かず、手を握ったまま立った。
「ここへ来たかったんだ」
「うん」
「ハルトにも、見てほしかった」
「見られてよかった。君と」
ミルカがこっちを向いた。笑うと左頬にえくぼができる。その顔を、今日は空の光と一緒に見た。
帰り道で、彼女は次に行きたい町のことを話した。俺は、家族へ見せる写真を朝に撮ろう、と言った。次の窓までにサイラへ戻る行程を、二人でまた確かめる。
丘の下には、窓に灯りの入ったツバメの家があった。
「お腹すいた」
ミルカが言った。
「スープ、温め直そう」
「パンも。端を取ったやつだけじゃ足りない」
「あれは明日の俺の分にする」
「半分にする。焦がした所、もうないから」
扉の前で、俺たちは手を離した。鍵を開けるためだった。中へ入ると、木のツバメが少し揺れる。
俺は靴を脱ぎ、ミルカは上着を掛けた。台所へ行く前に、彼女が振り向いた。
「ハルト、お帰り」
「ただいま」
もう一つの世界にも、同じ言葉を返す家族がいる。それを隠したり、失くしたりしなくても、俺はこの家へ帰ってこられる。
ミルカが手を差し出した。俺はもう一度握り、二人で食卓まで歩いた。
銀髪の魔女の家には、帰り道がふたつある。
どちらの道の先にも、俺が顔を見て会いたい人がいた。




