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【Coffee Blake】藍より青き空の、その斜め上

【Coffee Blake】

本編の合間にある、束の間の休憩時間。

みんながコーヒー片手に交わす、くだらない日常のひとコマです。

「…なんですか、これ」


午後二時。


気の早い夏の陽射しが差し込む羽田空港の職員共用フロアで、副操縦士の天野はソファに腰掛けたまま、完全に凝固していた。


手元にあるのは、本日発売されたばかりの隔月刊航空雑誌『WING BEAT』の最新号。

表紙には、見慣れた大文字のロゴと、太いフォントで特集タイトルが躍っている。


『航空管制の最前線――安全運航を支える“見えない仕事”』


文句なしの硬派な航空雑誌だ。

そこまではいい。

問題は、タイトルよりも何よりも、誌面の八割を占拠している「写真」だった。


「相賀さん」


近くの自販機でコーヒーを買っていた相賀が「ん?」とカップを片手に振り返る。


「……何故、榎本さんの腰をガッツリ抱いてるんですか」

「どれどれ?」


相賀は全く悪びれる様子もなく、天野の肩越しに雑誌を覗き込んだ。

そして、自分の左手が綺麗に榎本のウェストに回っているのを確認すると、何故か嬉しそうに目を細めた。


「あ、本当だ。綺麗に写ってるね」

「『本当だ』じゃないんですよ! これ、どう見ても距離感おかしいでしょう!」


天野の悲鳴のようなツッコミに、対面のテーブルでコーヒーを飲んでいた早川が体を乗り出して覗き込む。


「ぶっ……! いやいやいや、これ本当に『WING BEAT』? 表紙のジャンル間違えてない?」


早川が天野の手から雑誌を受け取るとそばにいた橘へと手渡した。

橘は表紙の二人の顔、そして問題の手元の位置を数秒間、凝視した。


「……新手のK-POP特集?」

「違います、パイロットと管制官です」

「……本屋の奥の棚にある、ちょっと大人向けのBL雑誌?」

「違います! 全年齢対象の、健全な、お堅い航空専門誌です!」

「いや、でもこれ橘の言うことも分かるわ」


早川が机を叩いて大爆笑している。


「見てよこの距離感! 相賀さん、榎本さんの耳元に吐息吹きかけてるじゃん。これ、管制の最前線っていうか、恋愛の最前線でしょ!」

「航空雑誌なんですよ、これ……!!」


天野が頭を抱えて机に突っ伏したその時、鬼崎がこちらに向かってきた。


「どうした、騒々しい」


天野は無言のまま、祈るような気持ちで橘から雑誌を取り戻し、鬼崎の前に差し出した。


鬼崎は、いつも通りの冷静な目つきで表紙に視線を落とす。


一秒。

二秒。

三秒。


静寂の後、鬼崎は淡々と言い放った。


「恋人だろう」

「「違う!そこじゃないっ!!」」


天野と早川の声が、綺麗にシンクロしてフロアに響き渡った。


「そういう話じゃないんですよ!!」

「鬼崎さん、見てくださいよこの密着度! 普通、仕事の対談インタビューの撮影で、こんな風になりますか!?」


天野がなおも詰め寄るが、鬼崎は至って真面目な顔で再び表紙の相賀と榎本を見つめ


「確かに、近いな」

「ですよね!?」

「だが、恋人だからな。妥当だろう」

「だから! そういう話をしてるんじゃないんですってば!!」


天野の魂の叫びは、相賀の満足げな微笑みと、鬼崎の揺るぎない納得の表情にかき消されていった。


その頃、ガラス張りの管制室では、別の意味で緊迫した空気が流れていた。


「榎本さん」


勤務交代の直前、同僚の管制官が、引きつった笑みを浮かべながら一冊の雑誌を差し出してきた。


「これ……もう見ました?」


榎本は、相手の妙にニヤついた視線に、強烈な嫌な予感を覚えた。


ヘッドセットを首にかけ直しながら、手渡された『WING BEAT』に目を落とす。

そして、静かにフリーズした。


「……」

「素晴らしい写り映えですね!」

「……なんですか、これ」

「ご覧の通り、今月号の表紙です。特大インタビュー付きの」

「見れば分かります」


榎本は声を低くした。

メガネの奥の目が、完全に据わっている。


問題は表紙の存在ではない。

問題は、自分の腰に回っている「手」だ。


相賀の手が、まるで自分の所有物であるかのように、堂々と、かつ自然に自分の腰をホールドしている。


おまけに相賀の顔が近すぎて、写真からでもあの甘い香水の匂いが漂ってきそうだった。

どうひっくり返して見ても、プロの現場を写した航空雑誌の距離感ではない。


「……編集部は何を考えているんですか。これではまるで、その、私たちが……」

「いやあ、編集部というより、相賀機長が何を考えていたか、では?」

「……」


反論の言葉が見つからなかった。


撮影のあの日。

確かに相賀は「もっと寄っていい?」だの「榎本、緊張硬すぎ」だの、うるさく耳元で囁いていた記憶がある。

あの男のペースに巻き込まれた結果が、これだ。


「……上がります。お疲れ様でした」


榎本は壊れ物を扱うようにそっと雑誌をデスクに置くと、逃げるように管制室を後にした。


その日の夕方。

長い勤務を終えた榎本が事務所のロビーを出ると、案の定、ガラス張りの向こうに「それ」がいた。


「榎本ー!」


長身を揺らし、きらきらとした笑みを浮かべて手を振る男

――相賀龍臣だった。


しかも最悪なことに、その脇にはしっかりと、例の『WING BEAT』が抱えられている。


嫌な予感しかしない。

榎本は回れ右をして引き返したくなったが、すでに相賀は目の前まで歩み寄っていた。


「見た? 今月号」

「見ました」


榎本は一ミリも目を合わせずに答える。


「いい写真だったね。俺、すごく気に入っちゃった」

「よくありません。公私混同も甚だしい」


相賀は不思議そうに、綺麗なアッシュブロンドを少し揺らして首を傾げた。


「そう? 結構かっこよく撮れてると思ったんだけどな」

「そういう問題ではありません。何故あのポーズが採用されているんですか!撮影の時、広報の担当者もいたはずでしょう」


榎本が足を止めて睨みつけると、相賀は待ってましたと言わんばかりに嬉しそうに微笑んだ。


「あぁ、それね。最初はカメラマンさんも編集長も、『もっと離れてください』『ビジネスライクに』って言ってたんだよ」

「当然です」


「でもさ、何回シャッターを切られても、俺がどうしても寄っちゃうから」

「寄るな」


「何度離されても、俺の手が勝手に榎本の腰に行っちゃうんだよね。習性かな?」

「ただの確信犯でしょう」


「でね、最終的に撮影が二時間を超えたあたりで、編集長がさ……」


相賀はわざわざ、疲れ果てた老編集長の真似をして、額を押さえるジェスチャーをしてみせた。


『……もう、これでいいか。うん、これが彼らの“リアル”なんだろう、きっと……』


榎本は無言になった。

容易に想像できた。

胃を痛めながら諦めたであろう、見ず知らずの編集長の顔が、ありありと脳裏に浮かんだ。


「それで、あの写真がそのまま採用されたんですか」

「された」

「何故ですか」

「うーん、編集長曰く『絵になるから』だって」

「ならないです!ただの不祥事です」


相賀は楽しそうに笑いながら、今度は自分のスマートフォンを取り出した。


「でも、SNSの反応はすっごく良いよ? ほら、トレンドにも入ってた」


見せられた画面にはSNSコメントが高速で流れていた。


『新しいBL小説の表紙かと思ったらWING BEATだった件』


『航空管制特集だと思って買ったら、表紙の熱量に脳がバグった』


『中身はめちゃくちゃガチの専門的な内容なのに、表紙だけ付き合ってるよね?』


『いや付き合ってる(確信)』


榎本は静かに、しかし強めの力で相賀のスマホを押し戻し、画面を閉じさせた。


「帰ります」

「えー、せっかくお祝いにディナー予約したのに」

「帰ります」

「榎本ってば」

「帰ります。一人で」


そう言って足早に歩き出した榎本の背中を、相賀が長い歩幅であっさりと追いかける。


そして、表紙と全く同じ、寸分の狂いもない角度で、榎本の細い腰に力強く手を回した。


「近いっ!!!!」


榎本の怒声が、夕暮れの茜色に染まる空港のロビーに、小気味よく響き渡った。


*************


数日後、『WING BEAT』編集部。


「……どうしてこうなったんだ」


編集長のデスクの上には、未だかつてないほどの厚みを持った、読者アンケートのハガキの山が築かれていた。


普段は「今月号のボーイング747の特集、良かったです」 といった、渋い航空ファンの声が数通届く程度の編集部に、若い世代、果ては海外の航空ファンからの熱いメッセージが殺到している。


その中で、最も多かった意見はこれだった。


『素晴らしい特集でした! 次回もぜひ、この相賀機長と榎本管制官のコンビで第二弾をお願いします!』


編集長は深くため息をつき、頭を抱えた。


「うちは硬派な航空専門誌なんだけどな……。管制の現場の、デジタル化と人の力の融合を特集したはずなのに、何故こうなった……」


窓の外には、今日も整然と飛行機が飛び交う、美しい羽田の空が広がっていた。


しかし編集長の心は、次号の表紙をどうすべきかという、未曾有のトラブルの渦中にあった。

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