Leg5 Cleared to Enter 〜進入許可〜
満開だった桜は少しずつ葉桜へと姿を変え、東京湾から吹く風にも冬の鋭さはもうない。
春の陽気に包まれた羽田空港は、新年度を迎えた活気に満ちていた。
展望デッキでは、離陸する航空機へ手を振る家族連れ。
エプロンでは国内線、国際線を問わず機体が絶え間なくスポットを出入りし、タキシングする航空機の列が今日も途切れることはなかった。
榎本は管制塔でヘッドセットを耳に当て、ディパーチャー席へ腰を下ろす。
レーダーには離陸した航空機が次々と表示され、その一機一機へ上昇指示を与えていく。
「Japan Air 214、Radar contact, climb and maintain FL240.」
『Climb and maintain FL240, Japan Air 214.』
淡々と、正確に。
一機たりとも迷わせず、安全に空へ送り出す。それが管制官の仕事だった。
次のコールサインが耳へ届く。
『Nippon Travis Three Five Seven…』
その声を聞いた瞬間、榎本はほんの僅かに目を細めた。
天野航。
地方空港でATRに乗っていた頃から知っているパイロット。
「Nippon Travis Three Five Seven, Radar contact. Climb and maintain FL230.」
『Climb and maintain FL230, Nippon Travis Three Five Seven.』
ほんの数秒。
それだけのやり取り。
だが、その数秒だけは、榎本にとって少しだけ特別だった。
(今日も飛んでいる。)
地方で出会ったあの青年は、今ではB777の副操縦士として世界中の空を飛んでいる。
そのコールサインを担当するたび、小さな安堵を覚えるようになっていた。
地方空港で天野と出会ってから、もう何年になるだろう。
真面目で、真っ直ぐで。
コックピットでは冷静なのに、地上へ降りるとどこか危なっかしい。
そんな天野の姿は、確かに榎本の心を惹きつけた。
天野の異動が決まった時、榎本もまた羽田への異動を願い出た。
彼を「落とす」ために。
……そう、思っていた。
しかし最近は。
「榎本。」
後ろから聞こえてくるのは、あの男の声ばかり。
ドバイから毎週のように飛んできては、当然のように隣へ座り、当然のように家に入り浸っている男。
(……なぜ毎週いる。)
そう思った瞬間。
スマートフォンが震えた。
『今日そっち行くね』
「……」
榎本はため息をつくと、ゆっくりと空を仰いだ。
**********
「鍵、返してください」
羽田空港の到着ロビーに隣接するカフェの片隅で、榎本は冷静を装った声で静かに詰め寄った。
向かいに座る相賀は、アッシュブロンドの髪を軽く揺らし、まるで映画のワンシーンのような華やかな微笑みを浮かべて大人の余裕を全身から醸し出していた 。
「うん」
相賀はあっさりと頷く。
返事だけは、いつも素晴らしい。
――次の瞬間。
相賀の長い指先が榎本の顎を優しく上向かせていた。
榎本が「なっ……」と息を呑む隙に、唇へ柔らかな感触が落とされる。
わずかに深い、熱を孕んだキス。
「……っ」
人目を避けた奥の席とはいえ、ここは公共の場。
榎本が信じられないものを見る目で相賀を睨みつけ、乱れた眼鏡を直した時には、相賀はすでに端正な顔立ちに悪戯っぽい笑みを浮かべて立ち上がっている 。
「じゃあ、フライトの時間だから行くね。またね、榎本」
「あ、待っ……!」
引き止める声も虚しく、相賀は優雅な足取りで保安検査場へと消えていく 。
そして、榎本の自宅の合鍵は、今週もドバイへと空の旅に出たのであった。
「……アイツ、また持って行った!!」
毎度繰り返されるこの不条理な攻防に、普段は沈着冷静な榎本も、この時ばかりはギリ、と奥歯を噛み締めるしかなかった 。
**********
数日後の仕事終わりに、空港職員共有ラウンジに集まった面々は、榎本の心底忌々しそうな報告を聞いてそれぞれ異なる反応を示していた 。
「もう鍵ごと変えれば?」
気楽そうに缶コーヒーを傾けたのは、B777の副操縦士である早川だ 。人懐っこい笑顔の裏で、完全に面白がっている 。
「そういう問題じゃありません!」
榎本が珍しく声を荒らげると、向いに座っていた鬼崎が、腕を組んだまま低い声で呟いた 。
「初動を誤ったからだ」
「……私は戦術的な評価を求めているわけではないのですが」
無表情な強面機長に冷たく突っ込む榎本だったが、鬼崎の言うことも一理あった 。
最初に「鍵を持っていかれた」と気づいた時点で、もっと強硬な手段に出るべきだったのだ。
「……まだ返ってないんですか」
天野が少し呆れたような、しかしどこか心配そうな視線を送ってくる 。
天野と鬼崎は何事もなかったかのようにコーヒーを飲み、早川は腹を抱えて笑い、橘も苦笑している。
……気づけば、自分はその輪の中にいる。
(……私は何をやっているんだ。)
(天野を落とすために羽田へ来たはずなのに。)
相賀のせいで自分の人生設計が根底から崩壊している事実を再認識し、榎本は静かに拳を握りしめた 。
「次こそ、鍵を取り返す」
その瞳の奥に、かつてない執念の炎が灯っていた。
**********
作戦決行の夜は、唐突に訪れた。
日本に滞在中の相賀が、榎本のマンションの浴室へ入り、シャワーの音が響き渡った瞬間。
「今だ……!」
榎本は音を立てずに立ち上がり、客間に置かれた相賀のフライトバッグへ素早く手をかけた。
人の荷物を勝手に漁るなどあり得ないのだが、背に腹は変えられない。
ジッパーを静かに開け、中身を迅速に捜索する。
長財布、パスポート、世界各国の通貨が入ったポーチ。フライトログ、航空用ヘッドセット 。
どれも航空関係者には見慣れた代物ばかりだ。
しかし、目的の金属片は見当たらない。
「ない……!」
「何探してるの?」
背後から、鼓膜に直接響くような、低く愉しげな声が降ってきた。
「っ!?」
心臓が跳ね上がる。
慌てて振り返ると、そこにはバスタオルを腰に巻いた姿の相賀が、ドアフレームに寄りかかって立っていた 。
濡れた髪から落ちる水滴が、妙に艶かしく見えた。
「鍵?」
にこ、と完璧な美貌で微笑む相賀 。
「ここ」
相賀が自身の首元に手をやり、シルバーのチェーンを持ち上げる。
その先端でぶらり、と頼りなく揺れていたのは、間違いなく榎本の部屋の合鍵だった。
「……」
「見越してた」
コイツ、確信犯だ!
この男は、榎本が盗み出そうと動くことすら計算に入れて、肌身離さず鍵を身につけていたのだ 。
その挑発的な笑みに、榎本の中で何かがブチッと千切れた。
普段の冷静沈着な管制官とは思えない動きで榎本は反射的に、相賀の首元のチェーンへと掴みかかるように手を伸ばした。
相賀も予想外の榎本の素早い動きに避ける間もなく、そのまま二人のバランスが崩れた。
ドサリ、と重い音がして、二人は背後のベッドへと倒れ込む。
気がつけば、榎本が相賀の腰の上に跨るような、完全な馬乗り状態になっていた。
「……」
「……」
シン…と、部屋から音が消える。
そのままの体勢で互いの顔から目を離すことができない。
榎本は、状況を遅れて理解して(あ。)と息を止めた 。
そして。
下になった相賀は、(ヤバ。)と内心で呻いていた。
下から見上げてくる相賀の視線が、驚くほど熱く、鋭いものに変わる。
榎本は眼鏡の奥の瞳を僅かに揺らし、乱れた髪の隙間から相賀を見下ろしていた 。
相賀の胸に触れた手のひらへ、力強い鼓動が伝わってくる。
「……榎本」
低く、掠れた声で名を呼ばれた。
直後、相賀の強靭な腕が榎本の背中に回り、抗う隙を与えず引き寄せられる。
重なる唇。
相賀の本気が、その口づけの強さに現れていた。
もう一度。
さらにもう一度。
「ちょっ……」
榎本が「勝手に……」と言いかけるたびに、熱い唇によって言葉ごと塞がれる 。
逃げようと身体を強引に捻るが、逃がさないというように、抱き寄せる腕にさらに力が入る。
そこにはいつもの余裕の笑みをたたえた相賀の姿はなかった。
ただひたすらに、目の前の存在を確かめるように、何度も何度も唇が貪られた。
やがて唇から離れた相賀の熱い息が、耳元へ、そして白い首筋へと下りていき、深い痕を刻むような口づけが落ちていく 。
榎本は途中で、背筋が粟立つような感覚を覚えた。
この人、完全にいつもと違う。
……本気だ。
欲を隠そうともしないその眼差しに釘付けになる。
このまま触れられたら、応えてしまう自分がいる。
本能が、警鐘を鳴らす。
(このままじゃ、まずい……)
与えられる熱を拒めない。
唇で辿られ、跡をつけられるたび、反応を返してしまう自分に戸惑う。
ふと顔を上げると、相賀と目が合った。
その余裕を失った表情に、心臓が大きく跳ねる。
思わず何かを発しようとした唇は、再び濃厚な口づけによって塞がれ、言葉になることはなかった。
意識と五感の全てが、相賀によって支配されそうになったその時だった。
ピリリリリ……!
静寂を引き裂くように、無機質な携帯のバイブレーションと着信音が部屋に響き渡った。
「……!」
「……っ」
二人の動きが、同時にピタリと止まる。
荒い呼吸の音だけが響く静寂の中、相賀がガクリと力を抜き、額を榎本の肩口へと預けた。
そして、苦笑するように小さく笑った。
「……危なかった」
榎本は耳まで真っ赤に染まった顔を背け、乱れた息を必死に整えながら、消え入りそうな声で呟いた 。
「本当、……です」
その夜。
相賀が客間へと引き揚げた後。
榎本は一人、静まり返った自室のベッドへ座ったまま、両手で頭を抱えていた 。
(……嫌じゃ、なかった)
認めたくない言葉が、脳裏を支配する。
相賀の大きな腕に抱かれ、強引に求められたあの瞬間。
触れられるたび、身体が素直に反応してしまった。
「……上手い、からなのか?」
あの男の、豊富な交際経験によるテクニックのせいか、と自分に言い訳を試みる 。
「上手すぎる、からなのか?」
違う。
そんな技術の問題ではないことなど、自分が一番よく分かっている。
「いや……なんなんだ」
榎本の頭は、完全にオーバーヒートを起こしていた。
そして。
ふと重大な事実に気がついた。
「……そういえば」
最近──
あんなに執着していたはずの、天野の姿を思い浮かべていない 。
静かな部屋の中、その事実に驚愕する。
「……え」
自分が本当に目で追い
心をかき乱され
いつの間にか、好きになっていたのは──。
毎週のようにドバイから飛んできて、
洗面所に勝手に歯ブラシを置き、
キッチンに好みのコーヒー豆を置き、
挙げ句の果てに合鍵を笑顔で持ち逃げしていく。
そんな生態が絶望的に終わっている大型旅客機の機長だった 。
「…………なんで。この人、なんだ」
榎本は力なくベッドへ倒れ込み、両手で顔を覆った 。
人生で一番認めたくない。
何度頭の中で否定しても、結論はひとつしか出なかった。
……最悪だ。
好きになってしまった。
よりにもよって、あの男を。




