Leg4 Recurring Traffic 〜龍、定期便と化す〜
東京湾から吹く冷たい風が、羽田空港の滑走路を真っ直ぐに駆け抜ける。
春はまだ遠い。
朝の空気には、冬の冷たさがまだ色濃く残っていた。
夜明けとともに淡い朝日が管制塔のガラスを照らし始めた頃。
その日最初の到着便が重低音を響かせながら滑走路へと降り立った。
白いタイヤスモークが一瞬だけ立ち上り、巨大な機体は逆噴射音を轟かせながら減速していく。
夜勤最後の管制を終えた榎本は、ヘッドセットを外して小さく息を吐いた。
「お疲れ様でした」
交代要員へ席を譲り、管制塔を後にする。
一日の勤務を終えた榎本は事務所ビルの自動ドアをくぐると、無意識に歩道の先へと視線を向けた。
街路樹が等間隔に並ぶ歩道。
その車道側には銀色のガードパイプが続き、朝日を受けて淡く輝いている。
そのうちの一本の街路樹脇、ガードパイプに軽く身を預けスマートフォンを眺めていた長身の男が、こちらに気づいて顔を上げた。
目が合った瞬間、嬉しそうに口元を緩めた。
榎本は小さく眉を寄せると、ため息をついた。
「……また来たんですか」
「うん、来た」
あまりにも軽い返事だった。
ドバイから大型旅客機を操縦し、数千マイルを飛んできた男の台詞とは到底思えない。
「……あなた、朝一番の到着便だったんですね」
「うん。追い風が良くて思ったより早く着いちゃってさ」
「上で少し待機してた」
「……ホールディングですか」
「そう」
そして、相賀はニヤリと笑いながら続けた。
「別に榎本の時間に合わせたわけじゃないよ?」
「当たり前です」
「でも、追い風で『会えるかも』とは思ってた」
「……それを合わせたと言うんです」
榎本は呆れてため息をついた。
「最近多くないですか?」
「そう?」
「……毎週きてますよね」
相賀は否定もせず、あっさり頷いた。
「ドバイから、ですよね?」
「飛行機乗ればすぐだよ」
「すぐじゃありません」
榎本は思わず額を押さえた。
相賀の距離感は、出会った当初からずっと壊れている。
本人は「気の向くままのフライト」感覚なのだろうが、こちらは飛来する相賀に毎回調子を狂わされるのだ。
同じ頃、相賀が勤める航空会社Emirates Global Airwaysの運航管理室では、お馴染みとなった運航スケジュールを前に、ディスパッチャーたちが苦笑を交わしていた。
「また相賀機長か」
「はい。また日本線希望です」
「好きだなぁ、日本」
「いや、日本じゃなくて羽田ですね」
「違いない」
定時運航率も高く、日本語も問題ない相賀の希望を会社が断る理由はない。
気付けば、彼の「定期飛来」は半ば公認となっていた。
そんなやり取りがされているとは知らず、相賀の飛来回数が増えるのと比例して、そんな状況に慣れてしまった榎本の態度も徐々に変わりつつあった。
最初の頃こそ、その執着ぶりに本気で驚き、警戒していた榎本だったが、最近では呆れと諦めが勝りつつあった。
そしてまた、別の日。
「……いたんですか」
「いた」
「……そうですか」
すっかり待ち伏せの定位置となった事務所前のガードパイプにもたれた相賀に、榎本は声を掛ける。
声を荒らげることもなく、ただ眼鏡の奥の切れ長な目を細める。
変化といえば、滞在期間を確認することくらいだ。
「今回は何日ですか」
「二泊」
「そうですか」
淡々と答える自分に、榎本は内心で小さく息をつく。
(……すっかり慣れてきてるじゃないか)
それが何より恐ろしかった。
彼のペースに巻き込まれ、生活の一部として受け入れ始めている。
その自覚が、冷静な彼の胸をかすかにざわつかせた。
そんな日常がすっかり当たり前になったある日のこと。
同僚の管制官が急な体調不良を訴え、戦線を離脱した。
「榎本、悪い。少し残ってもらえるか?」
「わかりました。お大事に」
代わりの人員が手配されるまでの数時間、榎本は再びマイクを握った。
頭の片隅で、今日日本に到着しているはずの相賀の顔がよぎる。
(待たせることになるな……)
外は大雨だった。
まさかこの大雨の中、外で待ってる馬鹿はいないだろう。
施設のどこかで適当に過ごしているに違いない。
流石にいつものガードパイプの前で待っている馬鹿はいないだろう。
……そう、思いたい。
そんなことを頭の片隅で考えていると休憩交代の案内が入り、ようやくマイクを置いた。
何故か、嫌な予感がする……。
まさか。さすがにそんな子供じみたことをする男ではないだろう――
……いや、あの男ならやりかねないかもしれない。
足早にビルを出た榎本の目に飛び込んできたのは、予想通りの、そして最悪の光景だった。
ザーザーと容赦なく降り注ぐ雨の中、街灯の下にぽつんと立つ長身の影。
傘を差してはいるものの、吹き付ける風のせいで上質なコートの裾はすっかり色を変えている。
「……」
榎本は数秒、言葉を失った。
「お、休憩?」
こちらに気づき、嬉しそうに目を細めて笑う相賀。
その顔には、寒さも、待たされた不満も一切浮かんでいない。
「……何してるんですか」
「待ってる」
「見ればわかります」
「じゃあ合ってる」
「そういうことじゃありません」
眉間を押さえ、深くため息を吐く。
「ホテルへ行ってください」
「榎本待ってる」
「ラウンジとか」
「ここで待ってる」
「待たなくていいです」
「でも会いたいし。待っていないと、榎本そのまま帰るだろ?」
その通りなので、ぐうの音もでない。
それでも、この状況は実にいただけない。
だからといって、このまま放っておくわけにもいかない。
これほどの大雨の中、現役の国際線機長が風邪を引いてみろ。
乗務停止になれば、コイツはこのまましばらく日本に留まることになる。
……それは困る。
榎本は苦渋の決断をした。
「……今日だけです」
「?」
相賀が不思議そうに首を傾げる。
榎本は大きなため息をひとつつくと、ポケットからキーケースを取り出して自宅の小さな鍵を一つ、迷いながらも外した。
「風邪引かれたら困るので。先に帰って着替えてください。私が帰るまで、部屋でおとなしく待っててください」
鍵を差し出すと、相賀は珍しく一瞬だけ目を丸くした。
余裕たっぷりの彼が、子供のように驚いている。
次の瞬間、その相好が崩れた。
「ありがとう」
いつものからかうような笑みではない。
心の底から嬉しそうな、ひどく甘い笑顔だった。
それを見た榎本は、急に気恥ずかしさが込み上げ、そっぽを向いて足早に職場へと戻っていった。
残業を終え、深夜近くに帰宅した榎本を迎えたのは、ドアを開けた瞬間に漂ってきた香ばしいコーヒーの香りだった。
「おかえり」
「……ただいまです」
リビングに馴染んでいる相賀を見て、榎本は一瞬、ここが自分の部屋かどうか分からなくなる。
相賀が淹れてくれたコーヒーを飲みながら、買ってきた簡単な夕食を二人で囲んだ。
交わすのは、今日のフライトの風の具合や、羽田の混雑状況といった、他愛のない、けれど心地よい日常の会話。
相賀は榎本をからかい、榎本がそれに冷静にツッコミを入れる。
そんな穏やかな時間は、瞬く間に過ぎていった。
―-翌日早朝。
「じゃあ、行ってくる」
玄関で靴を履き、相賀が振り返る。
ドバイ行きの早朝便の時間が迫っていた。
送り出そうとした榎本は、ふと思い出して手を伸ばした。
「あ」
「?」
「鍵、返してください」
今日だけ、という約束だ。相賀は素直にポケットからキーケースを取り出す。
榎本がその鍵を受け取ろうと、手のひらを差し出した。
あと数センチ。
「はい」
鍵が掌に触れる直前、榎本の手首が強い力で引かれた。
「え――」
視界が揺れ、気がついた時には、唇に熱いものが押し当てられていた。
驚きで思考が真っ白になる。
相賀の大きな体が視界を塞ぎ、深く、逃げる隙を与えないようなキスが降ってくる。
隠しきれない強い執着が混ざり合ったような、執拗で濃厚な口づけ。
「っ……!」
ようやく解放された時には、榎本の息はすっかり乱れていた。
呆然とする榎本の前で、相賀はこれ以上ないほど満足そうに、意地悪く笑った。
「じゃ、行ってくる」
そう言うと名残惜しいとばかりに頬に軽く口づけを落とし、そのまま玄関から出て行った。
パタン、と静かに閉まるドア。
静まり返った玄関で、榎本は数秒間、彫刻のように固まっていた。
そして、自分の手のひらにあるはずのものが「ない」ことに気づいた瞬間。
血の気が一気に頭に上った。
「…………」
「………………」
「鍵返せぇぇぇぇぇっ!!」
普段の上品な物腰も、管制官としての冷静さもどこへやら。
榎本はドアに向かって怒声を響かせた。
その頃、相賀は手に入れた戦利品
――榎本の部屋の鍵をしっかりと自身のキーケースに収め、上機嫌でドバイ行きのコックピットへと向かうステップを軽やかに踏んでいた。




