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Leg3 Unexpected Traffic ~予定外の来訪者~

夜の羽田空港。

滑走路の灯火が静かに瞬く中、榎本は事務所ビルの自動ドアをくぐった。

航空管制官としての張り詰めたシフトを終え、眼鏡の奥の目を軽く揉んだ瞬間だった。


「っ……!」


視界の先に立つ見覚えのある長身のシルエットに、榎本の足がピタリと止まる。

アッシュブロンドの髪が、夜風にそよいでいた。


「……なんで、いるんですか!?」


シックなコートを悠然と着こなして立っていたのは相賀だった。

ロシア系クォーターの華やかな容姿は、ただ佇んでいるだけで周囲の目を引く。

しかも、榎本に気づいた途端、満面の笑みでひらひらと手を振ってきた。


「やぁ」

「やぁ、じゃありません! なんでいるんですか?!」

「え? 普通に金払って乗ってきたけど?」

「そういう意味じゃないです!」


榎本は思わず額を押さえた。

まったく話が噛み合わない。


航空管制官という仕事柄、定期便のスケジュールや相賀がいつ日本へ飛来するかは、おおよそ把握している。

だからこそ、普段は心の準備ができるのだ。


「今日は来る」

「たぶん会う」

「また距離が近いんだろう」


――そうやって、自分の中でシミュレーションを重ねてから対峙できる。

だが、今回は完全にノーマークだった。


「どうせあと二ヶ月くらい来ないと思ってたのに……」


ぽつりともらした本音に、相賀が嬉しそうに目を細める。


「へぇ。ちゃんと俺の予定数えてるんだ?」

「っ……!」


榎本は思わず言葉に詰まった。

相賀はこういう時、「寂しかった?」などという直球でテンプレートな質問はしてこない。

代わりに、相手が自爆するように、自ら答えを誘導するような意地悪な問いかけをする。

本当にずるい男だった。


「……連絡くらいしてください」

「実家に呼ばれてさ」

「え?」

「完全に家の用事」

「……仕事じゃないんですか?」

「うん。プライベート」


つまり、日本有数の財閥である相賀家の用事で帰国し、その足でここへ来たということだ。

自分に会うためだけにわざわざ羽田に足を運んだというその事実が、じわじわと胸に重くのしかかる。


だが、当の本人はまるで近所の公園に散歩にでも来たような、軽い調子で笑った。


「メシ行く?」

「帰ります」

「じゃあ送る」


きっぱり断ったはずなのに、気付けば自然な歩調で隣を歩かれている。

強引に腕を引くわけでも、意見を押し付けるわけでもない。


けれど、気付いた時には当たり前のように隣にいる。

その絶妙な距離感の詰め方が、この男は恐ろしく上手かった。


榎本が暮らすマンションの前。


「じゃあ」


ここで別れる。

そう言って榎本がエントランスのオートロックへ向かうと、後ろから足音がついてくる。


「コーヒーくらい飲ませてよ」

「……」


押し問答を続けるのも面倒だった。

ここで拒否したところで、相賀が諦めるとは思えない。


「……すぐ帰ってくださいよ」


そして。

観念して鍵を開けてしまった時点で、榎本の負けは決まった。


部屋へ入った途端、相賀は驚くほど自然な動作でソファへ腰掛けた。

まるで自分の家のように馴染んでいる。


「落ち着くな、ここ」

「なんでそんなにすぐに馴染むんですか……」


文句を言いながらも、榎本はキッチンに立って手際よくコーヒーを淹れ始める。


品のある所作が滲むその綺麗な後ろ姿を、相賀はただ静かに、愛おしそうに見つめて微笑んでいた。


(こういうの、好きなんだよな)


そんな相賀の視線に気づいているのかいないのか、榎本がマグカップをトレイに乗せて戻ってきた。


「今帰りってことは、明日休み?」

「……」


鋭い質問に榎本は一瞬言葉を詰まらせたが、嘘をつくのも面倒で素直に答える。


「休みですけど」

「へぇ。じゃあゆっくりできるな」

(しまった)


余計な情報を与えてしまった。


相賀の前だと、どうしてこうも冷静なポーカーフェイスが乱れてしまうのか。

悔しさに眉をひそめた時にはもう遅い。

相賀はソファで大きく伸びをした。


「実家疲れた」

「……」

「榎本ん家、本当に落ち着く」


子供のように素直な、けれどどこか甘えるようなその一言に、榎本は軽くため息をつく。


「もう遅いですし……」


『帰ってください。』

そう言おうとした、その瞬間だった。

ぐいっ、とジャケットの袖を引かれる。


「えっ――」


重心を崩し、気付けばソファに倒れ込む形になっていた。

両手を突いて覗き込んできた相賀の顔が、至近距離にある。


「そうだね」


目の前で相賀が、楽しそうに、けれど有無を言わせない大人の余裕を湛えて笑う。


「遅いし、もう寝るか」

「違う!! そうじゃないでしょ!!」

「じゃあどういう意味?」

「言葉通りの意味です! 帰るって言いましたよね!?」


相賀は思わず目を細め、ふっと表情を和らげた。


「でも俺、会いたかった」


まっすぐな声音だった。

その一言で、榎本は次の言葉を完全に失ってしまった。


ただ、深く、長いため息を吐き出す。

拒絶ではない。

呆れと、それから仕方のない男だという受け入れのニュアンスを含んだため息。


それだけで、相賀には十分だった。


「……今日だけ、ですからね」


観念したように絞り出された榎本の声に、相賀は満足そうに笑った。


優しく、けれど愛おしさを噛み締めるように、そっと榎本の体を抱き寄せた。



「うん」


世界中を飛び回る大空の龍が、世界で一番帰ってきたい場所。


それは、この少し怒りっぽい管制官が待つ、小さな部屋だった。



それからというもの。


相賀が日本へ来るたびに、榎本の部屋の空気は少しずつ、確実に変化していった。


最初は、洗面所に置かれた一本の歯ブラシ。

「毎回買うの面倒だから」


次に、リビングのコンセントに挿しっぱなしになった充電器。

「忘れると困るし」


さらに、クローゼットの一角を占めるようになった着替えの一式。

「数日くらいなら大丈夫」


そして、キッチンに持ち込まれた高級なコーヒー豆。

「榎本ん家で飲む用」


来るたびに増えていく相賀の私物を見下ろし、榎本はついに腕を組んで相賀を睨みつけた。


「……なんで、増えてるんですか」

「次来るし」

「その前提がおかしいんです!」


……本当になんなんだ、コイツは。

榎本にとって、相賀という男はやはり理解不能だった。


数日後。

羽田空港内の職員用ラウンジ。


仕事の合間の休憩時間、そこには珍しい顔ぶれが揃っていた。


「だからさ! 大抵の女の子なら、泣いて喜ぶわけよ」


B777副操縦士の早川が、コーヒーカップを片手に楽しそうに指を折っていく。


「747の機長」

「イケメン」

「財閥の御曹司」

「一途」

「しかも、毎月わざわざドバイから会いに来る」

「普通なら夢みたいな相手だって!」


榎本は、その言葉をフンと鼻で笑い、自分の隣に平然と立っている相賀を一瞥した。

まるで、不法投棄された粗大ゴミでも見るような冷ややかな目だった。


「……」


そして、いつも通りの丁寧で物腰柔らかいトーンのまま、淡々と言い放つ。


「この人がイケメンだろうが、スパダリだろうが、どうでもいいですね」

「えぇ!?」


隣の相賀が心底傷ついたような声を上げた。

それを見た早川が派手に吹き出した。


榎本は眼鏡の位置を直しながら、真顔のまま続ける。


「生態がおかしいので」

「ひどい!」


相賀がショックを受けたような声を上げるが、榎本は容赦しない。


「そもそも私、男ですし」

「そこ!?」


早川はツボに入ったのか、腹を抱えて笑いを堪えながら頷いた。


「いや、そこは確かに! 榎本さん、正論すぎる!」


その様子を、少し離れた席からコーヒーを飲んでいた鬼崎が、低い声で制した。


「早川、前提条件を間違えるな」

「ですよね」


榎本はさらに腕を組み、不満げに息を吐く。


「この人、勝手に人の家を日本ベースにする気なんですよ」

「違うよ」


相賀は悪びれもせず、後ろから当然のような顔をして榎本の細い体に抱きついた。


「離れてください」

「ヤダ」


ゴッ。

綺麗な、そして容赦のない肘打ちが、相賀の鳩尾へと正確に突き刺さる。


「ぐっ……」

「離れました?」

「いや」

「なんでですか」

「これくらいじゃ離れない」


相賀はタフだった。

さらに榎本が肘でぐいぐいと押すが、びくともしない。


「離れてください」

「ヤダ」

「邪魔です」

「うん」

「聞いてます?」

「聞いてる」

「じゃあ離れてください」

「それは聞けない」


その不毛かつお決まりのやり取りに、早川はついに限界を迎えて机を叩いて爆笑した。


「もうさぁ! 歯ブラシ一本置かれたと思ったら、荷物増えて、滞在日数増えて、最終的に住み着いて……」


早川は少し顎に手を当てて考え、はっと真顔で結論を出した。


「……え、それゴキブリじゃん」


榎本は勢いよく早川の方を振り返り、何度も頷いた。


「それですっ!!」

「ひどい」


相賀だけが心底心外だとばかりに抗議する。

しかし、周囲の反応は冷ややかだった。


鬼崎はコーヒーカップを置き、淡々と告げる。


「概ね合ってる」

「鬼崎まで!?」


鬼崎は何でもないことのように続けた。


「昔、空自時代に一度だけ泊めたことがある」

「え?」


「『宿代代わりだ』と言って高級なワインを持ち込んできたが、飲むだけ飲んでリビングのソファを勝手に自分のベースにし始めていた」


「翌朝には洗面所に歯ブラシが置かれていた」

「早っ!」


早川が思わず身を乗り出す。


「それを見た瞬間、これ以上の侵食は防衛ラインの崩壊を意味すると判断した。」


「だから、直ちに歯ブラシを捨てて追い出した」


一瞬、その場が静まり返る。


「判断が早いですね……」

天野が思わず感心したように呟く。


鬼崎は淡々と頷いた。


「初動が肝心だ」


榎本はゆっくりと自分の指を折り始める。


「私は……」


「歯ブラシ」

「充電器」

「着替え」

「コーヒー豆」


「……スーツケース」


鬼崎は榎本を見て静かに告げた。


「初動を誤ったな」

「ですよね……」


榎本は遠い目で肩を落とす。

相賀だけが不満そうに口を尖らせた。


「歯ブラシくらい、いいじゃないか」

「そこが始まりだ」


鬼崎は即答した。


その隣で天野が、必死に笑いを堪えて肩を小刻みに震わせていた。


「相賀さん……」

「見た目は王子様なのに」


早川がさらに追い打ちをかけるように肩をすくめる。


「生態だけゴキブリ」

「ひどいなぁ」

「はぁ…、もう帰ります」


榎本はそう吐き捨てると、くるりと身を翻して歩き出した。

しかし、背中には未だに大型犬のように大きな相賀がぴったりとぶら下がったままだ。


「え、そのまま帰るんだ!?」


早川が目を丸くして見送る。


「いつものことだ」


鬼崎が何でもないことのように言い、天野も苦笑しながらそれを見送った。


ウィーン、と静かにエレベーターの扉が閉まる。


密室になった箱の中、榎本は前を向いたまま、深いため息をついた。


「……いい加減、離れてください」

「ヤダ」

「聞いてませんね」

「聞いてる」

「じゃあ離れてください」

「それは聞けない」


榎本は諦めたように、再び息をついた。

背中越しに、相賀の体温がじんわりと伝わってくる。


このまま一階まで数十秒。

今さら暴れても仕方がない。


(……もう一階まで、このままでいいか)


そうやって、完全に油断していた。


その瞬間。

相賀の大きな手が、そっと榎本の顎へと伸びてきた。


「……?」


くい、と強引すぎない力加減で、後ろへと向かされる。

振り返った瞬間、視界のすべてが相賀の端正な顔で埋まった。

近い、と思った時にはもう遅かった。


触れるだけの、リップ音が小さく響くようなキス。


「っ!?」


まさか、エレベーターの中という状況で。

完全な不意打ちだった。

榎本の顔が一気に沸騰したように赤くなる。


チーン。


一階への到着を告げる電子音が響き、扉が左右に開いた。


「お、来た来た」


そこにはニヤニヤしながら待ち構える早川と、苦笑を浮かべる天野、そしてなぜか付き合わされた鬼崎が腕を組んで立っていた。


早川は、榎本の真っ赤になった顔を見るなり、お腹を抱えて吹き出した。


「ほらぁぁぁ!!」

「絶対なんかやらかすと思ったんだよね!」


榎本は弾かれたように相賀から離れ、勢いよく振り返って怒鳴りつけた。

いつもの上品な敬語は完全に吹き飛んでいる。


「あんたには節操というものがないのかっ!!」


ロビー中に響き渡る榎本の怒声。

しかし、相賀は悪びれもせず、むしろ嬉しそうに満足げな笑みを浮かべている。


「だって二人きりだったし」

「そういう問題じゃない!!」

「途中の階で誰か乗ってきたらどうするんですか!」

「乗ってこなかったよ?」

「結果論で話をするな!!」


早川はロビーのベンチに崩れ落ちんばかりに笑い転げている。


「やっぱりやったーー!! 最高すぎる!」


鬼崎は腕を組んだまま、やれやれといった風に小さく息をついた。


「だから、あいつと密室に入るなと言っただろ」

「知りませんよ、そんなこと!!」

「そして!あなた達はなんでここにいるんですか?!」


そんなの聞いてない!と叫ぶ榎本を眺め、天野は引きつる笑いを必死に噛み殺しながら、相賀の方に顔を向けた。


「相賀さん……少しは反省してください」

「うん」

「……してませんよね?」


相賀は悪びれもせず、にこりと笑った。


「うん」

「あなたは!少しは反省というものを覚えてください!!」

「うん、善処する」


相賀は満面の笑みで頷いた。


その様子を横目に、天野は乾いた笑みを浮かべた。


 (……この顔、善処する気ないよな。)

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