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Leg2 Weather Ahead 〜前方悪天候〜

 「――榎本君」


羽田空港の管制塔タワー

無数のモニターとレーダー、そして眼下に広がる滑走路を見下ろすその場所で、同僚の管制官が、紙のストリップを片手にニヤニヤしながら声をかけてきた。


「はい」


マイクをずらし、榎本は顔を上げた。


「また来てるぞ、例の『大型定期便』」


同僚が親指で窓の外を指さす。

その瞬間、榎本の脳裏を最悪の確信がよぎった。

恐る恐る、視線を窓の外、はるか下の事務所前へと向けた。


……いた。


航空会社の垣根を越えて、否応なしに目を引く長身。仕立ての良い制服をラフに着こなし、独特の不遜で、それでいて絵になるオーラを放っている男。


相賀龍臣。

ドバイを拠点に世界を飛び回る、海外航空会社のB747の機長。


そして、一ヶ月前に榎本の唇を強引に奪っていった、最悪の男だった。


「……」


榎本は無言で視線をレーダー画面に戻した。


「知り合い?」

「知りません」

「嘘つけ、あんなに真っ直ぐここを見上げてんのにか?」


即座に否定したものの、同僚は完全に面白がっている。

当然だ。誰も信じるはずがなかった。


なぜなら、あの男はここ一ヶ月の間、羽田にランディングするたびに必ずここに現れるのだから。


思い返せば、最初の週。

事務所前に立つあの長身を見かけたとき、榎本はまだ冷静だった。


(……またいる。まあ、国際線のクルーだし、手続きか何かで暇な時間でもあるんですかね)

まだ、中立。

変な人に捕まったな、くらいの認識だった。


それが二週目。

(……またいる。いや、まぁ、運航スケジュールの兼ね合いで偶然重なっただけだろう。偶然だ、偶然)

自分に言い聞かせるように、無理やり納得した。


だが、三週目。

(……またいる。……いや、おかしい。絶対に偶然じゃない。何で毎回私がシフトに入っている日にピンポイントでいるんだ?)

背筋に冷たいものが走り始めた。


明確に恐怖を抱いた四週目。

(……またいる。怖い。シンプルに怖い。なんなんだ!あの人!?)

それは確固たる「ホラー」へと変わっていた。


――そして、あの男への恐怖が頂点に達していた翌週、五週目のその日。


羽田空港の上空は、猛烈な悪天候に見舞われていた。


シャワーのような激しい雨が管制塔のガラス窓を叩きつけ、低空にはちぎれた雲が高速で流れ落ちていく。

最大瞬間風速は優に制限値に迫り、滑走路の直上では激しいウィンドシア(急激な風向風速の変化)が発生していた。


「またゴーアラ(着陸やり直し)だ」

「〇〇便もダメか……。条件が悪すぎるな」


管制室には、いつになく張り詰めた空気が漂っていた。アプローチ(進入管制)から引き継がれる航空機はどれも風に激しく煽られ、滑走路の手前で機首を振られ、次々と着陸を断念して再び上昇していく。


榎本は完全に仕事モードに入っていた。

押し寄せる緊張感の中、的確に、無駄のない声で指示を飛ばし、空を捌いていく。

そこへ、レーダーに一つの機影が映り込んだ。


ドバイ発の大型国際貨物便。

――相賀の乗るB747だった。


(……最悪だ)


ヘッドセットの向こうから聞こえてくる、いつもより一段低い、だが完全に冷静な男の声。


(よりによって、こんな状況でこいつか)


身構える榎本。

だが、そこからの相賀の操縦は、異様だった。


他のハイテク旅客機が軒並み風に翻弄される中、その巨大な貨物機は、妙に安定した軌跡を描いてレーダー上を滑っていく。

無線から流れる相賀の声にも、一切の無駄がない。


「あれ……?」


隣の管制官が、レーダー画面を凝視したまま声を漏らした。


「この747、めちゃくちゃ綺麗だな……」


視線を外の暴風雨に向ける。

激しい乱気流に叩かれているはずなのに、最終進入ファイナルアプローチに入った相賀の機体は、まるで目に見えないレールに乗っているかのように、ピタッ……と水平を保ったまま降下してくる。

そして、激しい横風を完璧なクラブ(カニ歩きのような姿勢)で相殺し、接地寸前に一瞬で機首を滑走路のセンターラインへと戻した。


ドン、と白煙が上がる。


暴風雨を切り裂き、相賀の機体は何の危なげもなく、一発で滑走路に着陸してみせたのだ。


「うまっ……」

思わず管制官の1人が呟く。

「なんだ今の……バケモノかよ」


榎本は、マイクを握ったまま黙り込んだ。


(……上手い)


認めたくない。

人間性は最悪で、論外の変態だ。


だけど、認めざるを得ない。

あの男の、機長としての腕だけは、本物だ。

悔しいけれど、本気で腹が立つくらいに。


だが、その感動はその日の夕方には完璧に打ち砕かれることになる。


相賀の持つ圧倒的なカリスマと無駄に高い社交性は、着陸後、瞬く間に管制室を侵食していった。

相賀は自分の目的を周囲に一切隠さなかったのだ。


「相賀機長、なんでそんなに羽田来るんです?」


若手管制官が素朴な疑問をぶつけた際、相賀は事も無げに言った。


「榎本」

「え?」

「落としたい」

「は?」

「好きだから」

「付き合いたい。でも嫌われてる。だから頑張ってる。」


その真っ直ぐすぎる目を見て、若手は思わず(なんか応援したくなってきた……)と胸を打たれてしまったらしい。


榎本にとっての最大の誤算は、相賀が「イケメン」「超一流機長」「コミュ力高い」「人懐っこい」上に、「榎本が好き」という事実を全方位に隠さないことだった。


だから周囲からすると、それはストーカーではなく、ただの「一途で健気な男」に見えてしまうのだ。


いつの間にか職場全体が完璧に相賀の味方になっていた。


そして同じ日。

国内航空会社NTA(日本トラビスエアー)のブリーフィング室でも、その外堀の噂は流れていた。


フライト前の合同ブリーフィングの終わり際、ベテランチーフCAが、ファイルを閉じながらフッと悪戯っぽく笑った。


「そういえばお二人とも知ってます?ドバイからの貨物便の、例の有名な747日本人機長さん……。

管制塔タワーで大暴れしてるらしいですよ。

なんでも、お気に入りの管制官を落とすって全方位に宣言して回ってて、あそこの管制室、いま全員でその機長さんを応援してるんですって」


それを聞いた瞬間、鬼崎の手がピタリと止まった。

そして、横にいた副操縦士の天野もまた、手にしていたフライトログを見つめたまま固まっていた。


『ドバイの貨物』

『747日本人機長』


そのワードだけで、二人の脳裏には同時に、あの不遜な笑顔で圧倒的なオーラを放つ男の顔が浮かんでいた。


チーフCAが「じゃあ、よろしくお願いしまーす」と笑顔で部屋を出ていく。

残されたコックピットクルーの間に、奇妙な沈黙が流れた。


「……鬼崎さん」

「……ああ」


鬼崎は手元のコーヒーを小さく啜り、窓の外の遠い空を見つめた。

天野もまた、自分の知る相賀の姿を思い出しながら、同じように遠い目をする。


「……相賀は、面倒だ」

「……ですよね」


空自時代から相賀を知っている鬼崎と、すでにその面倒事の片鱗を間近で目撃している天野。

二人の心底重いため息が、静かな室内に綺麗にハモった。


そんな強力な包囲網が敷かれているとは露知らず、榎本が気づいたときには完全に手遅れになっていた。


「今日、相賀機長来てないな」

「ドバイ便だろ」

「そうかー。榎本さん、寂しいですか?」

「帰れ」

「相賀機長に『寂しがってました』って伝えます?」

「やめろ!!」


すでに職場の会話がおかしい。

頑なに拒絶する榎本に、若手は心底不思議そうに溜息をついた。


「頑固ですねぇ」

「何故私が悪者みたいになっているんですか……!?」


そして決定打が下される。

「榎本君」と、先輩管制官が真顔で言ってきた。


「相賀機長と付き合ってみたら? いい男だぞ。優しくて、一途で、仕事もできて。何が不満なんだ?」


苛立ちと頭痛を覚えた榎本は最後の砦であるはずの「理論武装」をぶつけてみることにした。


「そもそも、私は男です。彼も男です」


だが、先輩管制官はさも退屈そうに返した。


「だから?」

「……だから?」

「いやでも、相賀機長、そんなの全然気にしてなさそうですよ?」


そう、あの男は『俺、男ですよ』と言った自分に対し、ただ至極満足そうに、『うん』とだけ微笑んだのだ。


「……全く、会話になりません」


「少しは気にしろ!!」と心の中で叫ぶ榎本の背後から、滑らかな、聞き覚えのありすぎる低音が響いた。


「何の話?」


「ひっ……!?」と榎本が短い悲鳴を上げて振り返る。

そこには私服姿の相賀が立っていた。

庁舎を出た榎本を、いつものように待ち伏せていたのだ。


相賀を見た若手管制官が余計なことを口にした。


「あ、相賀機長。榎本さんが、男同士だから無理って言ってるんですよ」

「おい!!」


相賀は数秒、真面目に考え込むような仕草をした後、至極当然のように言い放った。


「うーん、そうだな。俺は男とか女とかじゃなくて、榎本だから好き」


周囲の管制官たちが「おお……」と感動の吐息を漏らす中、榎本は顔を覆った。


「職場へ迷惑をかけるなと言っているんです! いい加減にしてください!」

「じゃあ、連絡先教えて」

「嫌です」

「なら、来週も続ける」

「……ッ」


脅迫だ。

これ以上、職場で「相賀の件」が広まるわけにはいかない。

榎本のHPはもうゼロだった。


――そして。

榎本は、折れた。


乱暴にポケットからスマートフォンを取り出し、画面を相賀に突きつける。


「……今回だけです。二度と、職場には来ないでください」

「うん」


相賀の顔に、今日一番の、満面の笑みが浮かんだ。


いつの間にか職場全体が『榎本と相賀をくっつけ隊』に変貌している。

相賀本人にはまだ落ちてないつもりなのに、榎本の職場の外堀はとっくの昔に陥落していたのだ。


その夜。

自宅のリビングで、テーブルの上のスマートフォンがブブッと短く震えた。


『榎本』

『嬉しい』

『会える』

『会いません』

『会う』

『会いません』

『会う』


終わりなき千日手。

画面の向こうで、あの男が楽しそうに笑いながらタップしている姿が容易に想像できて、榎本は静かにスマートフォンを裏返した。


遠くに見える夜の羽田空港の誘導灯を眺めながら、榎本は今日一番の、深いため息をついた。


人格、最悪。

恋愛対象、論外。


(だけど……あの人の腕だけは、本物なんですよね……本当に、腹立たしい)


同じ夜。

羽田近くのホテルの一室。


間接照明だけが灯る静かな部屋で、相賀龍臣はベッドに寝そべりながら、スマートフォンの画面を眺めていた。


画面の最後には、榎本からの冷ややかな拒絶の文字。


『会いません』


相賀の端正な唇が、愉悦に歪んだ。

そこへ、タイミングを見計らったようにスマートフォンが振動を始めた。画面に表示されたのは『鬼崎巧』の名前。


「噂になってるぞ」


スピーカーから、鬼崎の低い声が聞こえてくる。


「連絡先もらった」

「……もらったのか」

「うん」

「榎本が?」

「うん」


受話器の向こうで、鬼崎の重いため息が聞こえる。


「……落ちたか」

「まだ」

「そうか」


相賀は少し笑うと、ゆっくりと身体を起こし、大きな窓の外へと視線を向けた。


はるか遠く、夜の闇に浮かび上がる羽田空港のコントロールタワー。


「俺に会いたくないなら」


相賀は、タワーの最上階を見つめたまま、声音を少しだけ優しく落とした。


「普通はくれない」

「お前は本当に面倒だな」

「知ってる」


相賀は確信に満ちた笑みを浮かべた。

あの頑固な管制官は、まだ自分を嫌っているつもりでいる。


けれど。


本当に嫌なら、連絡先なんて渡さない。

だから大丈夫だ。

焦る必要はない。

どうせ最後には、自分の隣にいる。

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