Leg 1 Initial Contact ~未知との遭遇~
羽田空港内の事務所ビル前。
フライトを終えたNTA(日本トラビスエアー)のB777機長である鬼崎と副操縦士の天野は、貨物便でドバイから日本にやってきた相賀と立ち話をしていた。
「今回はどうだったんですか」
「いつも通り。向こう暑すぎ」
「毎回同じことを言ってるな」
鬼崎が呆れたように言う。相賀は笑った。
長距離フライト直後だというのに、相賀には疲れの色など微塵も見えない。
相賀龍臣という男は、どこにいても目を引く。
ロシア系の血を引く華やかな容姿と、人並み外れた長身。
その姿は王子様という言葉がよく似合った。
――もっとも、中身はまるで違うが。
この男は見た目ほどまともではない。
王子様のような容姿に騙される人間が多いことを、鬼崎は知っている。
こいつはむしろ厄介事を自ら探しに行く性質だ。
鬼崎は過去に何度もその被害を受けてきた。
そんな相賀と、鬼崎たちが他愛もない話をしていると、事務所ビルの自動ドアが開き、一人の男が姿を現した。
首から職員証を下げた航空管制官の榎本だった。
天野がそれを見つけて思わず声を上げる。
「あ、榎本さん」
榎本が顔を上げた。
そして笑顔でこちらへ歩いてくる。
羽田空港の管制官である榎本譲は色白で整った顔立ちをしていた。眼鏡の奥の瞳は涼しげで、男に使うには妙だが「綺麗」という言葉がよく似合う。
穏やかな微笑みを浮かべながら歩いてくる姿はどこか品があり、知らなければ名家の御曹司だと言われても信じるだろう。
相賀は思わず目を見開いた。
(やば)
一方で、鬼崎は露骨に顔をしかめた。
榎本がこちらへ向かってくる。
(来るな)
それが鬼崎の本音だった。
榎本は、ことあるごとに天野にちょっかいを出している男だ。できることなら一歩も近寄ってほしくない。
だが、榎本はそんな鬼崎の鋭い視線など気にも止めず、いつものにこやかな笑みを浮かべて近づいてくる。
「お疲れ様です」
天野と榎本が挨拶を交わす。
榎本は鬼崎にも軽く会釈したが、鬼崎はそれを無視して視線を逸らした。榎本も特に気にする風はない。いつものことだ。
「今日は国内ですか?」
「はい。そちらは?」
「私はもう終わりです。これから上がるところで」
そんな、どこにでもある他愛ない会話。
だが、その輪の中で、相賀だけが完全に黙り込んでいた。
相賀の視線は、榎本が近づいてきたその瞬間から、一秒たりとも彼から離れていない。
値踏みするような、あるいは獲物を見つけた肉食獣のような、異様に濃い視線。
その異変に気づいているのは、隣に立つ鬼崎だけだった。
鬼崎の脳裏に、最悪の警報が鳴り響く。
こういう時に限って鬼崎の嫌な予感はよく当たる。
長い付き合いだ。相賀が厄介事を運んでくるのは、もはや見慣れた光景だった。
案の定だった。
「榎本さん?」
相賀が初めて口を開いた。
低く、けれど妙に鼓膜にへばりつくような声。
榎本がそちらに視線を向ける。
「はい?」
相賀は榎本の目をまっすぐに見つめ、信じられない言葉を吐き出した。
「綺麗ですね」
ピタリ、と空気が止まった。
天野がパチパチと場違いな瞬きをする。
鬼崎は「やはりか」と内心で毒づきながら、片手で額を押さえた。
言われた当人の榎本は、数秒の沈黙の後、
「……ありがとうございます?」
と答えた。
完全に困惑している。
初対面の、それも男のパイロットにいきなり掛けられる言葉ではない。お世辞にしては質が違いすぎる。
「いや、本当に」
「はぁ」
榎本は完全に怪訝な顔をしていた。
だが、相賀はそれが面白くて仕方がないというように、さらに楽しそうに目を細める。
「恋人います?」
「初対面ですよね? いきなりなんですか」
「今から一緒に飯いきませんか?」
「行きません」
即答だった。
一分の隙もない拒絶に、天野は少しだけ安心した。
いかにも冷静な榎本らしいあしらい方だ。
だが、相賀はまったく堪えていなかった。
むしろ、拒絶されればされるほど、その胸の奥の歪な火が燃え上がっていくかのように笑う。
「なぜ」
「初対面ですので」
「なるほど」
納得していない顔だった。
榎本はこれ以上まともに相手をするのは時間の無駄だと判断し、小さくため息をつく。
「では、失礼します」
本気で踵を返そうとした。
だが、相賀が一歩、踏み出す。
榎本のパーソナルスペースを完全に無視した距離まで、一瞬で詰め寄った。榎本が端正な眉をひそめる。
「……なんでしょう」
「眼鏡」
「はい?」
次の瞬間。
相賀の長い指が滑るように伸びた。
スルリ、と榎本の顔から眼鏡が外される。
「は――」
榎本の思考が完全に停止した。
あまりにも予想外の奇行。
声になる前に、相賀のもう片方の手が榎本の腰を強引に引き寄せていた。
そして。
吸い寄せられるように、唇を塞いだ。
静寂。
真昼の羽田とは思えないほど、周囲の音が完全に消え去った。
天野は口を開けたまま固まった。
鬼崎もまた、信じられないものを見る目で固まった。
そして眼鏡を奪われ、視界がぼやけたまま唇を奪われた榎本も、完全に固まっていた。
当の本人である相賀だけが、平然としている。
ゆっくりと唇が離れる。
相賀は、手に入れた玩具を眺める子供のように、どうしようもなく満足そうに笑った。
「やば」
数秒。
本当に、果てしなく長い数秒が経ち、榎本の脳がようやく再起動する。
眼鏡のない、ぼやけた視界のまま、目の前の男をまっすぐに見つめた。
そして。
地を這うような低い声で、呟いた。
「……あ゛?」
天野は震えた。
(え、なに、この状況?!え、えっ?!!)
鬼崎は静かにため息をついた。
(面倒なことになった……)
榎本はまだ、状況のすべてを理解しきれていない。
怒りよりも先に、目の前の男の「理解不能さ」が勝っている。
相賀は、そんな風に困惑し、硬直している榎本をじっと見つめていた。
楽しそうに。嬉しそうに。
どうしようもなく、愛おしそうな目で。
「怒った?」
その一言で、榎本の理性が吹き飛んだ。
完璧だった敬語が、跡形もなく消え去る。
「お前、何してんだ」
「キス」
「そうじゃない」
完全に素のトーンだった。
榎本は相賀の手から無理やり眼鏡を奪い返し、乱暴に掛け直す。その動作だけは妙に冷静だったが、眼鏡を支える指先は怒りで細かく震えていた。
「ふざけるな」
「その顔いいな」
「何がだ」
「最高」
榎本の額に、くっきりと青筋が浮かび上がる。
天野はそれを見て、無言のまま静かに後ろへ一歩下がった。絶対に巻き込まれたくない。
鬼崎もまた、一歩下がって天野を自分の背後に隠した。
世界中で、相賀だけが楽しそうに笑っている。
榎本は数秒、激しい怒りを押し殺すように黙り込んだ。
そして、静かに、確かな殺意を込めて言った。
「……殺す」
本気だった。
目が完全に据わっている。
だが、相賀はそれを受けてなお、心の底から嬉しそうに破顔した。
榎本にとっては、人生で間違いなく最悪の日。
相賀にとっては、人生で間違いなく最高の日。
そしてこの日から。
榎本の築き上げてきた平穏で秩序ある日々は、終わりを告げることになる。
相賀龍臣という名の、龍によって。




