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Leg 0 モノローグ 〜Unscheduled〜

 「……なんで、こうなった」


 榎本譲えのもと ゆずるは、ズキズキと内側から疼くこめかみを指先で押さえた。


 視線を上げれば、目の前には息を呑むような大パノラマの夜景が広がっている。


都内でも有数の超高層高級ホテル。

その最上階にあるメインダイニング。


大きな窓の向こうには、宝石をちりばめたような東京湾の湾岸線が漆黒の海に浮かんでいた。


 テーブルには、エチケットの読み方すら分からない、いかにも年代物らしいワインボトル。


 そして、その向かい側には。


「榎本、これ美味い。食ってみろよ」


 相賀龍臣おうが たつおみ

 世界最高峰の待遇を誇るドバイの航空会社で、旅客機B747の機長を務める男。


 この信じられないほど不条理な状況の元凶が、仕立てのいいジャケットを完璧に着こなして、実に見事に、この上なく楽しそうに笑っていた。


「……聞いてますか」

「ん?」

「私は今日、あなたと食事に来るなどとは一言も聞いていません」

「サプライズ」

「帰ります」

「もうメイン注文した。ここの牛、榎本の口に合うと思う」

「帰ります」

「デザートの特製スフレも予約してある。焼き上がるのに時間がかかるんだって」


 榎本は声も出さず、深々と天を仰いだ。


どうしてこうなった。

本当に、どうしてこうなった。



事の始まりは、ほんの数時間前。


羽田空港の管制塔。

航空管制官である榎本が、いつも通り管制卓でマイクを握っていた、あの瞬間にまで遡る。


スマートフォンが、ポケットの奥で短く震えた。


無視。

数分後、また震えた。

フル無視。

さらに数分後、執拗に震えた。

当然、無視。


 榎本は管制卓のレーダー画面から一瞬たりとも目を離さない。

イヤホンから流れ込んでくる無数のノイズと英語の奔流を、その明晰な頭脳で瞬時に捌いていく。


「Global 712, continue approach runway 34L.」


 電子音の混ざる冷徹な無線の向こうから、一際クリアで、けれど酷く聞き慣れてしまった男の声が返ってきた。


『Continue approach 34L, Global 712.』


相賀の声だった。


楽しそうだな。

なぜか分かってしまう。


声のトーン、ほんの僅かな発音の乗せ方。

たったそれだけで、無線の主がどんな顔をして操縦桿を握っているのかが分かってしまうのが、榎本にとっては最高に腹立たしかった。


 榎本は無表情のまま、感情を一切排したクリアな声で次の指示を出す。


「Global 712, wind 350 at 8 knots, runway 34L cleared to land.」


『Cleared to land 34L. Thanks, Enomoto.』


 最後に余計な私情を挟むな、と怒鳴りたいのを理性で抑え、榎本は短く息を吐いた。


機体は無事に着陸した。

滑走路を外れ、スポットへと誘導されていく巨大なB747の機影をレーダーで見届け、榎本は自分のシフトの合間に、ようやくスマートフォンを取り出した。


 画面に表示された通知。

 **【未読メッセージ 19件】**

 送り主は、言うまでもなく相賀龍臣。


『着いた』

『今羽田』

『今日暇?』

『飯』

『飯行こう』

『返事ない』

『忙しい?』

『まだ?』

『仕事中?』

『終わったら教えて』

『榎本』

『なあ』

『榎本』

『既読つかない』

『管制中?』

『今の声榎本?』

『やっぱり榎本だった』

『今日の声も良かった♡』

『今日会える?』


 時系列を見れば見事なものだった。


ドバイを出発する直前。

巡航中の衛星Wi-Fi。

そして着陸後。

パーキングブレーキをセットし、チェックリストを終えた瞬間。

怒涛の連投。


フライトから解放された瞬間に「無事着いた」ではなく「榎本どこ」を最優先するな。


榎本は無言で画面を閉じた。


会う約束などしていない。

そもそも返事すらしていない。


時計を見れば、定時退勤まであと二時間。

相賀龍臣という男の、常軌を逸した行動力と距離感のバグり方を考えれば、次の展開は容易に予測できた。


退勤時、奴はどこで張っているか。


第一候補:空港ターミナルのロビー

第二候補:管制棟の正面出入口

第三候補:職員用駐車場


最悪なのは第二候補だ。

奴はやる。


 あの無駄に整った容姿で管制棟の入り口に平然と立ち、「迎えに来た」とか宣うに決まっている。

過去に何度もやられた榎本の管制官脳が、即座に「回避ルート」の計算を開始した。


「……今日は出口Cを使うか」


羽田を知り尽くした管制官の頭脳が、即座に脱出ルートをを弾き出す。


 いや、駄目だ。


前回そこを使って撒いた。

あいつは勘が鋭い。

同じ手は学習されている可能性が高い。


ならば地下の連絡通路か。

しかし奴には空自時代からの繋がりでこの羽田に本拠地を置く航空会社に勤務する鬼崎と通じている。

どこから情報が漏れているか分からない。


 もはや完全なる脱出ゲームだった。周囲の同僚が見れば「何から必死に逃げているんだこの人は」と不審に思うだろう。


 二時間後。


 綿密な計画の元、いつもとは全く違う遠回りのルートを通り、細心の注意を払って管制棟の外へと脱出した。


周囲を確認する。

ターミナル側にもいない。

出入口にもいない。

スマホに新しい着信もない。


「よし……」


 思わず小さく呟いた。今日は巻けた。

あの男の異常な嗅覚も万能ではなかったのだと、ほんの少しだけ機嫌を良くして歩き出した、その瞬間だった。


 背後から、躊躇いのない長い腕がヌッと回ってきた。


「捕まえた」

「っ!?」


 反射的に肩が跳ねる。

背中にぴったりと、容赦のない熱と体躯が張り付いて離れない。


「相賀……!」

「うん」

「うんじゃない! 離してください、人目がある、空港です!」

「会いたかった」

「離せっ!」

「榎本は?俺と会えて嬉しい?」

「離せと言っていますっ‼︎」


 会話が成立しない。

いつものことだった。


「どうやってここが分かったんですか!誰かに聞きましたか」

「ううん、勘。なんとなくこっち通りそうな気がしたから」

「……」


 嘘であってほしかった。


鬼崎あたりに情報を抜かれていた方が、まだロジカルで納得がいく。

野生の肉食獣のような「勘」だけで的確にアプローチ変更を当てられる方が、遥かに恐ろしい。


 そして何より厄介なのは、あの男ならきっと『俺を意識してくれてる、可愛い♡』程度にしか受け取らないだろうということだった。


「榎本、飯いこ?店、予約したんだ。夜景が綺麗で、榎本が好きそうな店」

「行きません。興味ありません。帰ります」

「じゃあ、お姫様抱っこで連れてく」

「やってみろ」

「できるけど。やる?」


……できる。


この男は、元戦闘機乗りの圧倒的なフィジカルで、本当にそれを平然とやる。

それが分かってしまうからこそ、榎本は胃の痛むようなため息を吐き、今、こうして最高級のフレンチレストランの席に座らされているのだった。


「……それにしても、なんでここなんですか」


 榎本はなおも不機嫌そうに、運ばれてきた前菜にナイフを入れた。


「わざわざこんな無駄に高い店にしなくても、食事に行くなら他にもいくらでもあるでしょう」

「そう? だって、ここのホテルが今日の俺の宿だから」

「……ホテル?」

「うん。すぐ下の部屋」

「泊まるんですか?ここに?」

「泊まる。会社持ち」

「……ドバイの航空会社は随分と景気がよろしいことで」

「そうでもないよ。でも、会社がお金出してくれるなら、良いところ泊まりたいじゃん。榎本…」

「泊まりません」

「まだ何も言ってないのに」

「言おうとしたでしょうが」


 ハハ、と相賀が楽しそうに喉を鳴らす。


相賀にとっては「金持ちアピール」などではなく、単に『自分の泊まるホテルに美味そうな店があったから、榎本を呼んだ』というだけの、あまりにもナチュラルな行動なのだが。


それが余計に榎本の調子を狂わせる。


「このワイン美味いな。もう一杯飲む?」

「……結構です。一杯で十分です」


 そう言いながらも、榎本は手元のグラスに視線を落とした。

思いのほか口当たりが良く、フルーティーで飲みやすいワインだった。相賀に勧められるまま、断るのも面倒で口に運んでしまう。


 しかし、榎本は本気で気づいていなかった。自分の酒の許容量を。

そして、酔うとどうなるかを。


 相賀はグラスを傾けながら、じっと向かいの男を観察していた。


 料理を口に運ぶ榎本の、白い耳の付け根が、ほんのりと淡い桜色に染まっている。


頬の色は変わらない。


声も、その理路整然とした話し方も、本人の認識では「完全に平常運転」のつもりなのだろう。

 だが、相賀は今までの数回の食事ですでに完璧に把握していた。


榎本譲は、酒に決して強くない。

そして酔うと、真っ先に耳が赤くなる。


「榎本」

「なんです」

「酔った?」

「酔ってません」

 即答だった。

「そう。耳赤いけど」

「……っ」


 榎本が反射的に自分の耳に手を触れる。

数秒の間を置いて、大真面目な顔で言い放った。


「店内の空調が暖かすぎるんです」

「へえ。そういうことにしとく」


 可愛いな、と相賀は頬を緩める。

完璧を装おうとしている姿が、たまらなく愛おしい。

 だが、食事が終わり、席を立とうとした瞬間だった。


 一歩、踏み出した榎本の身体が、ほんの僅かにグラリと揺れた。

 美味いワインに騙され、思った以上に足にきていた。相賀の目が、見逃すはずもなく鋭く光る。


「ほら、やっぱり酔ってる」

「……気のせいです。問題ありません」

「危ないな。ちょっと部屋寄って休んでく?」

「帰ります。タクシーを呼びます」


 榎本は本能的に自身の危機を察知していた。

このままこの男のペースに巻き込まれては、本当に色々な意味で逃げられなくなる。


平静を装いながら、相賀と共にエレベーターに乗り込んだ。


 下降するエレベーターの密室。


「はい、水」

 突然、相賀から冷えたペットボトルを手渡された。

「……どうも」


 榎本は素直に受け取り、キャップを開けて口に含もうとした。その瞬間。


「本当に素直に受け取るんだね」

「は? 水でしょう」

「警戒心ゼロ。もし俺が変な薬でも入れてたらどうするの?」

「……あなたはそんなことしない」


 言った瞬間、榎本は(しまった)と心の中で硬直した。


完全に無意識だった。

口が滑った。


 相賀が、これ以上ないほどに嬉しそうに、その美しい目を丸くする。


「へえ……。俺のこと、そんなに信用してくれてるんだ」

「してません。今のは一般論です」

「いや、した。今、そんなことしないって言った」

「してません!」


 あはは、と相賀が愉しげに笑う。

最悪だ、完全に墓穴を掘った。

顔が熱くなっていくのが自分でも分かる。


酒のせいだ、絶対に酒のせいだ。


「ねえ、キスしてもいい?」

「寝言は寝てから言ってください」

「ダメ?」

「ダメに決まってます!帰ります、扉が開いたらすぐに帰りますから……んぐっ!?」


 言葉は、唐突に遮られた。

 何が起きたのか、一瞬脳の処理が追いつかなかった。


 視界を塞ぐ、相賀の大きな身体。

唇に触れた、強引なまでに生々しい熱と、柔らかい感触。


 ――キス、された。


 それも、初対面の時のあの一瞬の悪戯のようなものではない。

榎本の隙を突いて、完全に奪いにきた、深く、息の詰まるような強烈な口づけ。


「っ、んん……!」


 ようやく唇が離れたとき、エレベーターはまだロビーに到着していなかった。


 想定外の事態に頭が沸騰しそうになりながらも、榎本の身体が怒りのままに動いた。ぐい、と相賀の仕立てのいいネクタイごと、その襟元を強引に掴み上げる。


 エレベーターの壁に背中を押し付けられた相賀は、拒絶されたというのに、どこか満足そうに目を瞬かせていた。


「……お前」


 榎本の口から出たのは、自分でも背筋が凍るほどにドスの効いた、低い声だった。


「人の話、聞いてたか?」

「聞いてた」


 相賀は本当に数秒考え、大真面目に答える。


「帰るって言ってたし、部屋に泊まるのは嫌だって言ってた」

「そこじゃない!なんでキスした!!」

「だって、隙だらけで可愛かったから」

「……」


 反省の色が、一ミリもない。


「次やったら、本当に殴りますよ」

「じゃあ次も、ちゃんと許可取る」

「取っても許可などしません!」

「じゃあ難しいな。どうしよう」


 襟元を掴まれ、凄まじい威圧感で睨みつけられているというのに、相賀はまるで大型犬がじゃれついているかのように楽しそうだった。

榎本が本気で怒れば怒るほど、その「立ち向かってくる反応」が相賀にとっては極上のご褒美になってしまうのだ。


『チーン』と、間の抜けた音を立ててエレベーターの扉が開いた。ホテルのロビーだ。


榎本は掴んでいた手を乱暴に離し、足早に歩き出す。


「どこ行くの、榎本」

「帰ると言っているでしょう。送るのも拒否します」

「酔ってるのに?」

「酔っていません!」

「そう。分かった」


 相賀はそれ以上、無理に引き留めようとはしなかった。

ホテルのエントランスを一歩出た瞬間、まるで計ったかのようなタイミングで、一台のタクシーが滑るようにロータリーに停まり、運転手がドアを開けた。


「どうぞ。帰るんだろ」


 相賀が促す。榎本は不審そうに眉をひそめた。


「お前……まさか」

「家までの料金、もう決済しといたから。カードで」

「……余計なことを」

「余計じゃないよ。榎本、ふらついてるし」


 さっきまであれほど強引に唇を奪って怒らせたくせに、その後のエスコートとフォローだけは完璧にスマートなのだ。

無理に乗り込もうともせず、大人の余裕を崩さずにちゃんと帰す。その絶妙な引き際が、榎本にとっては一番腹立たしく、対処に困る部分だった。


 タクシーのシートに腰を下ろし、ドアが閉まる直前。

 相賀が車の窓越しに、いつもの、あの眩しい王子様のような笑顔で覗き込んできた。


「榎本」

「なんです、もう閉めますよ」

「また来るから」

「来なくていいです」

「無理。会いたいからね」


 極めてシンプルに、けれど一切の迷いなく放たれた言葉に、榎本は何も言い返せなくなった。

 ガチャン、とドアが閉まり、タクシーが静かに滑り出す。


 窓の外を見れば、ホテルの前で小さく手を振る相賀の姿。

街灯に照らされたその表情は、やはりどうしようもなく楽しそうだった。


「……最悪だ」


 榎本はシートに深く背を預け、独りごとのように呟いた。


 本当に、何なんだ、あの男は。

意味が分からない。

不条理で、自分勝手で、重くて、タチが悪い。


文句ならいくらでも浮かんでくるのに。


 榎本の手の中には、相賀に渡され、一度は「そんなことしない」と無意識の信頼を口にしてしまった、あのペットボトルの水が、しっかりと握り締められたままだった。


 本当に、何故こんなことになったのか。

 原因は分かっている。

 問題は、どこで判断を誤ったのかが分からないことだ。


 最初の接触。

 最初の会話。

 最初の一言。


 今にして思えば、あの時点で逃げるべきだったのかもしれない。

 もっとも、その判断ができていたなら、今頃こんな頭痛に悩まされてはいないのだが。


 深いため息を吐く。

 窓の外を流れていく夜の街並みを眺めながら、榎本は数か月前のことを思い出していた。


 すべての始まり。

 あの日、羽田空港で鬼崎と天野を見かけた時のことを。

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