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Leg9 No Visual Contact 〜視認できない距離〜

 名もなき風が、羽田空港の滑走路をかすめていく。


夏の名残を断ち切るように吹き抜けるそれは、ほんのりと冷たい秋の匂いをはらんでいた。


高く澄みわたった青空の下。

航空機がひっきりなしに離着陸を繰り返し、ターミナル周辺は今日も変わらぬ喧騒に包まれている。


「榎本君、話があるんだけど。少しいいかい?」


休憩の終わり際。

上司に声をかけられた榎本は、促されるまま静かな別室へと足を踏み入れた。


「なんのお話でしょうか?」

「うん。君、ここに来る前は、確か鹿児島空港だったよね?」

「はい、そうです」


「実は鹿児島で欠員がでてね。急遽、応援の要請が入ってるんだ」


鹿児島空港――

錦江湾を挟んだ南東に桜島がそびえ、時には火山灰の洗礼を受けることもある土地だ。

風向きや特有の地形を熟知していなければならない、シビアな現場でもある。


「期間はどのくらいですか?」

「半年だ」


「半年、ですか?」

「ああ。後任の教育もお願いしたいんだ」

「......私で、よければ」

「助かるよ。君は鹿児島の経験もあるし、向こうには顔見知りもいるだろ?それに即戦力だからね」


上司がホッとしたように椅子の背もたれに体を預ける。

榎本はメガネのブリッジを軽く押し上げ、静かに頷いた。


「引き受けてもらえて良かったよ」

「いつから行けばいいですか?」

「出来るだけ早くがいいから、準備ができ次第行ってもらえるかな?」

「......わかりました」


短く答えて部屋を出た榎本は、廊下の隅で小さく息を吐き出した。


「半年か......」


おもわず零れた呟きと同時に、脳裏によぎるのはあの男の顔だ。


(あの人は、なんて言うだろう)


自分を見つめる時の、熱を帯びた瞳。

愛おしそうに抱きしめてくる、腕の温もりを思い出す。


「......連絡、しとかないと」


管制塔の窓ガラス越しに広がる、どこまでも高い空の彼方を見つめ、榎本はポケットのスマートフォンに手を伸ばした。


***************


 時を同じくして、地球の反対側。


砂漠のなかにそびえるドバイ国際空港。

その一角にある航空会社の社内では――。


B747の厳しさを体感するシミュレーター訓練を終えた相賀は、社内のラウンジで冷えたコーヒーを口に運んでいた。


そこに、教官であり気心知れた同僚でもあるスーザンが声をかけてくる。


「タツオミ。あなた、日本にいい人ができたんですって?」

「スーザン、誰から聞いたの?」

「社内で噂になってるわよ。オウガ機長が羽田便を希望して、月に何度も乗ってるって」


からかうような彼女の言葉に、相賀は苦笑交じりにカップを置いた。


「今頃になって、君が言っていたことの意味がわかったよ」

「なんのこと?」


スーザンはなんのことか意味がわからず、首を傾げた。


「相手に、昔の俺がキミに言ったことを言われた」

「え?なんて言われたの?」

「......『付き合おう』と言ったら、『今のままじゃダメなのか』と言われた」


しばしの沈黙のあと、スーザンは腹を抱えて笑い出した。


「あはははははっ、ザマーミロ!いい気味だわ」


相賀を指差しながら、それは愉快そうに豪快に笑う彼女をジト目で見つめるとため息を吐いた。


「あの時は悪かったよ。......『ちゃんと付き合って』と言っていたキミの気持ちが、あの時の俺には、わからなかったんだ」

「......今なら、わかるんでしょ?」

「痛いほど。相手から『Yes』がもらえないというのは、なかなか堪えるね」


いつも陽気で、どこか掴みどころのない男が珍しく見せる本気の焦燥。

それを面白そうに眺めながら、彼女は尋ねた。


「でも、諦めるつもりないんでしょ?」

「まあね、絶対諦めない。絶賛アプローチ中さ」


スーザンはふふっと柔らかな眼差しで、嬉しそうに笑った。


「今度、お相手に会わせてよ」

「うん。そのうち連れてくるよ」

「じゃあ私、『元カノです♡』って自己紹介するから」

「やめて。マジでやめて」


速攻で拒否する相賀を見て、スーザンはさらに楽しげに目を細める。


「なに?お相手、ヤキモチ焼きなの?」

「……違う」

「じゃあ何よ?」


相賀はバツが悪そうに視線を外し、ポツリと言った。


「……全く、気にしなさそうだから。俺がそれに耐えられない」

「……あははははははっ!!」


予想外の答えに、ついに彼女の笑い声は止まらなくなった。


やれやれと頭を振った相賀が立ち上がり、飲み終えたカップを片付けたその瞬間、手元のスマートフォンが短く震えた。


画面に表示された「榎本」の文字。

それを見ただけで、相賀の硬かった表情が一気に和らぐ。


「お相手から?」

「うん」


嬉しさを隠しきれない笑みのままメッセージを開いた相賀の顔色が、次の瞬間、サーッと血の気を引いたように凍りついた。


「タツオミ、どうしたの?」

「明後日から、半年間の出張らしい。……だから、その間会えないって」


長年の付き合いである彼女でさえ見たことのないほどの動揺を浮かべ、相賀はその場で固まった。


数秒の静寂の後。

画面をタップし、耳に当てたコール音が数回鳴ると、愛しい人の声が響く。


『……もしもし』

「榎本、出張ってどこ?」

『鹿児島です』

「鹿児島……。半年って、本当?」

『ええ。欠員が出たんです。通常業務と後任育成のため行ってきます』

「…………」


『半年』というあまりにも長い時間が、相賀の胸に重くのしかかる。

現実感が伴わないまま、次の言葉を探して喉が詰まった。


そんな相賀の様子に気づいているのか、いないのか。

榎本は次の言葉を続けた。


『今住んでいる所も解約するんで。……カギを返してもらえますか」

「……じゃあ、送るようにするよ」

『……はい。お願いします』


榎本の部屋の「鍵」。

それは相賀にとって、特別な物だった。


彼との確かな繋がりであり、自分が帰るべき場所を示すもの。


胸を抉られるような喪失感に襲われる。

それと同時に。

この物理的な距離によって、二人の関係が揺らいでしまうのではないかという焦りが頭をもたげる。


「……羽田から鹿児島なら、飛行機だと2時間かからないくらいかな」

「……来るつもり、ですか?」

「うん」


電話越しの榎本がわずかに息を呑む気配が伝わってきた。

少し驚きが混じったその声に、胸が締め付けられる。


「時間、合わないと思うんですけど」

「合わせる」


「無理しないでください」

「してないよ」


「そもそもドバイから飛んできて、さらに鹿児島へ来ようとしてること自体が無茶なんですよ」

「榎本と会えないほうが、俺は辛い」


遮るような相賀の強い口調に、電話の向こうで榎本が息を呑む。


そして、小さく息を吐いた。


「……シフトがわかったら、出来るだけ早く伝えます」

「うん」


相賀が短く返事をする。

互いに次の言葉が継げず、2人の間に冷たい沈黙が落ちた。


大丈夫だ。

きっと、なんとかなる。


互いのスケジュールをやり繰りすれば、会えない時間など埋められる。


この時の二人は、そう信じようとしていた。


だが、シビアに回る航空業界。

容赦ないスケジュールは、彼らのそんな甘い算段を許してはくれなかった。


現実は、そんなに甘くはなかったのだ。

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