Leg10 Final Approach 〜最終進入〜
桜の淡い花びらが春風にさらわれては、アスファルトの隙間にふわりと降り積もっていく。
ターミナルには大きなキャリーバッグを引いた新社会人や、故郷を離れて新天地へと飛び立つ人々が慌ただしく行き交っていた。
羽田空港は今日もいつもと変わらず、轟音を響かせる旅客機たちがひしめき合い、ひっきりなしに離着陸を繰り返している。
この日。
半年間の出張を終え、榎本は鹿児島から羽田へと戻ってきた。
結論から言うと、この半年間。
相賀と榎本は一度も会うことがなかった。
――いや。
会えなかったのだ。
……まさか、1回も都合が合わないとは。
この業界のこと、2人して舐めてたな。
管制官としてのシフトのすれ違いと、世界中を飛び回る超長距離路線の機長という多忙なスケジュール。
お互いの休みが奇跡のようにまったく噛み合わず、画面越しの通話すらままならない日々が続いた。
心底うんざりしたように深いため息をつくと、自分の手に指を絡め、「逃がさない」と言わんばかりにしっかりと捕らえている隣りの男をみやる。
「ん、なに?もうすぐ着くよ」
白く輝くアッシュブロンドの髪を揺らし、笑うその横顔を眺めながら、榎本は車窓から見えるドバイのどこまでも高く乾いた空を背景に、再び深いため息をついた。
――なんで、こうなった。
*****
半年間の鹿児島出張を終え、羽田に帰ってきた榎本は帰還の報告のためターミナルからそのまま事務所へと向かった。
上司に簡単な報告書を提出すると、その場で労いの言葉とともに、そのまま1週間の休暇を言い渡された。
以前住んでいたマンションは出張前に解約してしまっていたため、とりあえずは職場で用意されたマンスリーマンションの詳細を総務から教えてもらう。
今日のところはそこで過ごして、この休暇の間に新しく住む場所を探す予定だった。
必要な用を終え、用意されたマンションへ向かうため、事務所の入り口を出たとこで、ふと足を止めた。
「やあ。久しぶり」
いつもの定位置に、やたらと目を引くアッシュブロンドの男が立っていた。
「……お久しぶりです」
どちらともなく歩み寄り、互いの距離を詰める。
「今日こっちへ戻ること、連絡してなかったと思うんですけど」
「うん」
「……なんで、いるんですか?」
「君の同僚くんたちが教えてくれた」
「…………」
それは完全に個人情報流出なのでは?
そんな冷静なツッコミが脳裏に浮かぶ。
「今日から1週間休みなんだろ?」
「……そうです」
嫌な予感がする。
いや、むしろ嫌な予感しかしない。
「榎本はパスポート持ってる?」
「持ってますけど……」
「それってどこにある?」
「……貴重品なので、今ここに持ってますけど」
「ちょうどよかった」
「……なにがですか?」
そう言うと相賀はニッコリと、どこか底の知れない微笑みを浮かべた。
その笑顔をみて、さっきからずっと感じている違和感の正体にようやく気がつく。
……この人。
会った時から、ずっと目が笑ってない。
得体の知れない嫌な予感に、思わず一歩後ずさろうとした瞬間。
相賀は榎本の片手を取り、有無を言わせぬ手つきでターミナルの方へと歩き出した。
そのまま引っ張られるように、相賀について歩く形になった榎本は思わず声を上げる。
「ちょっ、ちょっと!どこへ行くんですか?!」
「ん?歩くの早かった?手繋いだままが歩きづらいなら抱えていこうか?」
相賀は質問に応えることなく、ただ艶やかに笑いながら軽快に歩を進める。
そんな不毛なやり取りを繰り返しながら歩いていると、視界の端に「国際線ターミナル」の大きな案内板が飛び込んできた。
パスポート。
国際線ターミナル。
榎本の中で、管制官として培ってきた危機管理能力が一気に最高潮まで膨れ上がる。
そして、繋がれた相賀の手を思いっきり振り払い、その場に立ち止まった。
「だから!どこへ連れていくつもりなんだ!!」
思わず声を荒らげて叫んだことで、周囲を歩く旅行客たちの視線が一瞬こちらに集まる。
立ち止まった相賀の表情をみた瞬間、榎本はピタリと動きを止めて固まった。
そこには、さっきまで浮かべていた「貼り付けた笑み」すらなかった。
凍りついたような真顔の相賀は、まっすぐに榎本の目を見据えたまま、その「質問」に応えた。
「ドバイ」
「……は?」
その一言を聞いた榎本が、あまりの飛躍したワードに状況を把握して後ずさるより早く、相賀の長い腕がその肩を力強く抱き寄せた。
逃げ場を塞がれるように身体を引き寄せられ、すぐ間近の耳元で低い声が囁かれる。
「逃げるなら、ここで腰抜かすまでキスして抱き上げて連れて行くよ?」
「っ!!」
冗談なのか本気なのか。
いや、どう見ても本気100パーセントのとんでもないことを、相賀は涼しい顔で言い放つ。
自分を抱き寄せる、信じられないほどの腕の力強さに相賀の本気を感じ取った榎本は、ここで下手に抵抗して周囲の注目を集めるよりはと、観念して大人しく従うことにした。
そして、11時間後。
榎本は相賀と共に、砂漠の陽光に包まれたドバイの地に降り立った。
相賀の圧倒的な手際の良さで、入国手続きもほとんど待つことなく済ませると、空港の到着ロビーの外で静かに待機していた黒塗りの高級車へと乗せられた。
後部座席に並んで腰を下ろす。
相賀が前席の運転手に軽く声をかけると、車はハイウェイへと走り出した。
「……どこへ行くんですか?」
「はは、榎本その質問ばかりだね」
「あなたが何も言わないからでしょうがっ!」
そう笑う相賀に隠しきれないイラつきをぶつけるように鋭く告げる。
その間も、榎本の手は相賀の大きな掌に指をしっかりと絡められ、微塵も隙間がないほど固く繋がれていた。
「俺の家だよ」
相賀は悪びれもせずにそう答えると、繋いだ手をそのまま自分の顔の前まで持ち上げた。
そして。
熱を帯びた瞳で榎本の目を真っ直ぐに見つめながら、その指先へと愛おしそうにキスを落とした。
ーーもう、逃さない。
まるでそう言っているかのような、逃げ場のない熱を持った視線に榎本は小さく息を呑むしかなかった。
*****
高級車は、立ち並ぶ超高層の高級レジデンス群のひとつのエントランス前で静かに停止した。
ドアマンに丁寧に扉を開けられ、促されるままに乗り込んだ高速エレベーターで、相賀は迷うことなく最上階のボタンを押す。
……なんだろう、この既視感。
嫌な予感のデジャヴに、榎本はこめかみを軽く押さえた。
ふと隣の男の顔を見ると、やはりどこか胡散臭い、完璧な王子様の笑顔で微笑まれる。
チン、と心地いい電子音が鳴り、目的地到着を知らせるエレベーターの扉が開く。
相賀は迷うことなく、そのフロアにたったひとつしか存在しない特等席の玄関ドアの前に立った。
「……まさか」
恐る恐る、隣の男をみやる。
「うん、ドバイの俺の家」
「あなた!どんだけ金持ちなんですかっ?!」
榎本は日本の相賀の自宅マンションを思い出し、思わずツッコミを入れずにはいられなかった。
「まあ、それなりに?」
相賀は軽く笑いながら、慣れた手つきでセキュリティキーをかざして鍵を開け、重厚なドアを押し開いた。
「……入って」
促されて足を踏み入れた玄関は、それよりもさらに圧倒的に広かった。
その空間のスケール感に少し気圧されていると、背後でカチャンと乾いた音を立てて重いドアが閉まる。
その音を合図にしたように、背後から回された大きな手が容赦なくグイッと腰を引き寄せた。
「……っ」
何かを言う暇もなかった。
抗議する言葉を紡ぐ暇すら与えられず、唇を塞がれる。
半年間。
スマホの画面越しに顔を見て、その声を聞いて。
それでも、物理的にどうしても触れることのできなかった相手。
その空白の距離を取り戻すかのように。
相賀は榎本を両腕で強く、折れそうなほど激しく抱きしめた。
押し返そうと胸元にあてた手首さえ、大きな掌に容易く絡め取られる。
逃がすつもりなど、最初から一切ないと言葉なく証明するように。
ようやく少しだけ離れた唇の間から、互いの乱れた荒い息がこぼれた。
「……半年」
相賀が耳元で低く、切なさを孕んだ声で呟く。
「長すぎた」
そう零して、また貪るように唇を重ねる。
息継ぎすら許さないとばかりに、熱い口づけが容赦なく繰り返された。
与えられる圧倒的な熱量と、急激な酸欠で、頭の芯がクラクラと目眩を起こす。
離れた互いの唇の端から糸を引き、熱を帯びた吐息が交じり合う。
緊張から解放された頬に、みるみるうちに熱が集まっていくのが自分でも分かった。
榎本はもう自分の足で立っていることができなくなり、背後の冷たい壁に身体を預けたまま、力なくズルズルと床へと崩れ落ちた。
そんな榎本の身体を軽々と抱き上げると、相賀は迷うことなく広いリビングを通り抜け、奥にある寝室へと運んだ。
広大なキングサイズのベッドに優しく、しかし逃がさないように榎本を下ろす。
その上へと覆いかぶさると、再び激しい口づけを落としていく。
離れたかと思えば、渇きを潤すようにまたすぐに唇が重なる。
触れるだけでは到底足りないとでもいうように、角度を変え、何度も執拗に口づけられる。
榎本は呼吸を整える暇もなく、ただ身動きが取れないまま相賀の広い肩に手を置くことしかできない。
「……相賀、」
掠れた声で名前を呼んだその声さえ、すぐに次の容赦ない口づけに飲み込まれてしまう。
相賀は何度も榎本の髪や頬、首筋へと丁寧に触れていく。
それはまるで。
幻ではなく、本当にそこに「いる」のだと確かめるかのように。
その過剰なまでの執着は、どこか恐れているようにも思えた。
滑らかな輪郭を辿るように、熱を持った指先が這わされる。
その指先の熱と、触れる唇の柔らかさに
張り詰めていた理性が少しずつ、グズグズと音を立てて溶かされていく。
「んっ……、っはぁ」
堪えきれずに喉の奥から零れた甘い声に、上の男が息を呑むのが肌越しに伝わってくる。
自分を覗き込むそのアイスブルーの瞳には、普段の余裕など微塵も残されていなかった。
「……君に会えなくて、本当におかしくなりそうだった」
耳元で、微かに震えるような低い声で囁かれ、そのまま肩口に顔が埋められる。
「ずっと、榎本のことばかり考えてた」
「もう、無理なんだ」
「……君がいない日常なんて、これ以上、耐えられない」
背中と腰に回されたその腕に、砕け散るほど強く抱きしめられる。
そして。
ゆっくりと顔を上げた相賀は、潤んだその瞳でまっすぐに榎本の目を覗き込み、一言一言を噛み締めるように懇願した。
「榎本。……俺と『付き合って』」
「……俺のものになって」
ドバイ拠点の747機長で
日本有数の財閥の御曹司で
普段はあふれる自信と余裕で、いつも周囲の斜め上をいくような男が
いま、その美しい瞳を不安の色で揺らしている。
この半年間。
不安を感じたのは、なにも相賀だけじゃない。
実は。
保留にした返事に、少し後悔をした。
こんなことになるのなら
あの時、返事をしておけばよかったと。
容姿、キャリア、財力。
自分は彼に対して何ひとつ勝てるものがない。
そんな圧倒的なスペックを持つ男の「もの」になることに、男としてのつまらない意地が邪魔をした。
もう、自分の心の中では
とっくに答えが出ていたというのに。
「……本当に、今更ですよね」
「え……?」
榎本の小さく漏れたため息と共に溢れた本音に、相賀が驚いたように大きく目を見開く。
そんな相賀の無防備に驚いた顔を引き寄せ、榎本は自らその唇へと軽くキスを落とした。
「……ふふっ。あなたでも、そんな顔するんですね」
絶句して固まっている顔を見て、思わず吹き出した榎本に、相賀はハッと現実に戻ると慌てて確認するようにすがりつく。
「え、榎本っ……!本当?本当に、いいの?」
「……はい。それにここで断っても、……どうせあなた、諦めないんでしょう?」
「うん、絶対に無理」
「だったら、今断っても結局結果は一緒ですよね?」
「……うん!」
心の底から嬉しそうに、少年のように顔を輝かせて返ってきたその「答え」に、榎本は「やはり自分に逃げ道なんかなかったな」と、どこか遠い目をしながら小さく息をついた。
そんな榎本の感傷を優しくかき消すかのように、熱を持った唇へと再び深く丁寧なキスが落とされる。
深く割り込んで翻弄しようとする口付けに、今度は自らその甘い誘いに素直に応える。
唇の隙間で漏れる吐息と、部屋に響く濡れた水音に、2人の間に残っていた最後の理性も完全に焼き切れていった。
首筋をゆっくりと滑り落ちる柔らかな舌の感触に、思わず喉の奥から溢れそうになる声を必死に飲み込む。
「榎本。……俺、多分加減できない」
ほんのりと紅く染まる白い肌に、愛おしさを刻みつけるように濃い痕をつけながら、相賀が低く甘い声で囁いた。
「……初めて、なんです。善処…っ、しろ」
榎本は、次々と与えられる圧倒的な愛撫の合間に、途切れ途切れにそう言い返すのがやっとだった。
「……うん。善処は、する」
ゴクリと喉を鳴らした相賀からのその返答は
この後もれなく完全に無視され、朝まで守られることはなかった。
*****
ドバイに来てから、4日目の朝。
カーテンの隙間から眩しいほどの清々しい朝日が差し込む寝室で、突如として激しい怒声が響き渡った。
「こ……のっ!いい加減にしろ!絶倫めっ!!」
広大なキングサイズのベッドの上で、シーツを引っ被りながらブチギレているのは他ならぬ榎本だった。
「譲が可愛すぎて、どうしようもなかった」
「善処はどこいった!」
「努力はしたよ?すごく我慢した」
「三日三晩、文字通り人のことを寝かさずに抱き潰したヤツのどこに努力の痕跡があるっていうんだっ!!」
懲りずにまたのしかかろうとする相賀の胸元に、榎本は容赦なく両足で連続キックを叩き込みながら、文字通り怒り狂っていた。
「だってさ。譲がエロすぎるのが悪いんだよ?」
相賀は暴れる榎本の両足を鮮やかな手際で簡単に捕らえると、その露わになった白い内腿へ名残惜しそうにキスを落とし、余裕の笑みを浮かべる。
「っっ!!離せっ!」
顔を真っ赤にして叫ぶその身体を再び捕らえ、相賀は満足げに目を細めた。
そして。
長すぎる熱の海から、榎本が完全にベッドからの自由を許されたのは
ドバイの空が再び朝日に照らされた、5日目の朝のことだった。




