Leg8 Home Base ~帰る場所~
連日の猛暑により、アスファルトの上にはゆらゆらと分厚い陽炎が立ち上っている。
照りつける強い日差しを受けながら、いつもより短い間隔で旅客機が滑走路へと進入し、ひっきりなしに離着陸を繰り返していた。
夏の羽田空港は、お盆休みと夏休みが重なった年間最盛期の真っ只中にある。
ガラス張りの旅客ターミナル内は、大きなスーツケースを引きながら笑顔を行き交わせる家族連れや旅行客でごった返し、熱気と高揚感で満ちあふれていた。
だが、そんな華やかな喧騒の裏側で航空従事者たちは、増発便や臨時便の手配、過密なトラフィックの処理に追われ、極限の忙しさに身を削っていた。
榎本の告白から早1か月。
連絡こそ取り合っていたものの、互いに多忙を極めるシフトのすれ違いもあり、直接顔を合わせるのはあの日以来のことだった。
(……久しぶりに会える!)
久しぶりに愛しい人に会える嬉しさに、自然と頬が緩む。
ドバイからの長距離フライトを終えて到着したばかりの相賀は、事務所前のいつもの定位置に佇んでいた。
入口の自動ドアが開き、勤務を終えた榎本が相賀のいるいつもの場所を見る。
その視線に気づいた相賀が、ぱっと花が咲いたように表情を綻ばせた。
二人の視線がしっかりと交わった瞬間。
榎本は甘く胸がこそばゆくなるような、なんとも言えない気恥ずかしさに襲われる。
その浮き立つ胸の動揺を静かに覆い隠し、すっと背筋を伸ばして相賀の元へ歩み寄ると声をかけた。
「お待たせしました」
「うん、お疲れさま」
いつもの穏やかな声音で言葉を交わすと、二人は並んでタクシー乗り場へと歩き出す。
夕刻の待機列に滑り込んできた一両の黒塗りタクシーを捕まえて乗り込むと、相賀は慣れた手つきでドアを閉め、運転手へ行き先を告げた。
当然、自分の自宅へと向かうものと思っていた榎本は、相賀の口から出た見覚えも聞き覚えもない住所に、思わず首をかしげる。
「あれ?どこかで食事して帰るんですか?」
「ん?俺の自宅」
「は?」
「今日は俺の家に榎本と一緒に帰ろうかなと思って」
「ちょっとまて。そんなこと一言も聞いてません」
「うん、今初めて言った」
そう言って悪びれる様子もなく微笑むと、相賀は車内で隣り合う榎本の顔を覗き込み、
手元へ滑り込ませた長い指をそのまま深く絡め合わせてきた。
「っ!」
革シートの陰で、親指の腹を使って榎本の指の付け根をすりすりと優しく撫で上げる。
こちらの反応を楽しむように愛おしげな視線を向けてくる相賀に対し、フロントガラスのルームミラーに映る運転手の視線が気になって仕方がない。
「ちょっと…!」
小声で眉をひそめて抗議するものの、どこ吹く風で余裕の笑みを浮かべる相賀の横顔に、
榎本は彼の性質の悪さを改めて痛感させられていた。
(……この人は!そういうところが、本当にずるいんですよ!!)
翻弄されている間にも、タクシーは首都高速を抜け、都心の高層マンションが立ち並ぶエリアへと入っていく。
夕暮れ時の空を背景に巨大な建築群が車窓を流れていた。
やがて車はその中でも一際重厚な高級マンションの車寄せで静かに停車した。
「……ここ、どこですか?」
タクシーから降り立ち、夕闇にそびえ立つモダンな高層ビルを呆然と見上げる榎本。
その隣へ、トランクから下ろされたキャリーケースを受け取った相賀が、自然な動作で並び立った。
榎本の手を取ると、迷いのない足取りでエントランスへ向かって歩き出す。
ポケットから取り出したスマートキーを自動ドアにかざすと、静かな電子音とともに重厚なガラス扉が開いた。
吹き抜けの天井と大理石の床、洗練された間接照明が照らす広々としたエントランスホール。
その豪華さに圧倒される榎本を気に留める風もなく、相賀は繋いだ手を引いたまま奥のエレベーターホールへと進み、上り用のボタンを押した。
乗り込むと同時に迷いなく押されたのは、最上階のボタンだった。
「…………」
静かに上昇していくエレベーターの中で、榎本はじろりと無言で隣の男を見上げる。
繋がれた手は緩められることもなく、相賀はその強い視線をにこりと胡散臭いほど綺麗な笑顔で受け流した。
静かに到着を告げる電子音が鳴り、ドアが開く。
最上階の内廊下はホテルライクな絨毯が敷き詰められており、フロアの奥に続く扉はただ一つしかなかった。
迷いなくドアの前で立ち止まった相賀は、鍵を解除して重厚な扉を開けると、先を促すように榎本を玄関へ招き入れた。
「どうぞ。ここが俺の家」
足を踏み入れた瞬間、目の前に広がる洗練された開放的な空間に、榎本は思わず言葉を失う。
――ガチャリ。
背後で重厚な玄関の鍵が閉まる金属音が静かに響いた。
「上がって適当に座って」
荷物を置いた相賀が、先に奥へと入っていく。
「……お邪魔、します」
少しだけ気を引き締め直して相賀のあとに続くと、遮るもののない広大なリビングに通された。
正面一面を覆う巨大なガラス窓の向こうには、刻一刻と群青色へ移り変わる夕空と、眼下に広がる街の灯りが一望できる。
一言で表現するなら、まさに絶景だった。
広がる夜景を呆然と眺めていた榎本は、ふと視界の片隅に映る光の軌跡に気づく。
「……あれは、羽田空港ですか?」
「うん、そう。ここ、真正面に見えるんだよ」
ネクタイを緩めながらそばに寄ってきた相賀が、穏やかな声で答えた。
「この景色が決め手でここにしたんだ。離着陸する飛行機、ずっと眺めてる」
そう言う相賀の瞳は、今も遠くで点滅しながら滑走路へ向けてアプローチしていく航空機のライトを、子供のように楽しそうに追っている。
「……今は南風運用ですね」
「俺、ディズニー側通るあのルート、好きなんだよね。景色いいし」
「ああいう進入、海外のパイロットには難しいって聞いたことありますね」
仕事の延長のような他愛ない会話を交わすうち、
相賀は極めて自然な動作で、背後から榎本の腰に腕を回し、体をすっぽりと抱きしめた。
「あ~……。榎本と一緒にこの景色見ながら過ごせるの、幸せ」
「……大袈裟すぎませんか?」
思わずふっと吐息交じりに笑った榎本だったが、
次の瞬間、すっと伸びてきた大きな手が優しく顎を捉え後ろへ振り向かされた。
重ねられた唇から伝わる熱量に呼吸が止まる。
じっくりと味わうようなキスのあと、離れた距離で視線が交差した。
「……大袈裟なんかじゃないよ」
微笑みながら答えた相賀の表情は、どこまでも柔らかく、心からの愛おしさに満ちていた。
そのまっすぐな熱を浴びせられ、榎本は自分の耳たぶが徐々に熱くなっていくのを感じる。
(……本当に、ずるい人だ)
榎本の白い頬がほんのりと朱に染まったのを見逃さず、相賀は心底満足そうに目を細めた。
「適当に座ってて。コーヒー淹れるよ」
「……お願いします」
ひとまず上質な革張りのソファへ腰を下ろし、落ち着かない心地で室内をぐるりと見渡す。
……広い。広すぎないか?
しかも、最上階……だったよな?
このフロア、他に部屋がなかったような……?
室内に置かれているのは、洗練された無駄のないデザインの家具ばかりだ。
しかし、一目で手入れの行き届いた最高級品だとわかる雰囲気を醸し出している。
(……ドバイの航空会社の機長クラスって、これほど高所得なのか?)
素朴な疑問が頭をもたげ始めたその時、相賀がマグカップを二つ手に戻ってきた。
「お待たせ。はい、どうぞ」
「……ありがとうございます」
温かいカップを受け取り、隣に腰かけた相賀が、どこか眉間にシワを寄せている榎本の顔を覗き込む。
「ん?どうした?」
「いえ……。ここ、かなり家賃が高そうだから、ドバイの航空会社の待遇はやはりかなりいいんだなと思って」
相賀はコーヒーを一口すすると、少しだけ首を傾げて考えた。
「ん~……。まぁ、悪くはないよ。でも、ここは家賃かかってないから、あまり関係ないかな」
「家賃が、かかってない?……どういうことです?」
「不動産投資で買った物件なんだ」
「不動産投資?買った??」
「うん、税金とかいろいろ面倒で。それなら不動産の方が楽かなと思って」
「この高級マンションの一室を、ですか?」
「いや、このマンション一棟だけど」
「…………」
「……は?」
思考が一瞬停止した。
待て。ドバイの機長って、そんなに高給取りなのか?!
いや、いくらなんでも高級マンション一棟買いはあり得ないだろう!!
榎本の頭の中で、警告音が最大音量で鳴り響き始める。
すでに嫌な予感しかしない。
そんな榎本の動揺をどこ吹く風で、相賀はいつもの軽い調子で爆弾を投下した。
「実家の都合で関連会社の株持ってるんだ。税理士に不動産の方がいいって言われて」
「……家の事業って、……いいましたか?」
「うん。聞いたことあるかな?『相賀グループ』って」
榎本の掌に、じんわりと嫌な汗が滲んでいく。
待て……。
相賀グループって、あの日本有数の巨大コンツェルン『相賀財閥』の……?
「…………知ってます……。知らない人の方が少ない、大企業ですよ」
「そこの関連会社の筆頭株主なんだ。俺、三男。父親は会長やってて、兄二人がメイン会社継いでるよ」
「…………っっっ!!!」
榎本は声にならない絶叫を上げた。
そんな漫画のような現実があるのか!?
「ちょっと待て!そんなの、聞いてないっ!!」
「うん、初めて言った」
「冗談、……ですよね?」
「大抵の奴は初対面で『相賀』って名乗ったら気が付くんだけどね」
余裕を失って慌てふためく榎本の姿に、相賀は耐えかねたように吹き出した。
「やっぱり気がついてなかったんだ?」
そう言いながら愛おしそうに榎本を抱き寄せると、細い髪を撫で、額へ優しく口づけを落とす。
しかし榎本はその肩をぐっと押し返し、じっとりと冷ややかな目で見つめ返した。
「……面倒ごとは御免です」
「なにが?家は関係ないよ?」
「そんなわけないでしょ!!」
軽く返してきた相賀に、思わず声を荒らげる。
日本有数の財閥御曹司のくせに、『家は関係ない』で済むはずがないだろう!!
「帰ります」
そう言って立ち上がろうとした瞬間、視界がぐらりと揺れ、どさりとソファへ押し倒された。
覆い被さってきた相賀の体温と重みがダイレクトに伝わる。
「……どいてください」
「ダメ」
「……榎本。好きだよ」
相賀はただそれだけを告げると、重なる隙間を埋めるように榎本の唇を自身の唇で塞いだ。
逃げようとする舌を滑らかに捉え、深く執拗に絡め取ってくる濃厚な口づけ。
思考が徐々に白く霞んでいく。
「……はぁっ」
「……可愛い」
わずかに唇が離れ、酸素を求めて胸を上下させる榎本の表情に、相賀の瞳がとろりと甘く濡れた。
そして容赦なく、再び深く唇を重ねていく。
どれほどの時間、そうして貪られていたのだろうか。
ようやく唇が解放されたときには、榎本の呼吸は完全に乱れ、色白の肌は熱を帯びてうっすらと朱に染まっていた。
「……俺たち、絶対相性いいと思うんだよね」
「っ。し、知りません!」
その言葉が示す意味を、嫌でも理解させられてしまう。
そしてそれは、自分自身も薄々感じ取っていた事実でもあった。
相賀に触れられると、張り詰めた理性が心地よく溶かされていく。
拒絶の言葉を組み立てる前に身体が甘く反応し、意識が熱に解けていくのだ。
だからこそ。
これ以上踏み込まないよう防壁を築いていたというのに。
この男はその壁を軽々と壊そうとしてくる。
気づけばシャツのボタンがいくつか外され、露わになった首筋から美しい鎖骨のラインへと、追うような口づけが這わされていた。
「っ!ちょ、っと!待って……んんっ」
たくしあげられた生地の隙間から滑り込んできた大きな手が、脇腹のくびれを優しくなぞり、思わず甘く上擦った声が漏れ出る。
「隠さないで。顔、みたい」
羞恥のあまり腕で顔を覆うと、耳元で甘く囁かれ、その腕を両側からソファへ優しく縫い止められた。
上から見下ろす相賀の熱い瞳に映る自分の顔を想像し、さらに頬が火照っていく。
そのまま再び落ちてきた熱い口づけに、思考の輪郭が溶けていく。
「んっ……、はぁ、んん……っ」
徐々に快楽を受け入れ始めた身体の変化に、百戦錬磨のこの男が気づかないはずがなかった。
止まる気配のない愛撫の熱さに押し切られそうになり、榎本は決死の覚悟で声を張り上げた。
「まっ、待て!まだ付き合ってないのに、これ以上はっ!!」
「……え?」
その一言で、ピタリと全ての動きが止まった。
身体にかかっていた圧力が緩み、榎本は安堵の息を吐き出す。
ふと見上げた相賀の顔は、今まで見たこともないほど目を見開き、驚きで完全に固まっていた。
「え?……付き合って、ない?」
呆然とした声を漏らす相賀に、榎本は衣服を整えながら答える。
「え?付き合ってませんよね?」
「……」
「……え?」
静まり返るリビング。
静寂がやけに耳に痛い。
ようやく思考を再起動させた相賀が、探るようにゆっくりと口を開く。
「……俺、榎本のこと好きだよ」
「はい、知ってます」
「……榎本も俺のこと、好きって言ってくれたよね?」
「……まぁ、はい。そうですね」
「……いつもキス、するよね?」
「あなた、初対面からしてますよね」
再び、なんとも言えない気まずい沈黙が二人を包み込む。
なんとか気を取り直した相賀が、諦め悪く言葉を繋いだ。
「……俺たち、付き合ってないの?」
「そうですね。『付き合う』とは言っていませんし、あなたからも言われていませんから」
「じゃあ、今すぐ付き合おう」
間髪入れずに放たれた言葉。
しかし、榎本は首を縦に振らなかった。
「……今のままじゃダメなんですか?」
その一言に、相賀の表情が強張る。
「そもそもあなた、そういうことにこだわるタイプじゃないと思っていたんですけど」
「今までだって、そうだったんじゃないんですか?」
自分を見つめ返す榎本の瞳は、ごく自然な疑問を抱いているようだった。
たしかに、今まで女性に不自由したことはなかった。
誰かと親しくなり、ベッドを共にし、それでもお互いにそれ以上の深入りを求めない。
相賀にとって、それがこれまでの「恋愛」のスタイルだった。
「嫌だ」
反射的に、拒絶の言葉が口をついて出た。
「今まで」と同じ扱いにされるのは嫌だ。
それだけは、自分の中で明確だった。
予想外の反応に目を丸くする榎本は言葉を続ける。
「別に体の関係を拒んでるわけじゃないですよ」
「……覚悟を決める時間は、ほしいですけど」
「それは嬉しい」
「できるなら今すぐにでも抱きたい」
「え」
「でも。そうじゃなくて……」
「……違うんだ」
普段の余裕を失い、珍しく言い惑う相賀の姿を、榎本は静かな瞳で見つめ直した。
「……あなたが欲しいのは、『今』ですか?」
「それとも。……私との『未来』ですか?」
その問いかけに、相賀は息を呑み、大きく目を見開く。
「……俺は、榎本の『未来』が欲しい」
「ずっと君の隣にいられる、『約束』が欲しい……!」
そのまっすぐで切実な声に、今度は榎本が息を呑んだ。
「今」を楽しむだけの関係でいいなら、このままでもいい。
今までと何ひとつ変わらない楽な関係だ。
けれど――
彼は、自分との「未来」を切望している。
(……このままじゃ、ダメだ)
彼が本気で自分に向き合ってくれている以上、自分も相応の覚悟を決めなければならない。
「……時間を、ください」
動揺で強張る喉から、榎本はなんとかその一言を絞り出した。
「……うん。待つよ」
相賀は愛おしさを噛みしめるように榎本を強く抱きしめ、額にそっと唇を落とした。
その熱っぽい強請るような視線に、榎本は慌てて補足する。
「そのっ!か、体のほうも!もう少し時間をくださいっ」
その必死な態度に、相賀は堪えきれずふっと吹き出した。
「うん、もう少し待つよ」
そう楽しそうに笑って答えた直後。
相賀は榎本の耳元へすっと顔を寄せ、低く甘い声で囁いた。
「けど」
「俺、ものすっっっっごく我慢してるから」
「結構、限界だから」
「……ね?」
「っっ!!」
真顔で囁かれた生々しい言葉に、榎本は真っ赤になって金魚のように口をパクパクと開閉させることしかできない。
その素直で愛らしい反応に、相賀はふにゃりと目尻を下げて再び彼を腕の中へと抱き寄せた。
「あはは、やっぱり可愛いなぁ」
「可愛くなんかないですっ!」
眼下に広がる滑走路の灯りと夜景に見守られながら、二人の甘い攻防は夜更けまで静かに続いていった。




