第9話 復元不能
第9話 復元不能
温泉宿『白鷺亭』の庭には、重たい沈黙が落ちていた。
つい先ほどまで響いていたアルシアの笑い声もようやく収まり、代わりに小川のせせらぎだけが静かに流れている。
レヴァンは縁側に膝をついたまま動けなかった。
フィオラは泣き腫らした顔で震えている。
そしてアルシアは、すっかり冷めてしまった紅茶を眺めながら小さくため息をついた。
「本当に全部燃やしたのね」
「ご、ごめんなさい……」
フィオラは何度目か分からない謝罪を口にする。
「だって、お姉様の嫌がらせだと思ったんだもの……」
「七冊全部を?」
「はい……」
「一冊も残さず?」
「はい……」
アルシアは額を押さえた。
あまりにも見事だった。
普通なら一冊くらいは残る。
普通なら誰かが止める。
普通なら途中で不安になる。
だがフィオラは全部やった。
完璧にやった。
ある意味で才能だった。
「アルシア!」
レヴァンが突然身を乗り出した。
「まだ方法はあるだろう!」
「方法?」
「バックアップだ!」
彼の顔に希望が宿る。
溺れる者が藁にすがる顔だった。
「十年間の記録だぞ!」
「そうね」
「控えがあるはずだ!」
フィオラの顔もぱっと明るくなる。
「そうですわ!」
彼女は涙を拭った。
「お姉様なら絶対に予備を作っているはず!」
アルシアは首を傾げた。
「予備?」
「ええ!」
「バックアップ?」
「そう!」
アルシアは数秒考えた。
そして不思議そうな顔になる。
「ありませんけれど」
再び沈黙。
風が吹く。
庭の青楓が揺れる。
レヴァンが瞬きをした。
「……は?」
「ありません」
「何故だ!」
アルシアは心底不思議そうだった。
「国家機密だからです」
レヴァンは固まる。
フィオラも固まる。
アルシアは説明した。
「外交情報があります」
「うむ」
「税制情報があります」
「うむ」
「貴族の秘密もあります」
「うむ」
「二重保持は重大な規則違反です」
レヴァンの顔色が変わる。
アルシアは紅茶を飲みながら続けた。
「万が一盗まれたらどうするのですか」
「それは……」
「だから原本のみです」
あまりにも正論だった。
セヴェリオが横で頷く。
「財務監察局も同じです」
「お前まで!」
「国家機密ですので」
レヴァンは頭を抱えた。
しかしまだ諦めていない。
「なら、お前の頭の中にはあるだろう!」
「ありますわよね!」
フィオラも縋るように言った。
「十年間やった仕事なんだから!」
アルシアはしばらく考えた。
そして困ったように笑う。
「どうかしら」
「どうかしらじゃない!」
「温泉に入りすぎたのよね」
「何だと?」
「毎日八回くらい入ったから」
セヴェリオが吹き出しそうになる。
アルシアは真面目な顔で続けた。
「美味しいものも食べたし」
「それが何だ!」
「毎日十時間眠ったし」
「だから何だ!」
「すっかりリフレッシュしてしまったの」
アルシアはにっこり笑った。
「頭の中も」
レヴァンの顔が引きつる。
フィオラは呆然とした。
「え……」
「十年間の仕事のことなんて考えたくないもの」
それは本音だった。
十年間。
彼女は人生の全てを仕事へ捧げた。
休日も。
睡眠も。
青春も。
全部だ。
だから今さら戻りたくない。
思い出したくもない。
「そんな……」
フィオラの声が震える。
その頃。
王宮では別の絶望が広がっていた。
魔導裁断炉の前には宮廷魔術師たちが集められている。
灰色のローブを纏った老魔術師が、炉の底に残った微細な灰を調べていた。
王国最高峰の解析術師たちである。
彼らなら何とかできる。
そう信じた職員たちは希望を抱いていた。
しかし。
「無理ですな」
老魔術師は即答した。
「え?」
秘書官が青ざめる。
「復元できません」
「そんな!」
「魔導裁断炉ですぞ」
老魔術師は肩をすくめた。
「分子分解ですよ」
周囲の魔術師たちも頷いている。
「紙ではありません」
「情報そのものが消滅しています」
「復元不能ですな」
その言葉は死刑宣告だった。
職員たちは顔面蒼白になる。
誰かが椅子へ座り込んだ。
誰かが天井を見上げた。
十年間。
十年間積み上げた知識。
十年間の試行錯誤。
十年間の失敗と成功。
全てが消えた。
完全に。
永久に。
そして夕方。
その報告は温泉宿にも届いた。
憲兵隊長が青い顔で報告書を差し出す。
「宮廷魔術師団の最終結論です」
レヴァンが震える手で読む。
『復元不可能』
たった五文字。
しかし重かった。
あまりにも重かった。
レヴァンはその場に崩れ落ちた。
「終わった……」
誰も否定しない。
本当に終わったからだ。
「そんな……」
フィオラの瞳から涙が溢れる。
「そんなぁ……」
彼女は何か言おうとした。
だが言葉にならない。
顔色がどんどん白くなる。
唇も青い。
「フィオラ?」
レヴァンが振り返った瞬間だった。
ふらり。
彼女の身体が揺れる。
「お、お姉様……」
そのまま後ろへ倒れた。
ぱたり。
綺麗な音だった。
泡を吹いていた。
「フィオラァァァ!」
宿中に悲鳴が響く。
憲兵隊が慌てて駆け寄る。
女将も飛び出してくる。
大騒ぎだった。
しかし。
そんな光景を見ながら。
アルシアは静かに温泉饅頭を口へ運んだ。
ふわりと甘い餡の香りが広がる。
美味しい。
本当に美味しい。
そして彼女は思った。
十年間。
自分はこの平穏のために働いてきたのかもしれない、と。
少なくとも今だけは。
王宮の悲鳴よりも、温泉の湯気の方がずっと心地良かった。




