第10話 実務の女王
第10話 実務の女王
国王の執務室には重苦しい空気が漂っていた。
窓の外では冬の名残を残した雲が流れている。
巨大な執務机の上には山のような書類。
未決裁案件。
抗議文。
請願書。
港湾被害報告。
税制混乱による損害一覧。
その全てが、この三日間で積み上がったものだった。
国王アレクシス三世は疲れ切った顔で額を押さえていた。
五十年近く政治に携わってきた。
内乱も見た。
飢饉も見た。
外交危機も経験した。
だが。
引き継ぎ書を燃やした結果として国家機能が停止した事例は初めてだった。
「余は夢を見ているのか」
誰にともなく呟く。
返事はない。
重臣たちも全員死んだような顔をしていた。
その中央ではレヴァンが膝をついている。
かつて王太子だった男。
だが今は見る影もない。
顔色は青白く、頬はこけ、目の下には濃い隈が刻まれていた。
「父上……」
「黙れ」
国王の一言でレヴァンは口を閉じた。
その声には怒りすらなかった。
ただ失望だけがあった。
「余はお前に国を任せようと思っていた」
「……」
「だが、お前は何をした」
国王は机の上の報告書を投げる。
ばさりと紙が散らばった。
「外交問題」
「……」
「港湾停止」
「……」
「税制混乱」
「……」
「貴族社会の分裂」
「……」
「そして引き継ぎ書焼却」
最後の一言だけ妙に重かった。
重臣たちも目を逸らす。
あまりにも馬鹿馬鹿しい。
だが現実だった。
「レヴァン・アークレイド」
国王は静かに告げた。
「お前を廃嫡とする」
空気が凍る。
レヴァンの身体が震えた。
「お、王位継承権を永久停止する」
死刑宣告だった。
「父上!」
「黙れ」
再び一喝される。
「国を滅ぼしかけた男に王冠は渡せぬ」
レヴァンは崩れ落ちた。
もう言い返せなかった。
言い返す資格もなかった。
一方。
フィオラも別室で処分を受けていた。
「修道院……ですか……」
彼女の顔は真っ青だった。
「辺境の聖アグネス修道院だ」
侍従長が淡々と告げる。
その名を聞いて周囲の貴族令嬢たちが震えた。
聖アグネス修道院。
王国で最も規律が厳しい場所として有名だった。
朝四時起床。
掃除。
農作業。
炊事。
帳簿管理。
奉仕活動。
毎日が労働だった。
「私は王太子妃ですわ!」
「違います」
「そんな!」
「元です」
フィオラは泣き崩れた。
しかし誰も助けない。
彼女が理解しなかった実務を、今度は毎日叩き込まれることになる。
その頃。
辺境の温泉宿では別の会話が行われていた。
朝の光が障子越しに差し込んでいる。
食卓には焼き鮭。
だし巻き卵。
炊きたての白米。
味噌汁。
湯気が立ち上り、香ばしい匂いが部屋に広がっていた。
アルシアは幸せそうに箸を動かしている。
「やっぱり朝ご飯は座って食べるものね」
「その通りです」
セヴェリオも頷く。
「立ったまま書類を読みながら食べるものではありません」
「人間らしい生活って素晴らしいわ」
二人がそんな話をしている時だった。
宿の廊下が騒がしくなる。
そして。
国王直属の使者が現れた。
「アルシア・ヴァル・ノクス殿」
使者は深く頭を下げる。
「陛下からの勅命です」
アルシアは箸を止めた。
嫌な予感しかしない。
一時間後。
王宮。
大広間には重臣たちが集められていた。
その中央に立つアルシアは久しぶりに正装している。
深い藍色のドレス。
銀の髪飾り。
かつての疲れ切った顔ではない。
健康的な血色が戻り、瞳にも力が宿っていた。
国王は玉座から立ち上がる。
「アルシア」
「はい」
「頼む」
その一言だった。
王が頭を下げる。
大広間がざわめく。
「この国を立て直してほしい」
アルシアは静かに目を閉じた。
本当は帰りたくなかった。
温泉もある。
プリンもある。
平和もある。
だが。
目の前の老人は本気だった。
国のために頭を下げている。
「条件があります」
「何だ」
「今後、実務への口出しは禁止です」
「認める」
「予算も人事も私が決めます」
「認める」
「休日は取ります」
「ぜひ取れ」
国王が即答した。
重臣たちが何度も頷く。
取ってください。
本当に取ってください。
全員そう思っていた。
「それから」
アルシアは隣を見る。
「補佐官を一人」
セヴェリオが小さく笑った。
「最初から決まっていたようですね」
「十年前から決まっていたかもしれないわ」
セヴェリオは片膝をつく。
「喜んでお受けいたします」
王宮中がざわめいた。
その後。
正式に二人の婚約も発表された。
拍手が起こる。
誰も反対しない。
むしろ祝福しかなかった。
そして翌朝。
国家最高実務総監となったアルシアは、新しい執務室へ足を踏み入れる。
机の上には書類の山。
本当に山だった。
窓際まで積み上がっている。
セヴェリオが苦笑する。
「獲物が大量ですね」
アルシアは椅子へ腰掛けた。
そして一枚の書類を手に取る。
一秒。
二秒。
三秒。
「却下」
「早いですね」
「数字が合ってないもの」
次。
「これも却下」
「理由は?」
「予算二重計上」
次。
「これは承認」
次。
「これは修正」
鋭い視線が走る。
まるで獲物を狩る猛禽類のようだった。
重臣たちは思わず身震いする。
帰ってきた。
本当に帰ってきた。
王宮を支えていた実務の怪物が。
いや。
怪物ではない。
女王だ。
実務の女王だった。
アルシアはペンを走らせながら小さく笑う。
「さて、セヴェリオ」
「はい」
「まずはシュレッダーにかけられた信頼の回収から始めましょうか」
セヴェリオも笑った。
「御意」
そして山積みの書類へ視線を向ける。
「獲物は逃げません」
窓の外では王都の鐘が鳴っていた。
三日で壊れた王国。
だが今。
本当の意味で新しい時代が始まろうとしていた。




