第8話 ――引き継ぎ書はどうしましたの?――
第8話 ――引き継ぎ書はどうしましたの?――
辺境の温泉郷ルミエールは、その日も穏やかな朝を迎えていた。
山々を渡る風は涼しく、小川のせせらぎが絶え間なく耳に心地よい音を届けている。
湯宿『白鷺亭』の庭では白い花が咲き、若葉の香りが漂っていた。
アルシアは縁側に腰掛け、のんびりと朝食を楽しんでいた。
焼きたてのクロワッサン。
ふわふわの卵料理。
山羊のチーズを添えたサラダ。
季節の果物。
そして香り高い紅茶。
十年間の激務では考えられない優雅な朝だった。
「この苺、本当に美味しいわね」
アルシアは頬を緩めた。
隣ではセヴェリオが珈琲を飲んでいる。
「王宮では味わえませんね」
「王宮では朝食を味わう時間そのものがなかったもの」
二人がそんな話をしていた時だった。
遠くから馬の嘶きが聞こえた。
しかも一頭ではない。
かなりの数である。
セヴェリオが眉をひそめる。
「騎兵ですね」
「物騒ね」
「嫌な予感がします」
予感は当たった。
数分後。
宿の前に十数騎の馬が止まった。
土煙が舞い上がる。
憲兵隊だった。
そしてその中心から飛び降りた二人を見て、アルシアは持っていた紅茶を危うく吹きそうになった。
「まあ」
レヴァンだった。
フィオラだった。
たった三日しか経っていない。
それなのに別人のようだった。
レヴァンの髪は乱れ、目の下には濃い隈ができている。
高価な礼服も皺だらけだった。
フィオラに至ってはもっと酷い。
泣き腫らした目。
乱れた髪。
顔色は真っ青。
まるで三日間眠っていない人間の顔だった。
二人は宿へ駆け込んでくる。
そして。
アルシアの前で。
土下座した。
「アルシア!」
レヴァンが叫ぶ。
「頼む! 戻ってきてくれ!」
宿の女将が悲鳴を上げそうになる。
王太子が土下座しているのだ。
普通なら国家的大事件である。
しかしアルシアは驚かなかった。
むしろ。
(あら、本当に三日だったのね)
と感心していた。
「お姉様ぁ!」
フィオラが泣きながら抱きつこうとする。
しかしセヴェリオが無言で一歩前へ出た。
フィオラは止まる。
「ご、ごめんなさいぃ!」
涙がぽろぽろ落ちる。
「私が悪かったの!」
「そう」
「お願いだから助けて!」
「そう」
アルシアは苺を食べた。
美味しい。
本当に美味しい。
王宮の悲鳴が聞こえない場所で食べる苺は格別だった。
「王都が大変なんだ!」
レヴァンが叫ぶ。
「暴動が起きている!」
「そう」
「港も止まった!」
「そう」
「税金も!」
「そう」
アルシアは紅茶を一口飲んだ。
香りが良い。
実に良い。
レヴァンは頭を抱えた。
「何故そんなに落ち着いている!」
「だって私、もう退職しておりますので」
正論だった。
セヴェリオが吹き出しそうになる。
必死で耐えた。
「お願い!」
フィオラは涙で顔をぐしゃぐしゃにしている。
「すぐに手続きを教えて!」
「簡単よ」
アルシアはにっこり笑った。
レヴァンとフィオラの顔が明るくなる。
「本当か!」
「ええ」
アルシアは優雅にカップを置いた。
「まず引き継ぎ書の第一巻と第二巻を開いてください」
沈黙。
「そこに初期対応が全部書いてあります」
さらに沈黙。
風が吹く。
鳥が鳴く。
小川の音が聞こえる。
誰も喋らない。
アルシアは首を傾げた。
「どうしましたの?」
レヴァンの顔色が変わる。
フィオラが震え始める。
セヴェリオが何かを察した。
「まさか」
誰も答えない。
アルシアはもう一度尋ねた。
「引き継ぎ書を開いてくださいな」
フィオラの肩が震える。
「その中に税制特例の更新手順もありますし、港湾運営の緊急対応もありますし、外交問題の初期対処もありますし」
「お姉様」
声が震えていた。
「ええ」
「その……」
「ええ」
「引き継ぎ書……」
フィオラが俯く。
涙がぽたりと落ちた。
「裁断炉に……」
「ええ」
「入れちゃった……」
アルシアの思考が停止した。
一秒。
二秒。
三秒。
完全に固まる。
セヴェリオも固まった。
女将も固まった。
庭の手入れをしていた庭師まで固まった。
沈黙。
そして。
「……え?」
アルシアが聞き返す。
「裁断炉に?」
「ごめんなさいぃぃ!」
フィオラが泣き崩れた。
「だって嫌がらせだと思ったんだもん!」
「全七巻を?」
「全部!」
「魔導裁断炉に?」
「全部!」
再び沈黙。
アルシアは遠くを見る。
青空だった。
実に良い天気だった。
十年間。
十年間かけて作った。
毎晩眠らずに書いた。
税制。
外交。
予算。
人事。
災害対応。
全て。
全て。
全て。
紫色の炎の中へ。
そして。
アルシアは。
笑った。
「まあ!」
宿中に響く声だった。
「素晴らしいわ!」
レヴァンが固まる。
フィオラが固まる。
セヴェリオも固まる。
だがアルシアは止まらなかった。
「ふふっ」
肩が震える。
「ふふふっ」
笑いが込み上げる。
「ははっ……!」
そして。
「はっはっはっはっはっはっは!」
大爆笑だった。
十年間で一番美しい笑顔だった。
青空の下。
若葉が揺れる庭で。
アルシアは涙が出るほど笑っていた。
セヴェリオは呆然と呟く。
「初めて見ました」
「何を?」
「アルシア様が心の底から笑っているところを」
その言葉は正しかった。
十年間。
彼女はずっと働いていた。
笑う余裕などなかった。
だからこそ今。
引き継ぎ書を自ら焼却した張本人たちが泣きながら助けを求めている光景は、あまりにも見事だった。
アルシアは笑いながら目元を拭く。
「本当に?」
「ごめんなさいぃ……」
「本当に全部?」
「全部ですぅ……」
アルシアは再び吹き出した。
そしてようやく一言。
「それはもう」
美しい笑顔だった。
「手遅れですわね」
その言葉を聞いた瞬間。
レヴァンとフィオラの顔から最後の希望が消えた。




