第6話 その頃、元婚約者は温泉にいた
第6話 その頃、元婚約者は温泉にいた
王都から馬車で三日。
山々に囲まれた辺境の温泉郷ルミエールは、春から初夏へ移り変わる季節の柔らかな陽射しに包まれていた。
湯宿『白鷺亭』の庭では青楓が風に揺れ、小川のせせらぎが心地よい音を奏でている。硫黄の香りを含んだ湯気がふわりと漂い、どこか懐かしい気持ちにさせる風景だった。
縁側に腰を下ろしたアルシアは、小さな銀の匙を手に幸せそうな表情を浮かべていた。
視線の先には湯上がり限定の名物。
黄金色の卵をたっぷり使った極上プリン。
表面には琥珀色のカラメルソースが艶やかに輝いている。
「……幸せ」
思わず本音が漏れた。
匙を入れるとぷるりと揺れる。
一口食べる。
濃厚な卵の甘みが舌の上でほどけ、ほろ苦いカラメルが後から追いかけてくる。
アルシアは目を閉じた。
「これが人間らしい生活……」
十年間、王太子妃府で働いてきた。
食事といえば冷めたスープ。
硬くなったパン。
夜中に書類を読みながら飲むぬるい紅茶。
味わうという概念そのものがなかった。
しかし今は違う。
朝は好きな時間に起きる。
昼は温泉に入る。
夜はきちんと眠る。
まるで夢だった。
肌の調子も明らかに良くなっている。
鏡を見るたび、自分でも驚くほど顔色が明るい。
隈も薄くなった。
宿の女将からも、
「お嬢様、最初にいらした時と別人みたいですよ」
と言われたほどだ。
アルシアは嬉しそうに頬を緩めた。
その時だった。
「実に優雅ですね」
聞き慣れた低い声が聞こえた。
アルシアは振り返る。
そこに立っていたのは長身の男性だった。
黒い上着に灰色のベスト。
旅装であっても隙のない身なり。
銀色の髪。
冷静そうな灰色の瞳。
財務監察官セヴェリオ・エインズワースだった。
「セヴェリオ?」
アルシアは目を丸くした。
「どうしてここに」
「有給休暇です」
真顔だった。
あまりにも真顔だった。
アルシアは吹き出した。
「あなたも?」
「ええ」
セヴェリオは縁側へ腰を下ろす。
「命の危険を感じまして」
「王宮に?」
「王宮にです」
即答だった。
女将が湯呑みを運んでくる。
香ばしいほうじ茶の香りが立ち上った。
セヴェリオは一口飲み、深々とため息をつく。
「生き返ります」
「大袈裟ね」
「いえ、本気です」
アルシアは笑った。
十年間一緒に働いてきた。
彼がここまで気を抜いている姿は初めて見た。
「それで?」
「はい」
「王宮はどうなっているの?」
セヴェリオは湯呑みを置いた。
「燃えています」
「火事?」
「比喩です」
アルシアは納得した。
つまり大惨事なのだろう。
「どのくらい?」
「三日も持たないとは思いませんでした」
今度はアルシアが吹き出した。
「そんなに?」
「そんなにです」
セヴェリオは真顔のまま続ける。
「外交問題が一件」
「早かったわね」
「大公夫人を木の実で殺しかけました」
アルシアが固まった。
「……何ですって?」
「木の実アレルギーです」
「嘘でしょう」
「残念ながら事実です」
アルシアは額を押さえた。
頭が痛くなる。
「引き継ぎ書第三巻の最初の方に赤字で書いておいたのだけれど」
「燃えましたから」
「ああ」
そうだった。
燃えたのだった。
分子レベルで。
アルシアは遠い目になった。
セヴェリオはさらに続ける。
「食糧納入も停止」
「はい?」
「給炭予算も停止」
「まあ」
「職員給与も停止」
「ええ……」
「王宮の化粧室から紙も消えました」
アルシアは思わず口を覆った。
笑ってはいけない。
だが笑いそうになる。
「紙まで?」
「紙までです」
「それは気の毒ね」
「現場は泣いております」
セヴェリオは静かに言った。
「そして昨夜の夜会ですが」
アルシアは嫌な予感がした。
「席次ね」
「ええ」
「やったのね」
「やりました」
セヴェリオは頷いた。
「決闘直後の伯爵家同士を向かい合わせに」
「やったわね」
「離婚調停中の元夫婦を隣同士に」
「やったわね」
「本妻と愛人も同席です」
アルシアはついに吹き出した。
笑いが止まらない。
肩が震える。
「本当に?」
「本当です」
「誰が決めたの」
「フィオラ様です」
アルシアは縁側に突っ伏した。
涙が出る。
笑いすぎて。
「私の付箋、無視されたのかしら」
「付箋以前の問題です」
セヴェリオは即答した。
「そもそも本がありません」
「そうだったわ」
また笑う。
十年間の苦労を思うと複雑だが、それでも今はどこか他人事だった。
もう自分の仕事ではない。
それが何より大きかった。
風が吹いた。
庭の青楓が揺れる。
遠くで鳥が鳴いた。
温泉宿の穏やかな空気が二人を包む。
その時、女将がまた現れた。
「お客様、焼きたての温泉饅頭ができましたよ」
蒸気の立つ饅頭だった。
甘い香りが漂う。
「いただきます」
アルシアは迷わず手を伸ばした。
ふわふわの生地。
優しい餡の甘み。
思わず顔がほころぶ。
「王宮より幸せかもしれない」
「比較対象がおかしいですね」
「そう?」
「ええ」
セヴェリオも珍しく微笑んだ。
王宮では今日も悲鳴が飛び交っている。
だがここには湯の香りと饅頭の甘い匂いしかない。
アルシアは青空を見上げた。
「帰りたくないわね」
「私もです」
二人の意見は完全に一致していた。
もっとも。
その願いが叶うのは、あと少しだけだった。




