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第4話 止まる決裁印、詰まる王宮

第4話 止まる決裁印、詰まる王宮


 アルシアが王宮を去って二日目の朝。


 王太子妃府の執務室には、朝から書類の山が築かれていた。


 いや、正確には昨日から積まれている。


 さらにその上へ。


 さらにその上へ。


 書類が積み上がり続けているのだ。


「三百十二件です」


 書記官が死んだような目で呟いた。


「何がだ」


 隣の会計官も死んだような顔で聞き返す。


「本日の決裁案件です」


「増えてるじゃないか」


「増えてます」


 重苦しい沈黙が落ちた。


 王太子妃府は王宮最大の事務機関である。


 外交。


 税制。


 予算。


 人事。


 物資調達。


 災害備蓄。


 ありとあらゆる案件がここを通る。


 つまり決裁印が止まると、国そのものが止まる。


 そして現在。


 完全に止まっていた。


 その頃。


 当のフィオラは執務室にいなかった。


「殿下、この帽子とこちらの帽子、どちらが可愛いと思います?」


 王都の高級帽子店だった。


 薄桃色のワンピースドレスを着たフィオラが、鏡の前でくるりと回る。


 レヴァンは即答した。


「どちらも似合う」


「もう、ちゃんと見てくださいませ」


 フィオラは嬉しそうに笑った。


 昨日の外交問題など綺麗さっぱり頭から消えている。


 レヴァンも同じだった。


「昨日は嫌なことがあったが、今日は楽しもう」


「そうですわね!」


 二人は完全にお忍びデート気分だった。


 一方その頃。


 王太子妃府では職員たちが半泣きになっていた。


「給炭予算の承認期限が切れます!」


「食糧納入契約も今日です!」


「王宮厨房の支払い決裁が止まっています!」


「誰かフィオラ様を連れて来い!」


「どこにいるか分からん!」


 怒号が飛び交う。


 だが主役は不在だった。


 昼を過ぎた頃。


 王宮の巨大厨房では別の悲鳴が上がっていた。


「肉が来ないぞ!」


 料理長が叫ぶ。


 鍋からは香草スープの湯気が立ち上っているが、肝心の食材が不足していた。


「魚も届いていません!」


「乳製品もです!」


「どういうことだ!」


 そこへ納入業者が現れた。


 申し訳なさそうな顔をしている。


「本日の納品は中止です」


「はあ!?」


 料理長の顔が引きつった。


「契約更新の決裁が下りておりませんので」


「何だと!?」


「支払い保証がない状態では商会も商品を出せません」


 料理長は天を仰いだ。


 王宮の夕食会まであと数時間。


 だが肉も魚も届かない。


 華やかな王宮の裏側で、現場はすでに火を噴いていた。


 さらに午後。


 会計局で絶叫が響く。


「給与振込が止まったぞ!」


 職員たちが総立ちになった。


「何故です!?」


「承認印がない!」


「まさか!」


「まさかだ!」


 下級職員の給与支払いも王太子妃府の決裁案件だったのである。


 普段ならアルシアが朝一番で処理していた。


 だが今はいない。


 職員たちは青ざめた。


 王宮の下級職員は給料日を頼りに生活している者も多い。


 家族がいる者もいる。


 家賃を払わなければならない者もいる。


 それが止まる。


「終わった……」


 誰かが呟いた。


 しかし終わりではなかった。


 まだ序章だった。


 夕方。


 王宮西棟。


 侍女長が青い顔で走っていた。


「大変です!」


「今度は何だ!」


「高級紙の在庫がありません!」


「紙くらい何とかしろ!」


「違います!」


 侍女長は涙目だった。


「化粧室の紙です!」


 静寂。


 全員が固まる。


 王宮では王族や高位貴族のために最高級の柔らかな紙が使用されている。


 当然ながら定期契約で補充される。


 そしてその契約更新も。


 王太子妃府の決裁案件だった。


「まさか……」


「在庫が切れました」


「嘘だろ」


「本当です」


 その場にいた全員が頭を抱えた。


 誰も予想していなかった。


 国家運営の危機が、こんなところまで波及するとは。


 同じ頃。


 レヴァンとフィオラは高級菓子店で優雅な時間を過ごしていた。


 テーブルには焼き立てのアップルパイ。


 蜂蜜をたっぷり使った焼き菓子。


 苺のタルト。


 香り高い紅茶。


「幸せですわ」


 フィオラは頬を緩めた。


「王太子妃って素敵なお仕事ですのね」


「そうだろう」


 レヴァンも満足そうだった。


「アルシアは難しく考えすぎていたんだ」


「ええ」


「人はもっと自由に生きるべきだ」


「その通りですわ」


 その瞬間。


 王宮からの伝令が飛び込んできた。


 馬を乗り潰しそうな勢いだった。


「殿下!」


 伝令は息を切らしていた。


「大変です!」


「何だ」


「王宮が止まり始めています!」


 レヴァンが眉をひそめる。


「意味が分からん」


「厨房への食材納入停止!」


「は?」


「職員給与の支払い停止!」


「何だと?」


「さらに」


 伝令は絶望的な顔で続けた。


「化粧室の紙が尽きました」


 沈黙。


 フィオラが瞬きをする。


「紙?」


「紙です」


「それだけ?」


 伝令は叫んだ。


「それだけではありません!」


 彼は本気で泣きそうだった。


「決裁が止まると全部止まるんです!」


 レヴァンとフィオラは顔を見合わせた。


 しかしまだ事態の深刻さを理解していない。


「大袈裟だな」


 レヴァンは肩をすくめた。


「明日処理すれば済む話だろう」


 伝令はその場に崩れ落ちた。


 職員たちも同じ気持ちだった。


 だが彼らはまだ知らない。


 明日はもっと酷い。


 そしてその翌日は地獄になる。


 王宮を支えていた歯車は、すでに音を立てて崩れ始めていたのだから。



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