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第3話 外交夫人は木の実で死にかける

第3話 外交夫人は木の実で死にかける


 アルシアが王宮を去ってから最初の朝。


 王太子妃府は妙な高揚感に包まれていた。


 もっとも、それを感じているのはフィオラとレヴァンだけだったが。


「今日のお客様は隣国ヴァルディア大公国の大公夫人でしたわよね?」


 鏡台の前で髪を整えながらフィオラが尋ねる。


 侍女たちはぎこちなく頷いた。


「はい。本日正午より昼餐会の予定でございます」


「楽しみですわ!」


 フィオラは機嫌が良かった。


 淡い水色のドレスに身を包み、胸元には真珠の首飾りをつけている。窓から差し込む朝日を受けて、金髪がきらきらと輝いていた。


「お姉様はこういう席を難しく考えすぎだったのですわ」


 侍女たちは黙っている。


 怖くて何も言えない。


「人と人ですもの。笑顔で接すれば仲良くなれますわ」


 その頃、王太子妃府の職員たちは青い顔で走り回っていた。


「大公夫人の資料は!?」


「ありません!」


「外交儀礼編は!?」


「ありません!」


「当然です! 燃えましたから!」


 誰かが叫んだ。


 全員が頭を抱える。


 あの引き継ぎ書第三巻。


 外交儀礼編。


 その中には各国の王族や貴族に関する膨大な情報が記されていた。


 好きな食べ物。


 嫌いな食べ物。


 宗教上の禁忌。


 家族関係。


 過去の外交問題。


 絶対に触れてはいけない話題。


 だが今は存在しない。


 紫色の炎になって消えた。


 そして正午。


 王宮の迎賓館は美しく飾り付けられていた。


 白いテーブルクロス。


 銀食器。


 色とりどりの花々。


 窓の外には手入れの行き届いた庭園が広がっている。


 フィオラは満足そうに会場を見渡した。


「完璧ですわ」


「ええ、本当に」


 レヴァンも頷く。


 彼も今日は珍しく外交の場に顔を出していた。


 やがて重厚な扉が開く。


 ヴァルディア大公夫人エヴァリーヌが姿を現した。


 五十代半ば。


 銀髪を美しく結い上げた気品ある女性だった。


 深緑色のドレスは落ち着いた雰囲気を漂わせている。


「お会いできて光栄ですわ」


 フィオラは満面の笑みを浮かべた。


「こちらこそ」


 エヴァリーヌ夫人も優雅に微笑む。


 ここまでは良かった。


 本当に良かった。


 問題はその後だった。


 昼餐会が始まり、最初の料理が運ばれてくる。


 香ばしい匂いが広がった。


 砕いた木の実をたっぷり使った郷土料理だった。


 フィオラは得意そうに胸を張る。


「夫人の故郷のお料理を再現させましたの!」


 その瞬間だった。


 夫人の顔色が変わった。


「……何ですって?」


「お気に召しまして?」


 エヴァリーヌ夫人は料理を見つめた。


 そして震える声で言う。


「これに木の実は入っていますか」


「もちろんですわ!」


 フィオラは嬉しそうだった。


「本場の味を再現するためにたっぷり」


 沈黙。


 次の瞬間。


 夫人の顔が真っ青になった。


「下げなさい!」


 侍女たちが飛び上がる。


「すぐに!」


 夫人は椅子から立ち上がった。


 呼吸が荒い。


 喉を押さえている。


「夫人!?」


 レヴァンが立ち上がる。


「私は重度の木の実アレルギーです!」


 会場が凍り付いた。


 職員たちは頭を抱えた。


 知っていたからだ。


 引き継ぎ書第三巻の最初の方に赤字で書いてあった。


 ※最重要


 エヴァリーヌ夫人は重度の木の実アレルギーあり。


 絶対に木の実を使用しないこと。


 しかも太字だった。


 だが今は灰になっている。


「医師を!」


 誰かが叫ぶ。


 侍女たちが駆け出した。


 幸い夫人は食べる前に気付いた。


 だから命に別状はない。


 だが。


 怒りは残る。


 ものすごく残る。


 空気は最悪だった。


 それでもフィオラは挽回しようとした。


「ほ、本当に申し訳ありません!」


「……」


「お詫びに贈り物をご用意しておりますの!」


 夫人の表情が少しだけ和らぐ。


「お気遣いなく」


「ぜひ!」


 フィオラは侍女へ合図した。


 運ばれてきた箱が開かれる。


 中から現れたのは美しい工芸品だった。


 金属細工の騎士像。


 王国では有名な伝統工芸である。


 だが。


 職員たちの顔色が再び変わった。


「あ……」


 誰かが呟いた。


 終わった。


 本当に終わった。


 その騎士像は百年前の戦争でヴァルディア軍を虐殺した英雄を象ったものだった。


 現在でもヴァルディアでは憎悪の象徴である。


 そしてその話も引き継ぎ書に書いてあった。


 もちろん灰になった。


 夫人は騎士像を見つめる。


 無言で。


 とても無言で。


「素敵でしょう?」


 フィオラは笑顔だった。


「わが国の誇る英雄ですの!」


 夫人のこめかみに青筋が浮かんだ。


「英雄……ですって?」


「はい!」


 職員たちは目を閉じた。


 見ていられない。


 エヴァリーヌ夫人はゆっくり立ち上がる。


 そして冷たい声で言った。


「王太子殿下」


「な、何でしょう」


「これは侮辱ですか」


 レヴァンの顔から血の気が引いた。


「ち、違います!」


「木の実で私を殺しかけた上、我が国の犠牲者を嘲笑する贈り物まで用意する」


 夫人は怒りで震えていた。


「ヴァルディアを敵国とみなしたと理解してよろしいのですね」


「違います!」


「帰国いたします」


 その言葉は宣告だった。


 夫人は踵を返す。


 誰も止められない。


 豪華な昼餐会は完全に崩壊していた。


 残された料理からは香ばしい匂いが漂っている。


 だが誰も食べる気にはなれなかった。


 レヴァンは呆然と立ち尽くす。


 フィオラは泣きそうな顔で首を振った。


「どうして……」


 職員たちは知っていた。


 どうしてか。


 その答えは七冊の引き継ぎ書の中に書かれていたからだ。


 もっとも。


 その七冊はもう存在しない。


 紫色の炎の中で消えてしまった。


 そして夕方。


 ヴァルディア大公国から届いた抗議文を見た外交官たちは、一斉に頭を抱えることになる。


 王宮の混乱は、まだ始まったばかりだった。



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