第2話 愛があれば帳簿なんていらない
第2話 愛があれば帳簿なんていらない
アルシアが王宮を去った翌朝。
王太子妃府は奇妙な静けさに包まれていた。
いつもなら朝早くから書記官たちが廊下を走り回り、会計官が帳簿を抱えて執務室を往復している時間である。しかし今日は誰もが落ち着かない様子で、職員たちは何度も時計を見上げていた。
その理由は簡単だった。
王太子妃府の主が変わったのである。
「まあ! ここが私のお部屋になるのね!」
弾む声と共に扉が開いた。
フィオラだった。
桃色のドレスに白いレースの手袋。胸元には真珠の首飾りが揺れている。後ろには侍女たちがずらりと並び、そのさらに後ろから王太子レヴァンが入ってきた。
「どうだ、フィオラ」
「素敵ですわ!」
フィオラは嬉しそうに部屋を見回した。
広々とした執務室。
大きな窓。
重厚な机。
王宮でも指折りの一等地だった。
しかし次の瞬間、彼女の笑顔がぴたりと止まる。
机の上に積まれた七冊の巨大な本が目に入ったからだ。
「……なにこれ」
その声には露骨な嫌悪が混じっていた。
職員たちは顔を見合わせる。
フィオラは一冊を持ち上げようとした。
だが重い。
想像以上に重い。
「重っ!」
思わず本音が漏れた。
どさりと机へ戻す。
表紙には金文字が刻まれていた。
『王太子妃府全般業務引き継ぎ書・第一巻』
「お姉様ったら……」
フィオラの頬が引きつる。
「どうした?」
レヴァンが覗き込んだ。
「見てくださいな、殿下。この分厚い本」
フィオラは唇を尖らせる。
「私が困るように、わざと置いていったんですわ」
「嫌がらせか」
「ええ。絶対そうです」
職員たちは心の中で悲鳴を上げた。
違います。
嫌がらせではありません。
命綱です。
誰も口には出せなかったが。
「ですがアルシア様が十年間まとめられた大切な引き継ぎ書でして……」
年配の秘書官が恐る恐る言った。
「本日中にご確認いただきたい箇所には赤い付箋も」
「まあ!」
フィオラは目を丸くした。
「付箋まで?」
そして顔をしかめる。
「子供扱いではありませんの」
職員たちの顔色がさらに悪くなる。
レヴァンは一冊をぱらぱらとめくった。
細かな文字がびっしり並んでいる。
税制。
外交。
予算。
緊急対応。
数字と専門用語だらけだった。
十秒後には閉じた。
「読む必要はないな」
あまりにもあっさりした結論だった。
「殿下?」
「フィオラ、お前はどう思う?」
フィオラは即答した。
「見ただけで頭が痛くなりましたわ」
「だろうな」
レヴァンは満足そうに頷いた。
「私は前から思っていたんだ」
「何をですの?」
「愛と笑顔があれば十分だと」
職員たちが凍りつく。
レヴァンは続けた。
「民は帳簿に感動しない。税率にも感動しない。必要なのは人を思いやる心だ」
「素敵ですわ!」
フィオラの目が輝いた。
「そうですわよね!」
「古臭い紙束に頼る必要などない」
「ええ!」
二人は完全に意気投合していた。
若い書記官が青ざめる。
「で、ですが……」
「何だ?」
「その引き継ぎ書には外交上の注意事項や予算執行の期限なども……」
「大丈夫ですわ」
フィオラはにっこり笑った。
「愛があれば解決できますもの」
職員たちは全員同じことを思った。
解決しません。
絶対に。
しかし言えなかった。
言ったところで聞かないからだ。
その時、フィオラの視線が部屋の隅へ向いた。
黒い鉄製の巨大な箱。
王宮の機密処理用魔道具。
魔導裁断炉だった。
「あら」
フィオラが微笑む。
「ちょうど良いものがありますわね」
年配の秘書官の顔色が真っ青になった。
「ま、まさか……」
「不要な物は片付けませんと」
フィオラは侍女たちへ命じる。
「運んでちょうだい」
静寂。
誰も動けない。
だが王太子妃候補の命令には逆らえない。
侍女たちは震えながら本を抱えた。
一冊。
二冊。
三冊。
七冊。
全てが魔導裁断炉の前へ積まれる。
「フィオラ様!」
秘書官が叫んだ。
「おやめください!」
「大袈裟ですわね」
「本当に困るのです!」
「大丈夫ですわ」
フィオラは笑顔だった。
「私、こういう意地悪な宿題は嫌いなんですの」
蓋が開く。
中で紫色の炎が揺れていた。
第二の死神。
そう呼ばれる魔道具だった。
機密文書を完全消滅させるための装置である。
投入された紙は灰すら残らない。
「それでは」
フィオラが第一巻を持ち上げた。
満面の笑みだった。
「さようなら、お姉様の嫌がらせ」
どさり。
本が炉へ落ちる。
次の瞬間。
ゴオオオオオッ!
紫色の炎が吹き上がった。
職員たちは息を呑む。
一冊目が消える。
二冊目が消える。
三冊目が消える。
七冊全てが炎に呑み込まれた。
数分後。
炉の中には何も残っていなかった。
灰すらない。
完全消滅。
静寂が訪れる。
フィオラは満足そうに手を叩いた。
「すっきりしましたわ!」
「うむ」
レヴァンも頷く。
「これで新しい時代の始まりだな」
二人は晴れやかな笑顔だった。
一方。
職員たちは青白い顔で立ち尽くしていた。
若い書記官が呟く。
「終わった……」
隣の会計官も頷く。
「ああ……」
秘書官は天井を見上げた。
「終わりましたな」
まるで葬儀の祈りのようだった。
誰も大声を出さない。
誰も泣かない。
ただ静かに絶望していた。
王太子妃府の心臓部が、たった今、紫色の炎の中へ消えてしまったのだから。
そしてまだ誰も知らない。
三日後、この執務室が本物の地獄へ変わることを。




