第一話 王宮最高の引き継ぎ書
第一話 王宮最高の引き継ぎ書
建国記念を祝う王宮大夜会は、今年も盛大な賑わいを見せていた。
大広間の天井から吊るされた巨大なシャンデリアは無数の光を降り注ぎ、その輝きを受けた大理石の床が鏡のように煌めいている。楽団が奏でる優雅な旋律に合わせて貴族たちは談笑し、給仕たちは銀の盆を手に忙しく行き交っていた。香ばしく焼き上げられた子羊のローストの匂い、薔薇の香水の甘い香り、焼き菓子に使われた蜂蜜の香りが混ざり合い、広間全体がむせ返るほど華やかだった。
そんな中で、アルシア・ヴァル・ノクスだけは壁際に立ち、静かに白葡萄酒のグラスを傾けていた。
鉄紺色の夜会服は上質な仕立てだったが、宝石もレースも最低限しか使われていない。王都で流行している華やかなドレスと比べれば地味そのものだ。しかし彼女にとって服とは仕事着の延長であり、豪華さより動きやすさの方が重要だった。
昨夜眠ったのは午前三時過ぎ。
港湾予算の再計算と税制特例の更新期限が重なり、執務室を出た頃には空が白み始めていた。おかげで睡眠時間は三時間ほどしかない。
眠い。
とにかく眠い。
目を閉じたら、この場で立ったまま眠れる自信があった。
そんな時だった。
「アルシア!」
大広間に響き渡った声に、楽団の演奏がぴたりと止まる。
談笑していた貴族たちが一斉に振り返った。
大階段の上に立っていたのは王太子レヴァン・アークレイドだった。
純白の礼装に黄金の髪。誰もが認める美丈夫であり、民衆からの人気も高い。
そして彼の隣には、一人の少女が寄り添っていた。
フィオラ。
アルシアの妹だった。
桃色のドレスに包まれた小柄な身体。春の日差しを思わせる金髪。潤んだ瞳。
守ってあげたくなる。
そんな言葉が似合う少女だった。
アルシアはグラスを置いた。
ああ、来たのか。
半年ほど前から予感していた瞬間が。
「皆に聞いてもらいたい!」
レヴァンは高らかに宣言した。
「私は本日、この場でアルシア・ヴァル・ノクスとの婚約を解消する!」
大広間がどよめいた。
驚きの声が上がる。
しかしアルシア自身は驚かなかった。
むしろ遅かったくらいだと思った。
「レヴァン殿下。それは、どういう意味でしょうか」
問いかける声は静かだった。
だがレヴァンは勝ち誇ったように笑う。
「言葉通りだ。お前のような冷徹な会計ババアは、国母には相応しくない」
あちこちで忍び笑いが漏れた。
アルシアは二十八歳だった。
確かに若い令嬢ではない。
だが、婚約期間が十年にも及んだのは誰のせいだろう。
王太子妃教育だの、外交実務だの、財務管理だのと次々仕事を押し付けてきたのは王宮の方ではなかったか。
しかし怒りは湧かなかった。
代わりに別の感情が胸いっぱいに広がっていく。
(え……?)
一瞬、理解が追いつかなかった。
(今、何て言った?)
婚約解消。
役職解任。
王太子妃府追放。
頭の中で言葉を並べてみる。
そして理解した。
(私、辞めていいの?)
歓喜が爆発した。
十年間。
十年間ずっと働き続けた。
夜中の呼び出し。
徹夜の決算処理。
外交問題。
予算調整。
貴族同士の揉め事。
休日などほぼ存在しなかった。
それが終わる。
合法的に終わる。
思わず笑いそうになり、慌てて扇で口元を隠した。
「民が求めているのはお前ではない!」
レヴァンはフィオラの肩を抱き寄せた。
「フィオラは昨日も孤児院を訪れ、子供たちにパンを配った。民を愛し、民に愛されている!」
「まあ、殿下」
フィオラが恥ずかしそうに微笑む。
「お姉様も頑張っておられますわ」
「帳簿ばかり見ていて何になる。国母に必要なのは愛だ」
拍手が起こった。
貴族たちは満足そうに頷いている。
アルシアは深く一礼した。
「承知いたしました。殿下のご決断に異議はございません」
その瞬間だった。
「アルシア様!」
悲鳴のような声が響く。
王太子妃府の職員たちだった。
秘書官も会計官も書記官も、揃って青い顔をしている。
「本当にお辞めになるのですか!?」
「港湾決済はどうするんです!」
「来週の外交晩餐会は!」
「災害備蓄更新の期限が!」
貴族たちはぽかんとしていた。
職員たちだけが知っている。
アルシアがどれほどの仕事を抱えていたかを。
アルシアは苦笑した。
「大丈夫ですよ」
「ですが!」
「引き継ぎは終わっていますから」
翌朝。
王太子妃府の執務室には重苦しい空気が流れていた。
長机の上には七冊の巨大な本が積まれている。
黒革の表紙には金文字で題名が刻まれていた。
『王太子妃府全般業務引き継ぎ書・全七巻』
職員たちは絶句した。
アルシアは背表紙を順番に撫でる。
「外交、税制、予算、人事、災害対策、席次管理、年間行事運営。十年間の実務を全部まとめました」
「全部……ですか」
「ええ。一日目に読むべき場所には赤い付箋も貼ってあります」
若い職員の目から涙がこぼれた。
最後まで完璧だった。
アルシアは机の上に愛用の羽根ペンを置く。
使い込まれたそれは、十年間の相棒だった。
「では皆さん、お元気で」
「アルシア様!」
「私はこれから有給休暇を消化してまいります」
そう言って笑った彼女の顔は、誰よりも晴れやかだった。
数時間後。
王都を離れた馬車の中で、アルシアはようやく肩の力を抜いていた。
窓から吹き込む風は新緑の匂いを運んでくる。
鳥のさえずりが聞こえた。
彼女は膝の上の木箱を開く。
中には王都で評判の菓子店のレモンタルトが入っていた。
昨夜、帰宅途中にこっそり買ったものだ。
「いただきます」
一口食べる。
さくりとした生地。
爽やかな酸味。
濃厚なバターの香り。
その瞬間、涙が滲んだ。
「美味しい……」
十年間、こんな風に味わって食事をしたことがあっただろうか。
冷めたスープを流し込みながら書類を読んだ夜ばかり思い出す。
アルシアは窓の外を眺めた。
どこまでも続く草原。
青い空。
穏やかな風。
そして仕事のない未来。
「まずは温泉ね」
そう呟いた途端、眠気が押し寄せてきた。
アルシアはレモンタルトの箱を抱えたまま目を閉じる。
十年間で初めての昼寝だった。
その頃、王宮には七冊の引き継ぎ書が残されていた。
誰もまだ知らない。
それが王国を支える柱であり、三日後に取り返しのつかない悲鳴を生むことになると。




