第五話 聖誕祭
星誕祭の夜――
ベルクレアには、いつも通りの雪が降った。
城壁の上にも尖塔の先にも、街路樹の枝にも、『灰色』の粒が静かに積もっていく。
屋台では焼き菓子と香草酒が売られ、子どもたちの笑い声がベルクレアの夜を包む。
僕は歳を重ねるにつれて、そんな街全体が幸福に酔っているような時間が、好きじゃなくなっていった。
だからこそ盗みやすい。
というか、この街だから盗みができるんだ。
「それで、隠してたのは何なんだ」
人混みの中を歩きながら、ウェインが言う。
僕は下がった右手を持ち上げた。掌を開くと、雪明かりの下でその甲の下が一瞬だけ真紅色に滲む。すると、何もなかった掌の上に淡い銀色の粒がふわりと集まりはじめる。それは霧のように揺れ、やがて密度を増し、一本の刃へと変わった
――細身のフォールディングナイフだ。
ウェインは目を見開いた。無理もない。何もない状態から物質を創り出すなんて、周りからすれば到底あり得ないことなんだから。
「......っ!?」
「こういう感じだ」
僕はナイフを交互に持ち替えながら、そう告げた。
「小さいものならすぐいける。大きいのは面倒くさいが、出来ないことはない。ただ、動きながらは今の俺じゃ無理だけどな」
「やっぱ、お前も使えるんだな。しかも俺のモノより盗みに向いてるんじゃないか?」
僕は少しだけ笑った。
それが少し誇らしかったからだ。
そんなやり取りを終えると、僕はすれ違いざまに、硬貨の入る巾着袋が裂けないよう、腰に結ばれた紐を切っていった。そして、袋が落ちる前に左手で受ける。
この単純な『作業』をずっと繰り返すのだ。
誰にも見つからないように。
盗みを始めて三年が経っている。けれど僕は、誰にも見つからず、そして声を掛けられずやってきたんだ。そのくらい、僕の刃は雪よりも静かで、手つきは呼吸みたいに自然なのだろう。
正直いって、この聖誕祭は人が多過ぎていつもより盗みやすい。僕は、この状況が楽勝だと感じてしまっている。
ウェインが思わず息を呑む。
心の中で「すごい」と思ってくれたんだろうが、僕の研ぎ澄まされた集中を乱さぬよう、その言葉を飲み込んでくれた。
祭りの灯りも人のざわめきも、今夜ばかりはまるで、僕たちのために用意された舞台のように思えた。
もちろん、そんなはずはないのだが......。
そんなことを考えながらも、横目で後ろを確認すると、ウェインが僕の手捌きをずっと見つめていた。
だが僕たちは、この聖誕祭という舞台が、二人を捕えるために動いていた事をまだ知らなかった。
盗人について、露店商たちから騎士団へ何度も苦情と相談が寄せられていたことを――
ベルクレア城衛騎士団が、数人の私服騎士を市場に紛れ込ませていたことを――
しばらくして、僕の目に二人組の男が映った。
地味な外套に腰に吊るされた革袋。
だが、本来なら気づくべき違和感があった。
それは、腰に吊るされているのが庶民の吊るす巾着袋なんかではなく、身分の高そうな『革袋』を利用していること。それに立ち姿に妙に隙がなく、腰の位置が剣を下げ慣れた人間のそれに近かった。
けれど、そのときの僕は獲物しか見えていなかった。そんな違和感に気づくほどの余裕など、あるはずもない。
「ふぅ...あれで最後だ」
そう囁いて二人組の横を通り過ぎる。
刃が袋を吊るす紐を裂く。
革袋を取る。
何ひとつ失敗はなかった。完璧だった。
少なくとも、そう思った。
――数十秒後。
僕とウェインが成果を喜んで小声で笑い合っていた
――そのときだ。
『トンッ』と肩を叩かれる。
軽い動作なのに、逃がさない重みがあった。
「俺の落とし物だ。返してもらおうか」
その声を聞いた瞬間、僕の背中を冷たいものが走った。なぜなら、これまで作業中に声をかけられることはなかった。初めての経験だったからだ。
僕は怯えながら、声のする方向を振り返る。
そこに立っていたのは、さっきの二人組だった。
男が静かな動作でゆっくりと外套を左右に開くと、その胸元にはベルグレイスの紋章が冷徹の光を放っているかのように添えられていた。
その瞬間、僕の中で何かが凍った。
いや...震えだしたんだ。
逃げろ。飛べ。
そう思った。
けれど足が動かない。
初めて悪事を正面から暴かれた衝撃は、十五歳の体から一瞬で力を奪うには十分だった。
この三年間、今まで何度も危ない橋を渡ってきたのに、決定的に捕まったことはなかった。
だから、どうすればいいのか分からなかった。
「ウェインーー」
助けを求めるように名を呼ぶ。
ウェインは、一度走る足を止めて振り返った。
その際ほんの一瞬だけ、雪の中で首もとの影に青が閃いた気がした。とはいえ、光を放っていたというわけじゃなかった。彼が勢いよく振り向いたことで、錯覚でそう見えたのだ。
彼の目に浮かんでいたものが何だったのか、僕には分からなかった。それが恐怖だったのか、迷いだったのか。それとも生き残ろうとする本能だったのか。
――次の瞬間。
ウェインは再び前を向き、西門へ向かって走り出した。
雪を強く蹴り上げ、今度は振り返らずに。
西門を抜け、そのまま隣国のベルグリューンへと。
僕はその背中を見ていた。
ただ見ていることしかできなかった。
僕はウェインが逃げたことよりも
あの瞬間、動けなかった自分に腹が立っていた。
肺に残ったわずかな酸素を、震える喉から無理やり絞り出すように、誰に向けるでもなく小さく吐き捨てた。
「......クソっ...」
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