第36話 『界刻儀式』
魔族が、イザヤたちの住む世界に襲来した時のお話です。
★ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ☆
――今から十六年前。
――魔界。
オクルトゥナ魔王城は、黒い山脈の頂に深く沈み込むようにそびえ立っていた。
城壁は夜そのものを削り出したように黒く、尖塔が赤黒い空を突いている。空には星も月もなく、濁った霧だけが雲のように低く垂れ込めていた。
その最奥。
玉座の間に、魔王グラヴァはいた。
何千年という時を生きた老王である。
黒い髪には灰が混じり、目元には深い皺が刻まれていた。だがその老いは、決して衰えを意味するものではなかった。
玉座に腰を下ろしているだけで、巨大な獣が暗闇に伏せているような圧倒的な圧がある。背筋は曲がらず、肩も落ちていない。その肉体の奥底には、いまだ底知れぬ莫大なマナが眠っていた。
【魔族は、生まれながらに一つの『刻印』を宿す】
それは彼らにとって、特別な証でも称号なんかでもない。息をするのと同じくらい当たり前に、己の身に刻み込まれているものだった。
だが魔族は、己の『刻印』をむやみに晒すことをひどく嫌う。
長衣。外套。装甲。
これらを常に身に纏い、『刻印』を隠しているのだ。
それでも、マナが大きく動けば『印』の光は覆いを透かして漏れ出てしまう。
それが、『刻印』というものの性質だった。
「ペルニカ...」
空気を震わせるような、低い声が落ちた。
「...まだか」
玉座の下で、ペルニカは静かに頭を垂れていた。
魔王グラヴァの側近であり、秘書でもある女。
桔梗紫の長い髪を、黒い床の上に細く流している。その柔らかな髪色とは裏腹に、佇まいに一切の甘さはない。
左頬には紅梅色の『刻印』が静かに浮かび、薄く研ぎ澄まされた刃を鞘に収めたような、張り詰めた緊張感を纏っていた。
「何百年も続けているというのに、魔導機骸実験は一度たりとも成功していないではないか」
グラヴァのその声に、あからさまな怒りはなかった。
そこにあったのは、ただの純粋な疑問だけだった。
だからこそ、玉座の間の空気は重く沈んだのだ。
「余はいつまで、同じ失敗の報せを聞けばよいのだ」
ペルニカは一度、静かに息を整えた。
「申し訳ございません! いまだ、成功例はございません」
「謝罪を聞きたいのではない」
そう言って、玉座の肘掛けに、グラヴァの骨太な指が触れる。
「今すぐ答えを持って来いっ!」
その圧を受けても、ペルニカの声は乱れなかった。
「申し上げにくいことですが......魔導機骸実験では、この先いくら繰り返したところで、グラヴァ様の求める『刻印』には至れないものと思われます」
その言葉で、玉座の間に水を打ったような静けさが広がった。
「.....」
「.....」
それは、何百年もの研究を否定する言葉だった。
周囲に控える魔族たちの気配も、わずかに強張る。
しばらくして、ペルニカが重い口を開けた。
しかし彼女の放つ言葉が、水を打ったような静けさに、さらに冷たい氷を張らせることとなったのだ。
「魔族の血を混ぜた魔導樹脂で肉体を覆い、その上から機骸を固着させる...。...その後、外部の魔導炉から高濃度のマナを送り込み、機骸に刻まれた導紋へ流す...。...導紋を通ったマナは、内側の魔導樹脂へ移り、人工のマナ回路として肉体全体へ巡る......」
「ペルニカ。お前は、何が言いたいのだ」
「肉体を、死に近い状態へと作り替えた上で、高濃度のマナを送り込んでも、あの『刻印』は発現しない......ということです」
その言葉に、グラヴァは一瞬固まった。
「では、何が足りぬというのだ」
静かな問い。
ペルニカは顔を上げる。
「機骸実験と並行し、独自に他惑星の調査を進めておりました。その結果、生命に宿るマナ反応を持つ、『二つの世界』を確認いたしました」
「二つだと?」
「はい。一つは【地球】と呼ばれる世界。もう一つは、【テラ】と呼ばれる世界です。これらはそれぞれ、全く別の太陽系に属しております」
直後、グラヴァの目が『スッ』と細くなる。
「そこへ行くというのか?」
「はい。我々は【テラ】へ行くべきです」
ペルニカは、そこでわずかに声を落とした。
「【テラ】に存在するダンジョンのいずれかに、我々の求める『刻印』へ至る鍵と思われる、『紫結晶』の反応を確認いたしました」
――紫結晶。
それは、魔族が便宜上そう呼んでいるだけのもの。
【テラ】の一部の者たちが、その結晶を別の名で呼んでいることを、彼らはまだ知らない。
通常のマナとは異なる波長。
『刻印』に干渉し、一国全体を飲み込むのではないかと錯覚してしまうほどの、不吉なほど濃い反応。
その話に食い入るように、グラヴァは身を乗り出した。
「ダンジョンの正確な座標は?」
ペルニカは目を伏せ、声を震わせて答える。
「実はまだ、掴めておりません」
「なんだ。見つけていないのか...」
「はい。ただし、【テラ】に存在するダンジョンに関わることは確かです。『紫結晶』の反応は、そのいずれかから発せられていました」
ペルニカの言葉のあと、玉座の間に再び沈黙が降りた。
とたん、玉座の間の灯火が音もなく揺れる。グラヴァはしばらく、何かを思案するように目を閉じていた。
やがてグラヴァは、しばし思案した末に口を開いた。
「......魔導機骸実験は中止だ」
その一言で、何百年も続いた研究は呆気なく終わった。
「我らは【テラ】へ向かう。『紫結晶』を探し出すのだ」
その言葉に、ペルニカは深く頭を垂れた。
「仰せのままに」
「ペルニカよ」
「はい」
「《六刻将》を呼べ」
それは、魔王グラヴァに仕える六人の幹部のこと。
魔族の間では、彼らを《六刻将》と呼んでいる。
後に人々は、恐れを込めてその名に『魔』を加え、《六魔刻将》と呼ぶこととなる。
ペルニカは静かに目を閉じた。魔族は目を閉じることで、同族の間で意思を渡すことができるのだ。
声は要らない。
そして思念は細い糸のように城内を走り、必要な者の意識へと届いた。
《六刻将》の皆様。
玉座の間へ。
魔王グラヴァ様がお呼びです。
程なくして、玉座の間に四つの気配が集まった。
最初に現れたのは、レデニだった。
青みを帯びた銀髪を、黒い長衣の背へまっすぐ落としている女。細身だが弱々しさはなく、無駄を削ぎ落とした体つきに、氷の刃のような冷たさが宿っていた。
次に、ゾロバ。
くすんだ銀灰色の髪を短く後ろへ流した男。
影を引きずるように歩き、白い外套の下からは、ただならぬ不気味さが滲み出ている。
三人目は、スラガティ。
灰を混ぜたような茶髪を肩のあたりで結んだ男。
大柄というより芯が太く、グレージュの外套の下に、鍛えられた筋肉が無駄なく収まっている。
そして最後に、ユナク。
六刻将の中で最も若く、少女のように整った容姿を持つ美しい男。真っ黒な髪を無造作に流し、黒い外套を纏っている。
若さはあっても幼さはなく、冷めきったその瞳からは、いかなる感情をも読み取らせまいとする意志を感じる。
四人は玉座の前に膝をつき、魔王に頭を垂れた。
グラヴァは彼らを見渡しながら、言葉を落とす。
「ザオとドゥビナはどうした?」
その問いに、ペルニカが言葉を探すように答える。
「王城内には...おられません。おそらく......外で、時を潰しておられるもの...かと」
グラヴァは、わずかに呆れたように呟く。
「ならばよい。四人いれば上出来だ」
待つつもりはなかった。
この老王にとって、いない者を待つ時間など、すでに幾千年分も使い果たしていたのだ。
「これより、オクルトゥナ魔王城は【テラ】へと転移する」
そう告げられ、四人の六刻将の気配がわずかに変わった。
「《界刻儀式》を行う!」
《界刻儀式》ーー魔王城そのものを巨大な術式陣として扱う、大規模転移儀式。
城壁、塔、地下祭壇、玉座の間。
城のあらゆる場所に刻まれた術式を起動し、世界と世界の境界に『刻み』を入れるもの。
それは城を移すというより、世界の側に無理やり傷をつける行為に近かった。
「知ってるとは思うが、王城には四方の刻座がある」
グラヴァは、淡々と言葉を続けた。
「ただの床ではなく、魔王城全体に刻まれた術式へマナを流し込むための入口、中枢だ。刻座は、ひとつの意思、ひとつの流れしか受け入れん」
レデニ、ゾロバ、スラガティ、ユナク。
四人はグラヴァの説明を黙って聞いていた。
「お前たちは、それぞれ四方の刻座へ向かえ。そして、『同時』にマナを流し込むんだ。わずかでもずれれば、王城ごと狭間に砕けるやもしれんぞ」
グラヴァは冗談混じりに話し、玉座から身を起こした。
「意思を繋げ! そして、呼吸を合わせろ! お前たちにしかできんのだ」
四人は糸で操られた人形のように、頭を垂れる。
「「「「仰せのままに」」」」
そうして彼らは、四方へ散った。
レデニは、魔王城の北側にある刻座へ。
ゾロバは、南側にある刻座へ。
スラガティは、東側にある刻座へ。
ユナクは、西側にある刻座へ。
魔王城の四方に置かれた刻座は、それぞれが独立した巨大な核のようだった。
黒い円形の床。
その中央に刻まれた古い紋様。
何百年もの魔族の血で染み込んだ石。
やがて四人は、それぞれの刻座の中央に手を置いた。
遠く離れた者同士で、言葉は交わせない
――だが。
意思は深く繋がっていたのだ。
『いくぞ』
レデニの冷たい思念が流れる。
・・・・三。
それに、ゾロバの影のような声が続く。
・・・・二。
そして、スラガティの重い意識が重なる。
・・・・一。
最後に、ユナクの冷たい声が重なる。
・・・・零...。
四つの刻座へ、同時に赤黒いマナが注がれいく。
とたん、刻座に刻まれた紋様が血を混ぜた闇のような光を帯びて激しく脈を打ち始めた。
それに呼応するように、四人の身体にもそれぞれ異なる色の光が宿った。
北側の刻座では、レデニの黒い長衣の袖口の隙間から、凍った水面のようなライトシアンの光が強く輝いた。
南側の刻座では、ゾロバの白い外套の下から、肉体そのものが呼吸しているような萌葱色の光が強く滲んだ。
東側の刻座では、スラガティの襟元の隙間から、太陽が昇るような蜜柑色の光が強く輝いた。
西側の刻座では、ユナクの左手を覆う黒い革の指なし手袋の隙間から、蘇芳色の光が強く滲んだ。
彼らの肌に刻まれた『印』そのものは見えなかった。
だが、身体の内にある『刻印』が、莫大なマナに呼応して強い光を帯びていることだけは分かった。
やがて四つの光は刻座へ吸い込まれ、床下を走り、壁を伝い、塔を駆け上がった。
魔王城全体に刻まれた術式へ、血のようにマナが流し込まれたのだ。
ややあって、オクルトゥナ魔王城が寒さに身震いするように小刻みに震え出した。
それはもはや、城ではなかった。
言うなれば、巨大な一つの『刻印』のようだった。
魔界の空が裂け、黒い雲が渦を巻き、城を中心に空間そのものが歪んでいく。塔が、城壁が、玉座の間が、世界の輪郭から少しずつ剥がれていった。
やがて【テラ】南方の空に、ひび割れのような傷が入った。青い空が布を裂くように割れ、亀裂の奥は赤黒く、光とも闇ともつかない狭間が覗いている。
その裂け目から、雲を押し分け、空気を震わせながらオクルトゥナ魔王城が少しずつ...だが確実に、姿を現していた。
数時間が過ぎて、魔王城の全貌が【テラ】という世界に深く食い込んだ。
《界刻儀式》は成功したのだ。
だがその成功は、世界に癒えない傷を残してしまった。
【テラ】のマナが狂い始めたのだ。
森の獣が吠え、湖の魚が水面を跳ね出す。
町で眠っていた子どもが理由もなく泣き出し、ダンジョンの扉は『ガタガタッ』と音を立て始める。
それに加え、人間、他種族、鳥、獣――
【テラ】に生きるもののうち、マナを宿す一部の身体にも異変は起き始めたのだ。
皮膚の下に、薄いタトゥーのような模様が浮かんだ。
手首、背中、胸元をはじめ、身体の至る所に。
まだ意味を知らない『印』が、世界のあちこちに刻まれていったのだ。
『刻印』
次第にそう呼ばれる力が、【テラ】に現れた瞬間だった。だが変わったのは、【テラ】の生き物だけではなかった。
世界の狭間を抜けた魔族たちにも、異変が起きていた。もともと一つの『刻印』を宿す彼らのうち、一部の者の身体にも、もう一つの『印』が浮かび上がったのだ。
【二つ目の『刻印』の発現】
それは【テラ】に住む人々にとっての、『終わりの始まり』を意味しているかもしれない出来事。
やがて、魔王城が降りてきた空には、赤黒い傷跡が残った。世界と世界の狭間へ続く閉じない傷跡。
魔族はのちに、それをこう呼び始める
――『界狭痕』と。
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