第26話 『ティエラ・ロゼンタール』
クルエルたちが去ったあと、今度は細い足音が近づいてきた。
ずっしりとした重い足音ではなく、どこか控えめで優しい足音。
ベルクレアの時みたく、再びアリーシャが面会に来たのかと思ってしまった。
だが違った。
鉄格子の前まで歩いてくるのは、酒場にいた青い髪の少女だった。
背丈は僕より僅かに低いくらいで、年も同じくらい。
肩に近いあたりで服が少しずれ、首元が見えた。
けどウェインと同じような場所に、『印』のようなものは何もなかった。
(ごく平凡な女の子じゃないか...)
暴力や戦いとは無縁そうな子。
彼女は鉄格子の前で立ち止まり、少し照れたように僕からそっと視線を逸らした。
「あの、さっきはありがとう。助かったわ」
声は意外にもはっきりしていた。
多少の恥じらいはあるが、芯のある通った声。
「でも迷惑かけたね。ごめん...」
彼女は僕に、そう詫びを入れてきた。
僕は少しだけ笑ってしまった。
迷惑だなんて微塵も思っていない。
むしろ、僕のほうこそ騒ぎを大きくしたんだ。
「怪我はなかったか? 俺のほうは大丈夫だ!
腹はまだ痛むが、笑うくらいの余裕はあるから」
彼女は目を瞬かせて、それから小さく頷く。
「うん、私も怪我してない」
「ならよかった」
とても短いやりとりだった。
それでも、彼女が無事で内心ほっとした。
「俺、イザヤって言うんだ」
僕は鉄格子に近づき、彼女の顔を見て名乗った。
「お前の名を聞いてもいいか?」
そう言うと、彼女はほんの少しだけ恥じらう表情を見せた。
何を恥じらっているのか僕には分からないが、もしかすると、名前がおかしくて名乗りたくないのだろうか。
「......ティエラ・ロゼンタール」
「ん?」
「変、かな?」
「いや全然っ! とってもいい名前じゃないか」
たしかに、彼女の名は青い髪が似合うほどに、綺麗で心地のいい響きをしていた。
とはいえ、なんだその名前は。
いくらなんでも長すぎないか?
「ほんとに、ティエラ・ロゼンタールっていうのか?」
聞き返すと、彼女は少しだけ『ふふっ』と笑った。
僕の返しが、そんなにおかしかったのだろうか。
「そうよ。ティエラが名前で、ロゼンタールは私のファミリーネームなの。ファミリーネームってのは、王侯貴族の血を引く者にだけあるのよ。普通の人は、これを聞くと驚くけど、もしかしてイザヤは聞いたことない?」
聞いたことない。
ロゼンタール? 一体どこの国なんだ。
そんなことを思っていると、僕たちの間に、横から割って入るように声が響いた。
しかもその声は、僕のよく知っている声だった。
「仲良く話しているところ、邪魔するようで申し訳ないが、そいつは明日早いんだ。早く帰ってくれ」
僕は鉄格子を掴み、隙間から通路の奥を覗き込んだ。
するとポケットへ手を入れたまま、近づいてくるクルエルの姿があった。
どうやら、さっきまでの僕への苛立ちは、とっくに消えているようだった。
「知ってるとは思うが、外はもう夜だ。俺が宿まで送ってやるから、今すぐに帰るぞ」
クルエルは、彼女にそう言葉を掛けた。
しかし彼女は、その発言が気に入らなかったのか「子ども扱いしないでよ」とでも言いたげに口を尖らせ、クルエルをじーっと見つめていた。
「イザヤ、お前は今晩ここで寝てもらう」
「え? ここから出しに来たんじゃ・・・「な訳あるか。お前のぶんの宿代は無いんだ。また朝になったら迎えに来るから準備しとけ。それを伝えに来た」
それだけ言って、来た道を引き返していった。
彼女は僕に向けて小さく手を振り、それからクルエルの影を追うように歩いて行った。
二人の足音が、少しずつ遠ざかっていく。
僕は冷えた石壁に背を預け、その足音に耳を傾けながら深く息を吐いた。
「なんでだ〜。また牢かよぉ」
今夜もろくに眠れないだろうな。
そう思うと、笑う気にもなれなかった
――けれど。
疲れが溜まっていたのだろう。
冷たい石床の上でしばらく横になっていると、気づけば僕は、ゆっくりと目を閉じ、深い眠りへと沈んでいたのだ。
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