第98話 帰りの船
出立の朝、桟橋に、人が集まっていた。
町の者が、二百人ほど。司祭が、十四人。それから、名を取り戻した七人。
オーディルは、いちばん前に立っていた。
王の衣ではなかった。麻の、簡素な上着だった。浜の小屋を建てるのに、四日着ていたものだった。
「西の魔王」
「オーディル」
「世話になった」
「ああ」
「礼は、言わん」
「言うな」
二人の魔王は、それきり、何も言わなかった。
握手もしなかった。
ただ、同じ方角を見ていた。海のほうを。
◇
セイレが、リーシェの前に来た。
宿の前掛けをつけていた。今朝から働き始めたのだと、女将が言っていた。
「半身さま」
「セイレさま」
「お世話に、なりました」
「いいえ」
リーシェは、首を横に振った。
「私は、何もしておりません」
「いいえ」
セイレは、はっきり言った。
「名前を、くださいませんでした」
リーシェの目が、熱くなった。
「あれが、いちばん、ありがたく、ございました」
「……はい」
「三日、つらう、ございました」
「はい」
「いままでで、いちばん、つらう、ございました」
彼女は、そう言って、少し笑った。
まだ、うまくなかった。
けれど、四日前より、少しだけ、笑い方に近づいていた。
「アルト様」
「は、はい」
「石は、まだ、遠くへ飛びません」
「れ、練習です」
「はい。練習でございます」
アルトが、耳まで赤くなった。
セイレは、それを見て、また少し笑った。
――何がおかしいのか、たぶん本人にもわかっていなかった。
◇
船が出た。
港が遠くなった。白い崖と、灰色の屋根と、その向こうの城の跡。
城は、もう、ない。石の壁だけが残っている。
浜に、小屋が一つ、建っていた。
その前に、白い髪の男が立って、こちらを見ていた。
いや、見ていなかった。
彼は、海のほうを向いていた。
朝の分の、一度目だった。
◇
その夜、船の甲板に、二人で出た。
風が、暖かかった。行きの海とは、まるで違った。
行きは、この海が怖かった。千年、誰も渡っていない海で、向こうに何があるかもわからなかった。ナディアは二日、船室から出てこなかった。
帰りは、同じ水の上を、同じ船で、同じ六人が渡っている。それだけのことで、海は、まったく違うものに見えた。
船尾のほうで、アルトとハインツの声がしていた。東の言葉の稽古を、まだやっている。ハインツが同じ単語を三度言い、アルトが三度とも違う発音をして、二人で笑っていた。
「ゼルヴァーンさま」
「ああ」
「お話が、あります」
「ああ」
リーシェは、手すりに手を置いた。
「あの夜のことです」
「ああ」
「私は、あなたに、背を向けました」
「僕もだ」
「はい」
彼女は、少し、笑った。
「あなたは、間違って、おられませんでした」
「君もだ」
「はい」
「僕は、いまでも、そう思っている」
ゼルヴァーンは、言い直さなかった。
「あの時、器がいれば、東の循環は戻った。それは、正しい」
「はい」
「だが、器は、最初から埋まっていた」
「はい」
「僕は、間違っていなかったが、外れていた」
リーシェは、その言い方に、少し驚いた。
「外れて」
「ああ。正しいことを言って、外れることがある。千年で、初めて知った」
彼は、海を見ていた。
「僕は、あの夜、君に言わなかったことがある」
「はい」
「怖かった」
リーシェの手が、止まった。
「何が、ですか」
「君が、僕と、同じ結論に来ないことが」
波の音が、船腹を打っていた。
「僕は、千年、誰とも意見が違わなかった」
ゼルヴァーンは、そう言った。
「デミウルゴとナディアは、僕に従う。城の者は、僕に従う。誰も、僕と違うことを言わなかった」
「はい」
「意見が違う相手というのは、いなかった。――いなかったのではない。いなかったから、違いようがなかった」
彼は、手すりを握った。
「君が、初めてだ」
「……はい」
「初めて、僕と違うことを言う者が、隣で眠っている」
リーシェは、彼の横顔を見た。
「怖かった」
千年の魔王は、そう言った。
「このまま、君が、僕から離れていくのかと思った」
リーシェは、しばらく、何も言えなかった。
言えないまま、彼の袖を、掴んだ。
「ゼルヴァーンさま」
「ああ」
「離れません」
「ああ」
「割れましたけれど、離れておりません」
「ああ」
「あの夜から、私は、ずっと、あなたの背中の温かさを、数えておりました」
ゼルヴァーンの手が、止まった。
「……数えたのか」
「はい。夜の数だけ」
「数えるな」
リーシェは、笑った。
「ただいま記録しております」
彼が、こちらを見た。
そして、めずらしく、声を出して笑った。
千年で、二度目か三度目の笑い方だった。
◇
「リーシェ」
「はい」
「これから、何度も、あると思うか」
「割れることですか」
「ああ」
「あると思います」
「そうか」
「はい。私たちは、傷の形が、違いますので」
リーシェは、続けた。
「あなたは、待たされた人です。私は、決められた人です。同じものを見ても、違うところが痛みます」
「ああ」
「ですから、これからも、割れます」
「そうか」
「はい」
リーシェは、手すりから手を離して、彼のほうを向いた。
「――嬉しいです」
「何がだ」
「割れても、隣にいられることが」
ゼルヴァーンは、少し黙った。
それから、手を伸ばして、彼女の髪に触れた。
「リーシェ」
「はい」
「君は、僕の千年を、変えた」
「はい」
「そして、今度は、僕の次の千年を、面倒にする気だな」
「はい」
彼女は、はっきり答えた。
「たくさん、面倒にします」
「そうか」
彼は、頷いた。
「では、いい」
二人は、額と額を合わせた。
千年で、何度目かの、額の重なりだった。
数えていたのは、たぶん、二人ともだった。
お読みいただき、ありがとうございます。
帰りの船の上で、あの夜の決着です。
セイレのお別れの言葉が、私はいちばん好きです。
「名前を、くださいませんでした。……あれが、いちばん、ありがたく、ございました」
「三日、つらう、ございました。いままでで、いちばん、つらう、ございました」
アルトへは、こうでした。「石は、まだ、遠くへ飛びません」「れ、練習です」「はい。練習でございます」
浜の小屋の前で、オーディルは、海を向いておりました。
——朝の分の、一度目です。
甲板の場面です。
ゼルヴァーンが、初めて、あの夜の本当のところを言いました。
「怖かった。……君が、僕と、同じ結論に来ないことが」
千年、誰とも意見が違いませんでした。誰もいなかったので、違いようがなかったのです。
「初めて、僕と違うことを言う者が、隣で眠っている。——このまま、君が、僕から離れていくのかと思った」
「離れません。割れましたけれど、離れておりません。あの夜から、私は、ずっと、あなたの背中の温かさを、数えておりました」
「……数えたのか」「はい。夜の数だけ」「数えるな」「ただいま記録しております」
——この作品でいちばん有名な三つを、ここで使わせていただきました。
「これからも、割れます。私たちは、傷の形が、違いますので」
「あなたは、待たされた人です。私は、決められた人です。同じものを見ても、違うところが痛みます」
「——嬉しいです。割れても、隣にいられることが」
「君は、僕の千年を、変えた。そして、今度は、僕の次の千年を、面倒にする気だな」
「はい。たくさん、面倒にします」
「では、いい」
次回、第99話「北から」。
帰りの船の上で、三つ目の声を聞きます。
ブックマーク・評価・感想、何卒お願いいたします。
何度目かの額の重なりに、☆ひとつをお力添えください。
蒼空ルーシェ




