第97話 氷が、溶ける
城が完全に溶けたのは、それから四日後だった。
最後まで残っていたのは、玉座だった。
氷の椅子が、少しずつ小さくなって、ある朝、跡形もなくなっていた。あとには、石の台座だけが残った。座る場所のない、平らな石だった。
オーディルは、そこに何も置かなかった。
「椅子は、要らん」
「三千年、座りすぎた」
◇
城が溶けると、いろいろなものが出てきた。
二十四人分の食卓は、腐った。当たり前だった。千年ぶんの腐敗が、二日で来た。ナディアとアルトが、二日かけて片づけた。
厨房の炎は、消えた。橙色のまま止まっていた炎が、溶けた瞬間に、ふっと消えた。
洗濯場の桶の水は、濁った水になった。半分沈んでいた布は、触れると崩れた。
中庭の花は、全部、枯れた。
千年、咲いたまま止まっていた花壇が、氷が抜けた途端に、色を失って、萎れて、倒れた。
リーシェは、それを、長いこと見ていた。
ゼルヴァーンが、隣に来た。
「咲かせるか」
「……いいえ」
彼女は、首を横に振った。
「咲かせません」
「なぜだ」
「この花は、千年前に、散る途中でした」
リーシェは、枯れた茎に、指を触れた。
「散らせて、さしあげたいです」
ゼルヴァーンは、頷いた。
二人は、枯れた花壇を、見ていた。
「リーシェ」
「はい」
「僕の庭は、枯れていた」
「はい」
「君が来て、咲いた」
「はい」
「――咲かせたのではなく、咲いたのだと、いまは思う」
リーシェは、彼のほうを見た。
ゼルヴァーンは、花壇を見ていた。
「僕は、千年、あの庭を、咲かせようとしたことがない。水もやらなかった」
「はい」
「咲いたのは、君が来たからだ。だが、君は、咲かせに来たのではない」
「はい」
「ただ、いた」
ゼルヴァーンの声が、やわらいだ。
「いただけで、咲いた」
リーシェは、その言葉を、胸の中に、ゆっくり置いた。
あの夜から初めて、彼の手を、握った。
彼は、握り返した。
まだ、和解ではなかった。けれど、手のひら一つ分の距離は、なくなっていた。
◇
潮が、変わった。
変わったことに、最初に気づいたのは、町の漁師だった。
城が溶けた翌朝、沖に出た舟が、いつもより早く戻ってきた。網が、重かったからだった。
その次の日も。その次も。
港の年寄りが、桟橋に座って、水面を見ていた。そして、こう言った。
「揃っとる」
誰も、意味がわからなかった。
「潮が、揃っとる。わしの祖父さんの、そのまた祖父さんが言うとった。昔は、こうだったと」
オーディルは、浜に小屋を建てていた。
自分で建てていた。手つきは、ひどかった。三千年生きた魔王は、釘の打ち方を知らなかった。
町の大工が、見かねて手伝いに来た。二日目には、五人になっていた。三日目には、屋根が葺かれた。
誰も、報酬を受け取らなかった。
◇
司祭館に、変化が起きた。
カナンが、七人を集めて、こう言ったからだった。
「名を、お返しします」
七人というのは、司祭のことではなかった。
館の奥で、畑を耕し、像を洗い、次の子を育てていた、名の無い者たちのことだった。
いちばん年上は、八十二歳。いちばん若い者で、四十四歳。
全員が、かつて候補だった。全員が、三つの名を返した。
カナンは、記録の棚から、札を七枚、取り出した。
そして、一人ずつ、名を呼んだ。
民の名を。
最初の一人は、返事をしなかった。
二度呼ばれて、ようやく、「はい」と言った。
八十二歳が、六十年ぶりに、自分の名で返事をした。
◇
セイレが、館を出る日が来た。
荷は、少なかった。着替えが二枚と、ハインツがくれた西の言葉の紙が十枚と、アルトが書いた書状が一枚。
その書状は、結局、使わないことになった。
彼女は、西へは行かなかった。
「どうなさるのですか」
リーシェが聞くと、セイレはこう答えた。
「町に、おります」
「町に」
「はい。宿の女将さまが、人手が要ると仰っておられました」
「宿で、働かれるのですか」
「はい」
彼女は、少し考えて、それから付け足した。
「二階の奥の部屋を、掃除いたします」
リーシェの息が、止まった。
「……あの部屋を」
「はい。いまも、あの部屋でございます。宿の造りは、変わっておりません」
「三十六回、あの方が、お借りになった部屋でございます」
「セイレさま」
「はい」
「それは、務めですか」
娘は、首を横に振った。
振る動作が、まだ、ぎこちなかった。
「いいえ」
「では」
「わたくしが、そうしたいのでございます」
「捧げる者、でございますので」
◇
カナンが、館の門まで、送りに出てきた。
二人は、向かい合っていた。
「セイレ」
「はい」
「わたくしは、間違っておりましたか」
老女は、そう聞いた。
柔らかい声ではなかった。三十七年ぶりに、素の声だった。
セイレは、すぐには答えなかった。
「……存じません」
「そうですか」
「はい。わたくしには、まだ、わかりません」
「そうですか」
カナンは、頷いた。
それだけの答えを、受け取る用意があった顔だった。
「けれど」
セイレが、続けた。
「カナンさまが、わたくしを、育ててくださいました」
「……」
「読み書きを、教えてくださいました」
「教えました」
「東の古語も、教えてくださいました」
「教えました」
「ですから」
「わたくしは、書物を、読み直せました」
カナンの顔が、歪んだ。
崩れる寸前で、止まった。
止めるのに、彼女は、三十七年ぶんの力を使ったように見えた。
「……そう」
「はい」
「そうですか」
「はい」
セイレは、深く、礼をした。
いつもの、儀式の礼だった。
礼をして、顔を上げて、それから、こう言った。
「行って、まいります」
――館では、そんな挨拶を、誰も使わない。
出た者は、返されないからだった。
カナンは、口を開けなかった。
やがて、小さく、こう答えた。
「……いってらっしゃい」
六十年、その言葉を、口にしたことのない人の、初めての発音だった。
お読みいただき、ありがとうございます。
城が、完全に溶けました。
最後に残った玉座も消えて、あとには平らな石の台座だけが残りました。
「椅子は、要らん。——三千年、座りすぎた」
千年、咲いたまま止まっていた中庭の花は、全部枯れました。
リーシェは、咲かせませんでした。「この花は、千年前に、散る途中でした。散らせて、さしあげたいです」
ゼルヴァーンは、こう言いました。
「咲かせたのではなく、咲いたのだと、いまは思う。……君は、咲かせに来たのではない。ただ、いた。いただけで、咲いた」
——あの夜から初めて、手を握りました。まだ和解ではありませんが、手のひら一つ分の距離は、なくなりました。
潮が、揃いました。網が重くなりました。
オーディルは、浜に小屋を建てております。釘の打ち方を知らなかったので、町の大工が五人、手伝いに来ました。誰も報酬を受け取りませんでした。
司祭館で、七人に名前が返りました。
最初の一人は、二度呼ばれて、ようやく「はい」と言いました。八十二歳が、六十年ぶりに、自分の名で返事をしました。
セイレは、西へは行きませんでした。港の宿で働きます。
——二階の奥の部屋を、掃除するそうです。三十六回、あの方が借りた部屋です。
「それは、務めですか」「いいえ。わたくしが、そうしたいのでございます。捧げる者、でございますので」
最後に、カナンとの別れです。
「わたくしは、書物を、読み直せました」
——カナンが与えたものが、カナンの千年を、解きました。
「行って、まいります」
「……いってらっしゃい」
館では、誰も使ったことのない挨拶でした。出た者は、返されないからです。
次回、第98話「帰りの船」。
あの夜のことを、ようやく、二人が話します。
——謝る話では、ございません。
ブックマーク・評価・感想、何卒お願いいたします。
六十年ぶりの返事に、☆ひとつをお力添えください。
蒼空ルーシェ




