↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
要らない娘と呼ばれた私を、魔王は千年待っていたそうです ~捨てた公爵家は没落し、私は世界で一番幸せになりました~  作者: 蒼空ルーシェ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
98/101

第97話 氷が、溶ける

 城が完全に溶けたのは、それから四日後だった。


 最後まで残っていたのは、玉座だった。


 氷の椅子が、少しずつ小さくなって、ある朝、跡形もなくなっていた。あとには、石の台座だけが残った。座る場所のない、平らな石だった。


 オーディルは、そこに何も置かなかった。


「椅子は、要らん」


「三千年、座りすぎた」



   ◇



 城が溶けると、いろいろなものが出てきた。


 二十四人分の食卓は、腐った。当たり前だった。千年ぶんの腐敗が、二日で来た。ナディアとアルトが、二日かけて片づけた。


 厨房の炎は、消えた。橙色のまま止まっていた炎が、溶けた瞬間に、ふっと消えた。


 洗濯場の桶の水は、濁った水になった。半分沈んでいた布は、触れると崩れた。


 中庭の花は、全部、枯れた。


 千年、咲いたまま止まっていた花壇が、氷が抜けた途端に、色を失って、萎れて、倒れた。


 リーシェは、それを、長いこと見ていた。


 ゼルヴァーンが、隣に来た。


「咲かせるか」


「……いいえ」


 彼女は、首を横に振った。


「咲かせません」


「なぜだ」


「この花は、千年前に、散る途中でした」


 リーシェは、枯れた茎に、指を触れた。


「散らせて、さしあげたいです」


 ゼルヴァーンは、頷いた。


 二人は、枯れた花壇を、見ていた。


「リーシェ」


「はい」


「僕の庭は、枯れていた」


「はい」


「君が来て、咲いた」


「はい」


「――咲かせたのではなく、咲いたのだと、いまは思う」


 リーシェは、彼のほうを見た。


 ゼルヴァーンは、花壇を見ていた。


「僕は、千年、あの庭を、咲かせようとしたことがない。水もやらなかった」


「はい」


「咲いたのは、君が来たからだ。だが、君は、咲かせに来たのではない」


「はい」


「ただ、いた」


 ゼルヴァーンの声が、やわらいだ。


「いただけで、咲いた」


 リーシェは、その言葉を、胸の中に、ゆっくり置いた。


 あの夜から初めて、彼の手を、握った。


 彼は、握り返した。


 まだ、和解ではなかった。けれど、手のひら一つ分の距離は、なくなっていた。



   ◇



 潮が、変わった。


 変わったことに、最初に気づいたのは、町の漁師だった。


 城が溶けた翌朝、沖に出た舟が、いつもより早く戻ってきた。網が、重かったからだった。


 その次の日も。その次も。


 港の年寄りが、桟橋に座って、水面を見ていた。そして、こう言った。


「揃っとる」


 誰も、意味がわからなかった。


「潮が、揃っとる。わしの祖父さんの、そのまた祖父さんが言うとった。昔は、こうだったと」


 オーディルは、浜に小屋を建てていた。


 自分で建てていた。手つきは、ひどかった。三千年生きた魔王は、釘の打ち方を知らなかった。


 町の大工が、見かねて手伝いに来た。二日目には、五人になっていた。三日目には、屋根が葺かれた。


 誰も、報酬を受け取らなかった。



   ◇



 司祭館に、変化が起きた。


 カナンが、七人を集めて、こう言ったからだった。


「名を、お返しします」


 七人というのは、司祭のことではなかった。


 館の奥で、畑を耕し、像を洗い、次の子を育てていた、名の無い者たちのことだった。


 いちばん年上は、八十二歳。いちばん若い者で、四十四歳。


 全員が、かつて候補だった。全員が、三つの名を返した。


 カナンは、記録の棚から、札を七枚、取り出した。


 そして、一人ずつ、名を呼んだ。


 民の名を。


 最初の一人は、返事をしなかった。


 二度呼ばれて、ようやく、「はい」と言った。


 八十二歳が、六十年ぶりに、自分の名で返事をした。



   ◇



 セイレが、館を出る日が来た。


 荷は、少なかった。着替えが二枚と、ハインツがくれた西の言葉の紙が十枚と、アルトが書いた書状が一枚。


 その書状は、結局、使わないことになった。


 彼女は、西へは行かなかった。


「どうなさるのですか」


 リーシェが聞くと、セイレはこう答えた。


「町に、おります」


「町に」


「はい。宿の女将さまが、人手が要ると仰っておられました」


「宿で、働かれるのですか」


「はい」


 彼女は、少し考えて、それから付け足した。


「二階の奥の部屋を、掃除いたします」


 リーシェの息が、止まった。


「……あの部屋を」


「はい。いまも、あの部屋でございます。宿の造りは、変わっておりません」


「三十六回、あの方が、お借りになった部屋でございます」


「セイレさま」


「はい」


「それは、務めですか」


 娘は、首を横に振った。


 振る動作が、まだ、ぎこちなかった。


「いいえ」


「では」


「わたくしが、そうしたいのでございます」


「捧げる者、でございますので」



   ◇



 カナンが、館の門まで、送りに出てきた。


 二人は、向かい合っていた。


「セイレ」


「はい」


「わたくしは、間違っておりましたか」


 老女は、そう聞いた。


 柔らかい声ではなかった。三十七年ぶりに、素の声だった。


 セイレは、すぐには答えなかった。


「……存じません」


「そうですか」


「はい。わたくしには、まだ、わかりません」


「そうですか」


 カナンは、頷いた。


 それだけの答えを、受け取る用意があった顔だった。


「けれど」


 セイレが、続けた。


「カナンさまが、わたくしを、育ててくださいました」


「……」


「読み書きを、教えてくださいました」


「教えました」


「東の古語も、教えてくださいました」


「教えました」


「ですから」


「わたくしは、書物を、読み直せました」


 カナンの顔が、歪んだ。


 崩れる寸前で、止まった。


 止めるのに、彼女は、三十七年ぶんの力を使ったように見えた。


「……そう」


「はい」


「そうですか」


「はい」


 セイレは、深く、礼をした。


 いつもの、儀式の礼だった。


 礼をして、顔を上げて、それから、こう言った。


「行って、まいります」


 ――館では、そんな挨拶を、誰も使わない。


 出た者は、返されないからだった。


 カナンは、口を開けなかった。


 やがて、小さく、こう答えた。


「……いってらっしゃい」


 六十年、その言葉を、口にしたことのない人の、初めての発音だった。

お読みいただき、ありがとうございます。


城が、完全に溶けました。


最後に残った玉座も消えて、あとには平らな石の台座だけが残りました。

「椅子は、要らん。——三千年、座りすぎた」


千年、咲いたまま止まっていた中庭の花は、全部枯れました。

リーシェは、咲かせませんでした。「この花は、千年前に、散る途中でした。散らせて、さしあげたいです」


ゼルヴァーンは、こう言いました。

「咲かせたのではなく、咲いたのだと、いまは思う。……君は、咲かせに来たのではない。ただ、いた。いただけで、咲いた」


——あの夜から初めて、手を握りました。まだ和解ではありませんが、手のひら一つ分の距離は、なくなりました。


潮が、揃いました。網が重くなりました。

オーディルは、浜に小屋を建てております。釘の打ち方を知らなかったので、町の大工が五人、手伝いに来ました。誰も報酬を受け取りませんでした。


司祭館で、七人に名前が返りました。

最初の一人は、二度呼ばれて、ようやく「はい」と言いました。八十二歳が、六十年ぶりに、自分の名で返事をしました。


セイレは、西へは行きませんでした。港の宿で働きます。

——二階の奥の部屋を、掃除するそうです。三十六回、あの方が借りた部屋です。

「それは、務めですか」「いいえ。わたくしが、そうしたいのでございます。捧げる者、でございますので」


最後に、カナンとの別れです。


「わたくしは、書物を、読み直せました」

——カナンが与えたものが、カナンの千年を、解きました。


「行って、まいります」

「……いってらっしゃい」


館では、誰も使ったことのない挨拶でした。出た者は、返されないからです。


次回、第98話「帰りの船」。


あの夜のことを、ようやく、二人が話します。

——謝る話では、ございません。


ブックマーク・評価・感想、何卒お願いいたします。

六十年ぶりの返事に、☆ひとつをお力添えください。


蒼空ルーシェ

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。