第96話 それでいい
オーディルが、城を出た。
千年ぶりだった。
門を出るのに、彼は、少し時間がかかった。敷居のところで、一度、止まった。
誰も、急かさなかった。
やがて、彼は、一歩、外に出た。
夏の日差しが、白い髪に当たった。
三千年生きた魔王が、まぶしそうに、目を細めた。
◇
浜に、全員で降りた。
オーディルと、リーシェと、ゼルヴァーン。アルト、ハインツ、ナディア、デミウルゴ。そして、セイレ。
崖の下には、町の者が集まっていた。城から魔王が出たという話は、朝のうちに広まっていた。
誰も、近づいてこなかった。ただ、遠くから見ていた。
潮が、引いていた。砂が、広く出ていた。
千年前と、同じだった。
「西の半身」
「はい」
「頼みがある」
「はい」
「海に、触れてくれるか」
リーシェは、波打ち際まで歩いて、しゃがんだ。
両手を、水に入れた。
白い花が、咲いた。
指の触れたところから、輪を描いて、沖のほうまで、白い帯が伸びていった。
海が、開いた。
◇
オーディルが、波打ち際に立った。
足が、水に浸かった。彼は、それを気にしなかった。
沖のほうを、見ていた。
それから、言った。
「アイラ」
海が、動いた。
波が、一斉に、彼のほうへ寄ってきた。二千年、狂ったままだった潮が、その一点で、拍を合わせた。
「アイラ」
彼は、もう一度、呼んだ。
三千年生きた魔王の声が、震えていた。
「僕は、お前に、要らない、と申した」
波が、寄せた。
「あれは、嘘だ」
寄せて、引いた。
「――お前が、要った」
海が、光った。
白い花が、沖から浜へ、逆に流れてきた。波に乗って、彼の足元まで来た。
そして、声がした。
リーシェの喉が、勝手に動いた。
自分の声ではなかった。自分の口が、別の人の言葉を、運んでいた。
「オーディルさま」
澄んだ声だった。
よく笑う人の、声だった。
オーディルの膝が、砂に落ちた。
「アイラ」
「遅う、ございます」
彼は、両手で顔を覆った。
声を出さずに、肩が震えていた。
「……すまん」
「ええ」
「すまなかった」
「ええ」
「僕は、千年、聞かなかった。聞けば、迎えに行きたくなるから、聞かなかった」
「存じております」
「知っていたのか」
「はい。あなたは、そういう方でございます」
海が、静かに揺れた。
「けれど」
アイラの声が、言った。
「参りましたね」
「……ああ」
「千年、かかりましたけれど」
「ああ」
「では、よろしゅう、ございます」
オーディルは、砂に手をついたまま、顔を上げられなかった。
◇
「アイラ」
「はい」
「戻れるか」
沈黙が、あった。
波の音だけが、続いた。
「戻れません」
アイラの声だった。
「千年、器でおりました。わたくしは、もう、海と、わかれられません。分かれれば、潮が狂います」
「潮など」
「いけません」
声は、優しかったが、はっきりしていた。
「船が、沈みます」
「……」
「わたくしが海に入りましたのは、それが、嫌だったからでございます。いまさら、狂わせるわけには、参りません」
オーディルは、砂を握った。
「では、僕が行く」
「いけません」
「なぜだ」
「あなたが海にお入りになれば、この大陸に、王がいなくなります」
彼は、答えられなかった。
「オーディルさま」
「……ああ」
「わたくしは、千年、ここにおりました」
「ああ」
「寂しゅうは、ございませんでした。海は、賑やかでございます」
「ただ、ひとつだけ、心残りが、ございました」
「言え」
「あなたが、あの城で、お一人でいらっしゃることでございます」
オーディルの肩が、また、震えた。
「わたくしは、外におりました。あなたは、中におられました。同じ千年でも、外のほうが、まだ、ましでございます」
「……」
「外には、海が、ございましたので」
◇
オーディルが、顔を上げた。
立ち上がった。
濡れた膝を、払わなかった。
「アイラ」
「はい」
「では、僕は、ここにいる」
海が、少し、揺れた。
「城には、戻る。王の務めがある。だが、住むのは、ここだ。浜に、小屋を建てる」
「小屋」
「小屋だ」
「陛下が、小屋に」
「文句があるか」
「……ございません」
声が、笑っていた。
「毎日、ここに来る」
「はい」
「毎朝と、毎晩。二度だ」
「多うございます」
「多くない」
オーディルが、砂を、握り直した。
「僕は、千年、一度も来なかった。取り返すには、足りん」
海が、光った。
白い花が、また一面に、咲いた。
「三千年、来る」
オーディルが、言った。
その時、アイラの声が、こう答えた。
「――数えては、いけません」
浜にいた全員が、その言葉を聞いた。
デミウルゴが、眼鏡を外した。
外して、そのまま、空を見ていた。
誰も、記録しなかった。
◇
潮が、満ち始めた。
海の声が、遠くなっていく。リーシェの喉が、だんだん、自分のものに戻ってきた。
「オーディルさま」
最後に、アイラが呼んだ。
「ああ」
「ひとつ、お伝えすることが、ございます」
「言え」
「像の花は、わたくしが、供えました」
「……知っている」
「三十六回、供えました」
「知っている」
「そのたびに、申しておりました」
波が、寄せた。
彼女は、言った。
「まだ、ね」
オーディルが、目を閉じた。
閉じた目から、水が落ちた。
千年、凍って頬に残っていたものが、ようやく、動いた。
「――ああ」
目を、閉じたままだった。
「まだだ」
海が、閉じた。
白い花が、ゆっくり水に溶けて、沖へ流れていった。
浜には、八人が立っていた。
誰も、何も言わなかった。
やがて、セイレが、静かに言った。
「……よろしゅう、ございました」
それが、この娘の、二度目の感想だった。
リーシェは、隣を見た。
ゼルヴァーンが、海を見ていた。
「あの方は、千年かけて、この浜まで歩かれました」
「ああ」
「ゼルヴァーンさまは、千年、動かずに、待たれました」
「……ああ」
「どちらが、つらかったのでしょう」
彼は、答えなかった。
波が、一度、寄せて、引いた。
「――知らん」
「だが、あの男は、いま、あそこにいる」
それきり、二人は、海を見ていた。
肩は、並んでいた。
手は、まだ、繋がなかった。
お読みいただき、ありがとうございます。
千年ぶりに、城の門が開きました。
敷居のところで一度止まって、それから一歩。三千年生きた魔王が、まぶしそうに目を細めました。
「アイラ。僕は、お前に、要らない、と申した。あれは、嘘だ。——お前が、要った」
千年遅れの言葉でした。
「遅う、ございます」
「……すまん」
「けれど、参りましたね。千年、かかりましたけれど。——では、よろしゅう、ございます」
アイラは、戻りません。千年、器でおりました。分かれれば潮が狂い、船が沈みます。彼女が海に入ったのは、それが嫌だったからです。いまさら、狂わせるわけにはまいりません。
「わたくしは、外におりました。あなたは、中におられました。同じ千年でも、外のほうが、まだ、ましでございます。——外には、海が、ございましたので」
オーディルは、こう答えました。
「では、僕は、ここにいる。浜に、小屋を建てる」
「陛下が、小屋に」「文句があるか」「……ございません」
「毎朝と、毎晩。二度だ」「多うございます」「多くない。僕は、千年、一度も来なかった。取り返すには、足りん」
「三千年、来る」
「——数えては、いけません」
最後の「まだ、ね」——三十七回目です。
次回、第97話「氷が、溶ける」。
千年、咲いたまま止まっていた庭が、どうなるか。
——リーシェは、咲かせません。理由が、ございます。
——千年遅れの「まだだ」で、涙腺の緩んだ方。どうか、一押しを。
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三十七回目の「まだ、ね」に、☆ひとつをお力添えください。
蒼空ルーシェ




