第95話 半身に、なりません
翌朝、セイレは、玉座の間へ行くと言った。
「お一人でですか」
「いいえ」
セイレの声は、はっきりしていた。
「みなさまに、聞いていただきとう、ございます」
リーシェは、少し驚いた。
この娘は、いつも、一人でいる形をしていた。
「わたくしは、まだ、自分の言葉に、慣れておりません」
セイレは、そう説明した。
「途中で、止まるかもしれません。その時、誰もいないと――もとに、戻ってしまいそうでございます」
「戻る」
「はい。はい、と申し上げるほうへ」
リーシェの答えは、早かった。
「では、全員で参ります」
◇
玉座の間は、ほとんど溶けていた。
氷だったものが水になって、床の低いところに集まっている。壁は石になり、窓は硝子になった。千年ぶりに、この城は城の形をしていた。
オーディルは、階段の上に立っていた。
今日は、座っていなかった。
玉座は、まだ半分残っていた。氷が溶けるにつれて椅子は形を失い、いまは背もたれの上のほうと、肘掛けの片方だけが、白い塊として残っている。座ろうとすれば座れないこともないが、座れば濡れる。
彼は、その脇に立っていた。三千年そこに座り続けた者が椅子の横に立つのは、見慣れない立ち方だった。
白い髪が、床まで届いている。彼は、六人と一人が入ってくるのを、まっすぐ見ていた。
「陛下」
セイレが、階段の下で言った。
「……ああ」
「申し上げたいことが、ございます」
「聞く」
彼女は、両手を、身体の脇に下ろしていた。
膝は、つかなかった。
「わたくしは、あなたの半身には、なりません」
広間の水面が、揺れなかった。
風がなかった。
オーディルは、動かなかった。
「理由を、申し上げてよろしいでしょうか」
「言え」
「三つ、ございます」
セイレは、指を折らなかった。ただ、順に言った。
◇
「ひとつめ」
「ああ」
「わたくしが半身になれば、海の循環は戻ります。潮は揃い、船は沈みません」
「そうだ」
「それは、良いことでございます」
「そうだ」
「けれど、そうなりましたら、あなたは、わたくしを、アイラさまとお呼びになります」
オーディルの肩が、わずかに動いた。
「作法でございます。器の名は、一人分しかございませんので」
「……」
「わたくしは、その名前で、呼ばれたくございません」
彼女は、はっきり言った。
「あの方の、お名前でございます。わたくしのものでは、ございません」
オーディルは、答えなかった。
◇
「ふたつめ」
「ああ」
「あなたは、わたくしを、見ておられません」
応接間ではないが、水の引きかけた床も、しんと静まった。
「昨日、儀式の折、あなたは、窓のほうを向いておられました」
「……向いていた」
「海の見える窓でございます」
「そうだ」
「一昨日も、その前も、そうでございました」
セイレは、階段の下から、階段の上を見上げていた。
「わたくしは、十六年、あなたを見て育ちました。夕方に一刻、城の方角を向いて座りました。あなたの絵姿も、書物も、ございません。ですから、わたくしが見ていたのは、方角だけでございます」
「……」
「一昨日、初めて、あなたを見ました」
彼女は、そこで、少しだけ、声を落とした。
「あなたは、こちらを見ておられませんでした」
「それは、悪いことでは、ございません」
セイレは、そう続けた。
「あなたには、見ておられる方が、いらっしゃいます。千年、そちらを見ておられました」
「……ああ」
「わたくしが半身になれば、あなたは、わたくしを見ようと、なさるでしょう。努めて、見ようとなさるでしょう」
「……」
「その努力を、あなたにさせたく、ございません」
リーシェは、その言葉に、息を止めた。
この娘は、三日で、こんなところまで来ていた。
◇
「みっつめ」
「ああ」
「これは、わたくしの考えでは、ございません」
セイレは、後ろを向いた。
リーシェを、見た。
「西の半身さまが、海でご覧になったことでございます」
リーシェが、一歩前に出た。
「オーディルさま」
「西の半身か」
「はい」
「言え」
リーシェは、階段の下で、まっすぐ言った。
「器は、空いておりません」
オーディルの目が、初めて、大きく動いた。
「アイラさまは、千年、海にいらっしゃいます。器のまま、海の循環を支えておられます」
「……」
「あなたは、千年、器がないと思っておられました」
「思っていた」
「けれど、埋まっておりました」
「新しい器を入れる場所が、そもそも、ございません。四百十一人の方々は――どなたも、入れなかったのです」
広間の空気が、動いた。
水の上を、風が渡った。溶けた窓から、潮の匂いが入ってきていた。
オーディルは、その場に、立っていた。
それから、階段を、一段降りた。
二段。三段。
七段、全部降りて、水の張った床に、立った。
三千年生きた魔王が、階段を降りて、人と同じ高さに立った。
そして、セイレの前で、頭を下げた。
深く、長く。
カナンが、いつもしているのと、同じ角度で。
「……陛下」
セイレの声が、初めて、揺れた。
「セイレ」
オーディルが、頭を下げたまま言った。
「はい」
「お前を、十六年、待たせた」
「はい」
「四百十一人を、千年、待たせた」
「はい」
「すまなかった」
セイレは、動かなかった。
動かないまま、こう言った。
「……その言葉は」
「ああ」
「わたくしよりも、館の方々に」
オーディルが、顔を上げた。
「名の無い者、と呼ばれておられる方々が、七人、いらっしゃいます」
「みなさま、ご存命でございます」
◇
その日の午後、リーシェは、廊下でセイレを捕まえた。
捕まえた、というより行き会った。彼女は、窓辺に立って海を見ていた。
「セイレさま」
「半身さま」
「よく、言えました」
「……はい」
「途中で、止まりませんでしたね」
セイレは、一度、瞬きをした。
「三か所、止まりそうになりました」
「そうでしたか」
「はい。アルト様のお顔を、見ました」
リーシェは、笑った。
「効きましたか」
「はい。あの方は、こういう顔を、なさっておりました」
セイレは、両手の拳を、胸の前で握ってみせた。
応援している形だった。
うまくできていなかった。
けれど、それを真似しようとしたこと自体が、この娘には、初めてのことだった。
◇
廊下の角に、ゼルヴァーンが立っていた。
待っていた、という顔ではなかった。ただ、そこにいた。
「聞いておられたのですか」
「通りかかった」
「そうですか」
「三か所、止まりそうになった、と言っていたな」
「はい」
「僕は、千年、一度も止まらなかった」
「止まる相手が、いなかったからだ」
リーシェは、彼を見た。
彼は、こちらを見なかった。
「……ゼルヴァーンさま」
「あの男が、海へ行くそうだ」
それだけ言って、彼は、先に歩き出した。
半歩、前だった。
並んで歩く距離では、まだ、なかった。
お読みいただき、ありがとうございます。
第5章「もう一人の千年」、開幕です。最終章です。
セイレが、みんなに聞いていてほしいと言いました。
「わたくしは、まだ、自分の言葉に、慣れておりません。途中で止まったとき、誰もいないと——もとに、戻ってしまいそうでございます」
三つの理由でした。
ひとつめ。半身になれば、アイラの名で呼ばれる。その名は、自分のものではない。
ふたつめ。「あなたは、わたくしを、見ておられません」——十六年、方角だけを見て育った娘が、初めて本人を見て、気づいたことです。
「わたくしが半身になれば、あなたは、努めて見ようとなさるでしょう。その努力を、あなたにさせたく、ございません」
みっつめ。器は、空いておりません。
——四百十一人は、どなたも、入れなかったのです。最初から。
三千年生きた魔王が、階段を七段降りて、人と同じ高さに立ちました。
そして、頭を下げました。カナンがいつもしているのと、同じ角度で。
「その言葉は、わたくしよりも、館の方々に。名の無い者と呼ばれておられる方々が、七人。みなさま、ご存命でございます」
——最後の廊下の場面が、私はいちばん好きです。
「三か所、止まりそうになりました。……アルト様のお顔を、見ました」
次回、第96話「それでいい」。
オーディルが、千年遅れの言葉を、海に届けます。
——ただ、届けたい相手は、もう、戻ってまいりません。
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七段降りた階段に、☆ひとつをお力添えください。
蒼空ルーシェ




