第94話 セイレ、と名乗ります
三日目の朝、扉が開いた。
最初に気づいたのは、アルトだった。廊下で朝からずっと座っていたので、当然といえば当然だった。
「ね、ねえさま」
「はい」
「出てきました」
セイレは、廊下に立っていた。
白い衣のままだった。三日、着替えていない。髪も、結い直していない。目の下が、暗かった。
けれど、背筋は、まっすぐだった。
彼女は、リーシェを見て、こう言った。
「半身さま」
「はい」
「ハインツさまを、お借りしてもよろしいでしょうか」
◇
書庫で、二人は、半刻ほど話していた。
リーシェは、外で待った。
中から、時々、頁をめくる音がした。ハインツの低い声と、セイレの声が、交互に聞こえた。
やがて、扉が開いた。
ハインツが、先に出てきた。
彼の顔は、青かった。
「半身さま」
「ハインツさん」
「……あの方は」
彼は、そこで、言葉を探した。書庫の男が、言葉を探すのは、めずらしかった。
「あの方は、書物を、読み直されました」
「読み直す」
「はい。わたくしが、四日かけて読んだところを、半刻で」
彼は、自分の黒い指を見た。
「そして、わたくしが見落としていたものを、見つけられました」
◇
昼過ぎに、司祭団が来た。
十四人だった。前と同じ。町の者も、崖の下に集まっていた。
玉座の間に、白い布が敷かれた。鉢が置かれた。海の水が張られた。
オーディルは、階段の上に座っていた。
今日も、窓のほうを向いていた。
カナンが、階段の下に立った。
「セイレ」
「はい」
「三日、考えたね」
「はい」
「答えを、お聞かせなさい」
セイレは、白い布の中央まで歩いた。
鉢の前に来て、しかし、膝はつかなかった。
立ったまま、呼んだ。
「カナンさま」
「はい」
「わたくしの名は、セイレでございます」
司祭たちが、顔を見合わせた。
受けたのだと、そう聞こえたからだった。
カナンだけが、動かなかった。
三十七年、この娘を育てた人だけが、その声の違いに気づいていた。
「……続きが、あるようだね」
「はい」
セイレは、頷いた。
「セイレは、古い言葉でございます。意味は、捧げられた者」
「そのとおりです」
「六つの時に、そう教わりました」
「はい」
「十六年、そう呼ばれました」
「はい」
彼女は、そこで、一度、息を吸った。
「けれど、その読み方は、ひとつでは、ございませんでした」
広間が、静まった。
◇
「ハインツさま」
セイレが、後ろを向いた。
ハインツが、書物を抱えて、一歩前に出た。
「はい」
「先ほどの一節を、お読みくださいませ」
「……承知いたしました」
彼は、書物を開いた。
いちばん古い、黒く変色した一冊だった。
「長。恐れながら、申し上げます」
「はい」
「この語形は、東の古語では、受け身とも、そうでないとも、読めます」
カナンの眉が、動いた。
「同じ形でございます。文字が、同じでございます。前後で判じるほか、ございません」
「……千年、受け身に読んでまいりました」
「はい」
「それを、違うと」
「いいえ」
ハインツは、はっきり言った。
「違うとは、申しません。受け身にも、読めます」
彼は、頁を持ち上げた。
「ただ、受け身にしか読めない、ということも、ございません」
カナンは、その言葉を、受け取るのに時間がかかった。
「……では」
「はい」
「千年、こちらだと決めていたものが」
「決めていた、だけでございます」
「隠されておりません。鍵もかかっておりません。ただ、千年、どなたも、もう一つの読み方をなさらなかっただけでございます」
広間の端で、デミウルゴが、静かに眼鏡を直した。
◇
セイレが、前を向いた。
カナンを、まっすぐ見た。
「カナンさま」
「はい」
「わたくしは、名前を、変えません」
老女の目が、揺れた。
「セイレ、と名乗ります」
「……セイレ」
「はい。同じ音でございます。同じ文字でございます」
彼女は、自分の胸のあたりに、手を置いた。
掌を、内側に向けて。
「ただ、読み方を、変えます」
広間が、静まった。
「捧げられた者では、ございません」
セイレは、言った。
「捧げる者、でございます」
「わたくしが、わたくしを、どこに捧げるかは――」
彼女は、そこで、初めて、少しだけ笑った。
うまく笑えていなかった。笑い方を、まだ知らない顔だった。
それでも、笑った。
「わたくしが、決めます」
◇
カナンは、長いこと、何も言わなかった。
司祭たちが、彼女を見ていた。町の者は、崖の下から城を見上げていた。海が、光っていた。
やがて、老女は、口を開いた。
「セイレ」
「はい」
「その読み方は、誰に、教わりましたか」
セイレは、答えた。
「どなたにも」
「書物ですか」
「書物には、両方、ございました」
「では」
「選びました」
その一言に、カナンの肩が、ゆっくりと落ちた。
崩れたのではなかった。
三十七年、上げ続けていたものを、初めて、下ろした形だった。
「……そうですか」
「はい」
「選んだのですか」
「はい」
老女は、頷いた。
一度だけ、深く。
「姉も、そうすればよかったのに」
その声は、小さかった。
誰にも聞かせるつもりのない声だった。
しかし、水の張った広間は、よく響いた。
リーシェは、それを、聞いてしまった。
聞いて、目を伏せた。
◇
その日、儀式は行われなかった。
鉢の水は、そのまま残された。白い布は、司祭たちが畳んで持ち帰った。
カナンは、帰り際、リーシェの前で足を止めた。
「西の半身さま」
「はい」
「あの子に、名前を、おつけになりませんでしたね」
リーシェは、頷いた。
「つけようと、思われましたか」
「思いました」
「なぜ、おやめに」
「五つ目に、なりますので」
カナンは、その答えを、口の中で転がしているようだった。
それから、こう言った。
「わたくしは、四つ、つけました」
「はい」
「四百十一人に」
「はい」
「よい名を、選んだつもりでございました」
「はい」
「――そうですか」
彼女は、それだけ言って、歩いていった。
背筋は、まっすぐだった。
ただ、歩幅が、少しだけ、他の六人と違っていた。
◇
その夜も、二人は、背を向けて眠った。
リーシェは、寝台の端で、名前のことを考えていた。
自分は、贈らなかった。贈らないことが正しいと思った。
思ったが――正しいと思うことが、いちばん危ういのだと、あの夜に教わっていた。
「ゼルヴァーンさま」
「……起きている」
「私は、間違っておりますか」
答えないまま、こう言った。
「僕は、まだ、賛成していない」
「はい」
「だが、あの娘は、今日、自分で名乗った」
「はい」
「――それは、君がやらなかったから、起きたことだ」
背中は、こちらを向かなかった。
手のひら一つ分の距離は、まだ、そこにあった。
◇
――花は、咲かせられるものでは、ありません。
自分の名前で、咲きます。
第3部第4章「自分の名」了。
お読みいただき、ありがとうございます。
第4章「自分の名」、ここまでです。
三日目の朝、扉が開きました。
セイレが最初に頼んだのは、名前ではなく、書庫の人でした。
ハインツが四日かけて読んだところを、半刻で読み直して、彼が見落としていたものを見つけました。
——東の古語では、その語形は、受け身とも、そうでないとも読めます。
文字が同じで、前後で判じるほかありません。
「違うとは、申しません。受け身にも、読めます。ただ、受け身にしか読めない、ということも、ございません」
「隠されておりません。鍵もかかっておりません。ただ、千年、どなたも、もう一つの読み方をなさらなかっただけでございます」
セイレは、名前を変えませんでした。
「セイレ、と名乗ります。同じ音でございます。同じ文字でございます。ただ、読み方を、変えます」
「捧げられた者では、ございません。捧げる者、でございます」
「わたくしが、わたくしを、どこに捧げるかは——わたくしが、決めます」
笑い方を、まだ知らない顔で、笑いました。
カナンは、怒りませんでした。
三十七年、上げ続けていた肩を、初めて下ろして、こう言いました。
「姉も、そうすればよかったのに」
——誰にも聞かせるつもりのない声でしたが、水の張った広間は、よく響きました。
次回、第95話「半身に、なりません」。
第5章「もう一人の千年」、開幕です。最終章です。
セイレが、オーディルの前に立ちます。
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蒼空ルーシェ




