第93話 名前を、差し上げません
その日の夕方、セイレのほうから、来た。
リーシェの部屋の扉を、叩いた。三回。間を置いて、また三回。この城の者は、みんな同じ叩き方をする。
「セイレさま」
「半身さま」
「お入りください」
セイレは、部屋に入って、扉を閉めた。
白い衣のままだった。儀式の裾の長いもの。着替えを持ってこられなかったのだと、あとで知った。
彼女は、椅子には座らなかった。
立ったまま、こう言った。
「お願いが、ございます」
リーシェは、姿勢を正した。
この娘が、自分から願いを口にするのは、初めてだった。
「はい」
「わたくしに」
セイレは、言葉を選んでいた。
「名前を、いただけませんでしょうか」
灯りの芯が、小さく鳴った。
◇
リーシェは、すぐには答えなかった。
答えられなかったのではない。
答えが、口の先まで来ていたからだった。
――いいですよ。
その三文字が、喉のところに、もう出来上がっていた。
彼女は、それを、飲み込んだ。
飲み込むのに、思ったより、力が要った。
目を閉じると、別の顔が浮かんだ。
銀灰色の髪の、若い娘の顔。千年、名を持たなかった人。
あの時、リーシェは、名を贈った。
――ノエル。古い魔族の言葉で、「私は、ここにいる」。
あの名は、届いた。届いて、あの人は泣いて、それから家族になった。
今も、リューシェと二人で、世界のどこかを旅している。
だから、うまくいく方法を、リーシェは知っていた。
知っていて、使わないというのは、こんなに難しいことだった。
「セイレさま」
「はい」
「どうして、私に」
「半身さまのお名前には、務めが、ございませんでした」
セイレは、目を伏せなかった。
「星と、光。何もさせるつもりのない、名前でございました」
「はい」
「わたくしにも、そのような名前を、いただけましたら」
「はい」
「わたくしは――」
彼女は、そこで、初めて、自分の胸のあたりを押さえた。
「そのような名前で、呼ばれてみとう、ございます」
リーシェの目の奥が、熱くなった。
十六年、望みを持たぬように育てられた娘が、初めて口にした、はっきりした望みだった。
それを、断らなければならなかった。
◇
「セイレさま」
「はい」
「私は、あなたに、名前を、差し上げません」
セイレの顔から、表情が消えた。
もともと少なかった表情が、完全に消えた。
「……申し訳ございません」
彼女は、すぐに、頭を下げた。
「出過ぎたことを、申しました」
「違います」
「はい」
「セイレさま。顔を上げてください」
彼女は、上げた。
その目に、初めて、わからないという色があった。カナンが儀式の日に見せたのと、同じ色だった。
「私が差し上げたら」
リーシェは、ゆっくり言った。
「それも、いただいた名前に、なってしまいます」
セイレの唇が、わずかに動いた。
「五つ目に、なってしまいます」
「……五つ目」
「はい。民の名。海の名。陛下の名。名の無い者。――そして、西の半身にいただいた名」
リーシェは、そこで、一度言葉を切った。
「どれも、あなたが、選んでいません」
「けれど」
セイレの声が、少し、強くなった。
初めて、この娘の声に、押し返す力が入った。
「けれど、半身さまの下さるものであれば」
「はい」
「務めの、ない名前でございましょう」
「はい。そのつもりで、つけます」
「では」
「それでも、差し上げません」
「私が良い名前をつけたら、あなたは、その名前を、大事にしてくださると思います」
「はい」
「大事にして、私に、感謝してくださると思います」
「はい」
「そして、一生、私のつけた名前で、生きてくださると思います」
セイレは、頷いた。
頷いてから、その頷きの意味に、自分で気づいたようだった。
「……」
「セイレさま」
「はい」
「それは、私が、あなたの一生を、決めることです」
窓の外で、雫が落ちていた。城は、まだ溶けていた。
「わたくしは、それでも、構いません」
「私が、構いません」
リーシェは、はっきりそう言った。
「私は、十七年、決められて生きました。決められるのは、楽でした。楽で、苦しかったです」
「……」
「私は、あなたに、楽をさせたくありません」
セイレは、長く、黙っていた。
それから、こう聞いた。
「では、わたくしは、どういたせば、よろしいのでしょうか」
リーシェは、正直に答えた。
「わかりません」
「わからない」
「はい。私にも、わかりません」
彼女は、自分の胸のロケットに触れた。
「ただ、ひとつだけ、申し上げられます」
「はい」
「それを考えるのは、たぶん、いままでで、いちばん、つらいことです」
セイレの手が、震えた。
「そして、いちばん、あなたのものです」
◇
セイレは、部屋を出ていった。
礼をして、扉を閉めて、静かに出ていった。
その夜から、彼女は、部屋から出てこなかった。
食事は、扉の前に置いた。翌朝には、空になっていた。
二日目も、出てこなかった。
三日目も。
◇
二日目の夜、リーシェは、寝台の端に座って、動けなくなっていた。
ゼルヴァーンが、隣に座った。
「リーシェ」
「はい」
「食っていないな」
「はい」
「食え」
「はい」
返事をして、彼女は、動かなかった。
「ゼルヴァーンさま」
「ああ」
「私は、正しいことを、したでしょうか」
「知らん」
「はい」
「だが」
彼は、そう言って、少し黙った。
「僕は、あの時、君に、こう言った。『わからないまま、あの子のところへ行くのは、やめておけ』と」
「はい」
「君は、わかってから、行った」
「……はい」
「わかってから行って、いちばん難しいほうを選んだ」
彼の手が、彼女の背に置かれた。
あの夜から、初めて触れられた手だった。
「僕には、できん」
「ゼルヴァーンさまなら」
「僕なら、名をつけていた」
ゼルヴァーンは、言葉を選ばなかった。
「僕は、千年待った。待つのは、もう嫌だ。だから、届く方法があるなら、使う。あの娘が喜ぶなら、なおさらだ」
「はい」
「だから、僕は、あの夜、セイレを納めるという話をした」
「はい」
「あれは、優しさのつもりだった」
リーシェは、彼の顔を見た。
「……ゼルヴァーンさま」
「ああ」
「あの夜のこと、まだ、怒っておられますか」
「怒っていない」
「私は、少し、怒っていました」
「知っている」
「いまは」
彼女は、少し考えた。
「……怖いです」
「何がだ」
「あの方が、三日、出ていらっしゃらないことが」
ゼルヴァーンは、彼女の背を、一度だけ、軽く叩いた。
「待て」
「はい」
「僕は、待つのが、千年で、いちばん得意になった」
リーシェは、少しだけ、笑った。
あの夜から、初めて、笑えた。
お読みいただき、ありがとうございます。
リーシェが、いちばん大事なことを、しませんでした。
セイレが、生まれて初めて、自分から願いを口にしました。
「名前を、いただけませんでしょうか」
——喉のところまで、「いいですよ」が出来上がっておりました。
第2部で、リーシェはノエルに名を贈りました。あの名は届きました。届いて、あの人は泣いて、家族になりました。
うまくいく方法を、リーシェは知っていました。
知っていて、使わないというのは、こんなに難しいことでした。
「私が差し上げたら、それも、いただいた名前になってしまいます。五つ目に、なってしまいます」
「私は、十七年、決められて生きました。決められるのは、楽でした。楽で、苦しかったです」
「私は、あなたに、楽をさせたくありません」
「では、わたくしは、どういたせば、よろしいのでしょうか」
「わかりません。……ただ、それを考えるのは、たぶん、いままでで、いちばん、つらいことです。そして、いちばん、あなたのものです」
セイレは、それから三日、部屋を出ませんでした。
——そして、ゼルヴァーンが、あの夜のことを、初めて説明しました。
「僕なら、名をつけていた。……あれは、優しさのつもりだった」
まだ、和解ではありません。ただ、十日ぶりに、背に手が置かれました。
次回、第94話「セイレ、と名乗ります」。
第4章、最終話です。
三日目の朝、扉が開きます。
——贈らなかったことの意味に、あとから気づかれた方。どうか、一押しを。
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喉で飲み込んだ三文字に、☆ひとつをお力添えください。
蒼空ルーシェ




