第92話 いいえ、と申し上げます
儀式は、三日後と決まった。
決めたのは、司祭団だった。誰も承知していないのに、日取りだけが先に決まった。千年、そういうふうにやってきたのだと、カナンは言った。
「陛下がお立ちになりました。器は、ここにおります。あとは、お呼びいただくだけでございます」
彼は、あれから、ほとんど口をきかなかった。玉座の間の、溶けた氷の階段に座って、海の見える窓のほうを向いていた。
城は、溶け続けていた。
◇
三日目の朝、司祭団が来た。
七人ではなかった。十四人いた。
町からも人が上がってきていた。桟橋に、舟が並んでいた。港の者が、崖の下に集まって、城を見上げていた。
千年ぶりの儀式だった。
誰も見たことがなく、全員が話に聞いていた。
◇
玉座の間に、白い布が敷かれた。
水の溜まった床の上に、布を浮かせて、その上を歩く。作法だと言われた。
中央に、浅い鉢が置かれた。海の水が張ってあった。
セイレは、白い衣に着替えさせられていた。今日のものは、裾が長かった。歩くと、床を引きずる音がした。司祭たちと、同じ音だった。
リーシェたちは、広間の端に立たされた。
「西の方々は、そちらで」
柔らかい声だった。今日も、柔らかかった。
アルトが、リーシェの外套を握った。
「ねえさま」
「はい」
「とめなくて、いいんですか」
リーシェは、答えなかった。
答えられなかった。
三日前に決めたことを、彼女は守っていた。
――乗るかどうかを、あの方が、お決めになるようにします。
止めるのは、簡単だった。声を上げればいい。腕を掴めばいい。
けれど、それをしたら、また、決めてやることになる。
彼女は、両手を、外套の下で握っていた。
◇
儀式が、始まった。
司祭たちが、低い声で、何か唱えた。東の古語だった。ハインツが、小さく訳した。
「海は、差し出されたものを、受ける。……そう申しております」
セイレが、鉢の前に進んだ。
膝をついた。
両手を、鉢の上にかざした。
掌を、上に向けて。
水が、掌の上に、浮いた。
薄い膜のような水が、二寸の高さで、揺れずに留まった。
十六年、毎日、一刻の稽古をした形だった。
司祭たちの声が、大きくなった。
カナンが、階段の下から、オーディルに向かって言った。
「陛下」
オーディルは、動かなかった。
「陛下。お呼びくださいませ」
動かなかった。
「三つ目のお名前を、お呼びくださいませ」
広間が、静まった。
全員が、階段の上を見た。
オーディルは、海の見える窓を向いたまま、そこに座っていた。
千年ぶりに立った魔王は、その日、一言も、口をきかなかった。
◇
カナンは、待った。
長く、待った。
それから、深く息を吸って、こう言った。
「では――司祭が、代わりに、お呼びいたします」
司祭たちが、ざわめいた。
六人のうち、二人が、はっきり顔を上げた。
「長」
「そのようなことは、作法に」
「ございません」
カナンは、そう認めた。
「作法には、ございません。ですから、わたくしが、決めます」
彼女は、懐から、油紙の包みを出した。
三日前に、一度開かれた包みだった。
中の細い紙を、指で挟んだ。
「三十七年でございます」
誰に言ったのでもなかった。
「四十一年。五十年。その前も、その前も。誰も、お呼びいただけませんでした」
彼女は、鉢の前の娘を見た。
「セイレ」
「はい」
「お前は、要る」
十六年、毎朝、聞いた言葉だった。
カナンは、細い紙を、目の高さに持ち上げた。
「――アイラ」
水が、揺れた。
セイレの掌の上で、二寸の高さに留まっていた水が、揺れた。
揺れて、崩れて――
こぼれた。
白い布の上に、水が落ちた。
音がした。
広間の全員が、それを見た。
十六年、一刻こぼさなかった娘の手から、水がこぼれた。
◇
カナンが、一歩、前に出た。
「セイレ」
「……」
「もう一度、いたします。手を」
セイレは、手を上げなかった。
膝をついたまま、両手を、膝の上に置いた。
掌を、下に向けて。
「セイレ」
「はい」
「手を」
「いいえ」
――広間の音が、消えた。
応接間ではないが、白い布の上も、しんと静まった。
カナンが、動きを止めた。
その顔から、初めて、あの柔らかさが抜けた。
抜けたあとに残ったのは、怒りではなかった。
わからない、という顔だった。
「いま、何と」
「いいえ、と申し上げました」
「……セイレ」
「はい」
「もう一度、申してごらん」
セイレは、顔を上げた。
薄い青の瞳が、老女をまっすぐ見ていた。
「いいえ」
三度目だった。
三度、言った。
「わたくしは、その名前で、呼ばれたくございません」
カナンの唇が、動いた。
声は、出なかった。
「その名前は、わたくしの名前では、ございません」
「セイレ」
「その方の、お名前でございます」
娘の声は、震えていなかった。
「海の底に、いらっしゃる方の」
カナンの手から、細い紙が落ちた。
白い布の上に、落ちた。
水を吸って、すぐに、文字が滲んだ。
◇
司祭たちは、長を見ていた。
長は、床の紙を見ていた。
やがて、カナンは、しゃがんで、それを拾った。
滲んだ紙を、丁寧に折って、懐に戻した。
それから、立ち上がった。
背筋は、まっすぐだった。三十七年、そうしてきたとおりに。
「……セイレ」
「はい」
「三日、お考えなさい」
声は、また、柔らかくなっていた。柔らかくするのに、少し時間がかかった声だった。
「三日目に、また参ります」
「はい」
「それまで、誰も、お前に触れません。西の方々も、館の者も」
彼女は、リーシェのほうを、ちらりと見た。
「――どなたも、でございます」
リーシェは、頷いた。
その一言が、自分にも向けられていることを、彼女は、正確に受け取った。
司祭たちが、出ていった。
白い布と、倒れた鉢と、こぼれた水が、残った。
広間の端で、アルトが、両手で口を押さえていた。
泣いているのだと、リーシェは思った。
違った。
彼は、笑っていた。声を出さないように、必死に、口を押さえて、笑っていた。
お読みいただき、ありがとうございます。
儀式の日でした。
オーディルは、一言も口をききませんでした。千年ぶりに立った魔王は、海の見える窓を向いたまま、動きませんでした。
カナンが、作法にないことをしました。司祭が、代わりに呼ぶ、と。
「作法には、ございません。ですから、わたくしが、決めます」
——三十七年、四十一年、五十年。誰も、呼んでいただけなかった人たちの、いちばん端に立っている人です。
「セイレ。お前は、要る」
「——アイラ」
十六年、一刻こぼさなかった水が、こぼれました。
そして。
「いいえ」
「いいえ」
「いいえ」
三度、言いました。
「わたくしは、その名前で、呼ばれたくございません。……その方の、お名前でございます。海の底に、いらっしゃる方の」
カナンは、怒りませんでした。
わからない、という顔をしました。三十七年で、初めての顔です。
細い紙が、手から落ちました。水を吸って、文字が滲みました。
「三日、お考えなさい」——柔らかい声に戻すのに、少し時間がかかっておりました。
最後に。アルトは、泣いていたのではありません。
声を出さないように、口を押さえて、笑っておりました。
次回、第93話「名前を、差し上げません」。
リーシェが、いちばん大事なことを、しません。
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蒼空ルーシェ




