第91話 嫌だ、の練習
「ぼくが、やります」
アルトが、そう言い出したのは、朝食の席だった。
「アルト」
「ねえさま。ぼく、やってみたいです」
「何を」
「セイレさんに、いやだ、って言う練習を、してもらいます」
ハインツが、パンを置いた。ナディアが、手を止めた。デミウルゴは、板を持ち上げた。
「アルト様」
「は、はい」
「なぜ、ご自分でと」
「……ぼくが、いちばん、あとだからです」
「あと、と申されますと」
「ぼくが、いちばん、あとまで、言えなかったからです」
リーシェは、弟の顔を見た。
十三歳は、こちらを見なかった。皿を見ていた。
「ねえさまが、連れていかれた日。ぼく、なにも、言えませんでした」
「アルト」
「いやだ、って、思ってました。ずっと、思ってました。でも、口が、動きませんでした」
彼は、そこで、顔を上げた。
「だから、ぼく、言えない人の気持ち、わかります」
誰も、止めなかった。
◇
浜に、二人で降りた。
リーシェは、岩場の上から見ていた。近づかなかった。ゼルヴァーンが、その隣に立った。
降りていく二人の背丈は、頭ひとつ分ちがった。年上のほうが小さかった。十六の娘は、十六年、日に当たらずに育っている。十三の少年は、この一年で、上着の袖が二度足りなくなっている。
その二人が、砂の上で、向かい合って座った。
砂の上で、アルトが、セイレに何か言っている。
セイレが、頷いている。
風で、声は、切れ切れにしか届かなかった。
◇
「まず、音の練習です」
アルトが、指を一本、立てた。
「音」
「はい。いやだ、って、言うだけです。意味は、なしで」
「意味なし」
「はい。練習だから、なんでもいいんです」
セイレは、少し考えた。
「……い、や、だ」
「はい」
「これで、よろしいのでしょうか」
「はい。もういっかい」
「いやだ」
「もういっかい」
「いやだ」
「じょうずです」
セイレが、少しだけ、首を傾げた。
「じょうず、でございますか」
「はい。ぼく、最初、声が出ませんでした」
「アルト様が」
「はい。八つのときです。ヨルグさんが、練習させてくれました」
彼は、砂に指で丸を描いた。
「ヨルグさんは、うちの、いちばん年寄りの使用人です。ぼくが、なにも言えない子だったから、庭で、練習させてくれました。だれもいないところで」
「はい」
「でも、ぼく、三か月かかりました」
「三か月」
「はい。だから、セイレさんは、はやいです」
◇
「つぎは、小さいことです」
「小さいこと」
「はい。えっと」
アルトは、あたりを見回した。
足元に、平たい石があった。彼はそれを拾った。
「ぼく、いまから、これを、海に投げます」
「はい」
「いいですか」
「はい」
「ちがいます」
「え」
「いやだ、って、言ってください」
セイレが、止まった。
「……なぜ、でございますか」
「なぜでも、いいんです。練習だから」
「石を、投げてはいけない理由が、ございません」
「ないです」
「では」
「ないけど、言うんです」
アルトは、真剣な顔で、そう言った。
「理由がないと言えないと、理由があるときにも、言えなくなるからです」
セイレは、その言葉を、長いあいだ、考えていた。
それから、口を開いた。
「……い」
止まった。
「……」
もう一度、口を開いた。
開いて、閉じた。
彼女の両手が、身体の脇で、握られていた。
「申し訳ございません」
「あやまらなくて、いいです」
「出て、まいりません」
「はい」
「先ほどは、出ましたのに」
「音は、出ます。ことばは、出ません」
アルトは、石を、砂の上に戻した。
「ぼくも、そうでした」
◇
二人は、黙って、砂に座っていた。
波が、寄せて、引いた。
やがて、アルトが言った。
「セイレさん」
「はい」
「ぼく、明日、帰ります」
セイレが、顔を上げた。
「……お帰りに」
「はい。西に。ねえさまたちと」
「はい」
「セイレさんは、のこります」
「はい」
「もう、会いません」
風が、二人の間を通った。
セイレの唇が、動いた。
動いて、止まった。
もう一度、動いた。
「……」
彼女は、下を向いた。
そして、膝の上の砂を、指で払った。何度も、払った。もう砂はついていなかったが、払い続けた。
「セイレさん」
「はい」
「いま、なにか、思いましたか」
沈黙が、長かった。
岩場の上で、リーシェは、両手を握りしめていた。
やがて、セイレが、口を開いた。
「……いやです」
小さい声だった。
風にかき消されそうな声だった。
けれど、確かに、出た。
アルトは、すぐには何も言わなかった。
「……ぼく、うそをつきました」
「え」
「明日は、帰りません」
セイレが、顔を上げた。
目が、丸くなっていた。この娘の目が、そういう形になるのを、初めて見た。
「うそ、でございますか」
「はい。ごめんなさい」
「……」
「でも」
アルトは、砂の上に立ち上がって、両手で膝を払った。
「いま、セイレさん、じぶんのことばで、しゃべりました」
セイレの目が、見開かれた。
「はじめて、ですよね」
「……」
「ぼくの、こと、だったから、言えたんだと、思います」
アルトが、うつむいた。
「じぶんのことは、あとでいいです。ぼくも、そうでした」
◇
岩場の上で、リーシェは、涙を拭った。
ゼルヴァーンが、それを見て、何も言わずに、手巾を差し出した。
「……ありがとうございます」
「ああ」
「ゼルヴァーンさま」
「ああ」
「アルトは、いつ、あんなことが、言えるようになったのでしょうか」
「知らん」
彼は、砂の上の二人を見ていた。
「だが、あれは、君が教えたことではないな」
「はい」
「あれは、あの子が、自分で見つけたことだ」
リーシェは、頷いて、もう一度、目を拭った。
浜では、セイレが、砂の上の平たい石を、拾い上げていた。
セイレは、それを、見ていた。
そして、海に向かって、投げた。
うまく投げられなかった。石は、二歩ほど先の砂に落ちた。
アルトが、笑った。
セイレは、笑わなかった。
けれど、もう一度、石を拾いに行った。
お読みいただき、ありがとうございます。
アルトの回でした。
「ぼくが、いちばん、あとまで、言えなかったからです」
——ねえさまが連れていかれた日、この子は、いやだと思っていたのに、口が動きませんでした。だから、言えない人の気持ちがわかります。
練習の順番が、十三歳らしくてよいと思っております。
まず、音だけ。意味なしで。「いやだ」と言うだけ。
つぎに、小さいこと。理由のないことで。
「理由がないと言えないと、理由があるときにも、言えなくなるからです」
——音は出ました。ことばは、出ませんでした。
ここで、アルトが嘘をつきました。
「ぼく、明日、帰ります」「もう、会いません」
「……いやです」
風にかき消されそうな声でしたが、確かに出ました。
十六年で、初めての、自分の言葉です。
「ぼくの、こと、だったから、言えたんだと、思います。じぶんのことは、あとでいいです。ぼくも、そうでした」
最後に、セイレが石を投げました。二歩先の砂に落ちました。
それでも、もう一度、拾いに行きました。
次回、第92話「いいえ、と申し上げます」。
司祭団が、迎えに来ます。
セイレが、生まれて初めて、自分のことで、拒みます。
——二歩先に落ちた石で、笑って、それから泣きそうになった方。どうか、一押しを。
ブックマーク・評価・感想、何卒お願いいたします。
二歩先に落ちた石に、☆ひとつをお力添えください。
蒼空ルーシェ




