第90話 逃がす、ということ
「四つ、でございます」
暗い部屋で、セイレは言った。
「民の名、セイレ。海の名、ミアラ。陛下の名、アイラ」
「はい」
「それから、もうひとつ」
「……もうひとつ」
「務めを終えた者の名でございます」
リーシェは、椅子の背に手をついた。
「名の無い者、と申します」
「それは、名前では」
「名前でございます」
セイレの声は、暗い中で、静かだった。
「館では、そうお呼びいたします。『名の無い者さま、畑の水を』『名の無い者さま、像を洗いに』と」
「……」
「わたくしは、六つの時に、四つ、いただきました」
彼女は、膝の上で手を組んだ。
「生まれる前の名も、終わったあとの名も、決まっておりました」
リーシェは、その夜、自分の部屋に戻ってから、一睡もできなかった。
◇
翌朝、リーシェは、五人を集めた。
城の、溶けかけた広間だった。床に浅く水が張り、天井から雫が落ちている。
「あの方を、逃がします」
誰も、驚かなかった。
全員、そう言われると思っていた顔をしていた。
「デミウルゴ」
「はい、半身さま」
「船を、一艘」
「二日いただければ、手配できます。ただし――」
「ただし」
「町の船は、使えません。町の者は、司祭さまに従います。西の船を、待たせております。あれをお使いになるのが、確かでございます」
「あの船は、帰りの分では」
「もう一度、雇い直します。金貨は、まだございます」
「アルト」
「は、はい」
「あなたの名で、書状を書けますか」
「書状」
「グランハイド公爵の名で、西の受け入れを約束する書状です。あの方が、西で暮らせるように」
アルトは、少し考えて、それから頷いた。
「か、書けます。判も、持ってきてます」
「ハインツさん」
「はい」
「西の言葉を、教えてさしあげてください。船の中で」
「承知いたしました」
「ナディア」
「はい」
「身の回りのものを」
「すでに、まとめてございます」
リーシェは、そこで、初めて言葉に詰まった。
全員、動いていた。
自分が言い出す前から、全員が、そのつもりでいた。
最後に、ゼルヴァーンを見た。
彼は、腕を組んで、壁にもたれていた。
「ゼルヴァーンさま」
「ああ」
「反対、なさいますか」
「反対だ」
彼は、はっきり言った。
「それでは、東の循環は戻らない。城は溶けたが、器はいない。潮は狂う。船は沈む。四百十二人目が育てられる」
「はい」
「だが」
彼は、壁から背を離した。
「止めない」
「……よろしいのですか」
「よくない」
ゼルヴァーンが、水を踏んで、近づいた。
「よくないが、君を止めるのは、もっとよくない」
彼は、リーシェの横を通って、扉のほうへ歩いた。
通り際に、一度だけ、足を止めた。
「リーシェ」
「はい」
「僕は、いま、君に賛成していない」
「はい」
「それでも、僕は、君の隣にいる」
「……はい」
「割れたままでも、隣にはいられる」
彼は、そう言って、出ていった。
リーシェは、その扉を、見ていた。
割れたままでも隣にいる、という形を、彼のほうが、先に見つけていた。
◇
二日で、支度が整った。
三日目の夜、出す。潮が変わる時刻に、西の船が沖で待つ。小舟で、そこまで送る。
書状は、アルトが三枚書いた。一枚目は字が曲がり、二枚目は判が滲み、三枚目でようやく形になった。
ナディアが、荷を作った。着替えと、食べ物と、西の冬用の外套。
ハインツが、西の言葉の初歩を書いた紙を、十枚。
デミウルゴが、金貨を数えた。数えるなと言う者は、その場にいなかった。
三日目の夕方。
リーシェは、セイレの部屋へ行った。
◇
セイレは、椅子に座っていた。
今日は、灯りが点いていた。
「セイレさま」
「半身さま」
「お話が、あります」
「はい」
リーシェは、床に座った。この娘と話す時、いつもそうするようになっていた。
「今夜、船が出ます」
「はい」
「西へ行く船です」
「はい」
「あなたを、お乗せします」
セイレは、まばたきをした。
「西へ」
「はい。私の家へ。魔王城です。庭に、花が咲いています。ナディアも、アルトもいます。あなたが望むなら、ずっといていただいて構いません」
「はい」
「読み書きは、ハインツさんが教えます。好きなことを、探す時間が、いくらでもあります」
「はい」
「誰も、あなたに、何も求めません」
「はい」
リーシェは、少し身を乗り出した。
「セイレさま。ご一緒に、参りましょう」
セイレは、まっすぐリーシェを見た。
「はい」
――その一言が、部屋に落ちた。
リーシェは、その「はい」を、聞いた。
いつもと、同じ「はい」だった。
温度も、速さも、まったく同じだった。
「……セイレさま」
「はい」
「いま、なんと」
「はい、と申し上げました」
「……」
「参ります」
リーシェは、床の上で、自分の手を見た。
握っていた。
左手が、また、何も握らずに握られていた。
◇
彼女は、立ち上がれなかった。
床に座ったまま、動けなかった。
わかってしまった。
この娘は、行きたいから「はい」と言ったのではない。
言われたから、「はい」と言った。
十六年、そうしてきたのと、まったく同じやり方で。
カナンが「座りなさい」と言えば座り、「城へ行きなさい」と言えば行き、リーシェが「船に乗りなさい」と言えば、乗る。
中身が、入れ替わっただけだった。
差し出す先が、海から西へ、変わっただけだった。
「……セイレさま」
「はい」
「ひとつだけ、伺います」
「はい」
「あなたは、行きたいですか」
沈黙。
「わたくしの望みは、ございません」
リーシェは、目を閉じた。
十六年、毎朝「お前は要る」と言われ続けた娘に、自分は、今日、こう言った。
――あなたを、お乗せします。
命じたのだった。
優しい声で、良い理由で、正しいと信じて、命じたのだった。
カナンと、同じ手つきで。
◇
部屋を出て、廊下の壁に、背をつけた。
水の伝う壁だった。外套の背が、すぐに濡れた。
構わなかった。
やがて、足音がした。
ゼルヴァーンだった。
彼は、何も聞かなかった。隣に来て、同じ壁に、背をつけた。
二人で、濡れながら、立っていた。
「ゼルヴァーンさま」
「ああ」
「私は」
「ああ」
「あの方に、命じました」
彼は、答えなかった。
「優しい命令でした。だから、気づきませんでした」
「ああ」
「私は、あの方を、逃がすのではなく――」
リーシェは、そこで、言葉を詰まらせた。
「――連れて行こうと、していました」
廊下の突き当たりで、雫が落ちた。
ゼルヴァーンが、言った。
「船は、止めるか」
リーシェは、長く考えた。
それから、首を横に振った。
「止めません」
「乗せるのか」
「いいえ」
彼女は、濡れた壁から、背を離した。
「乗るかどうかを、あの方が、お決めになるようにします」
「決められるのか」
「決められません」
リーシェは、顔を上げた。
「ですから、決められるように、いたします」
お読みいただき、ありがとうございます。
四つ目の名は、「名の無い者」でした。
務めを終えたあとに入る名です。館では、そう呼ばれます。「名の無い者さま、畑の水を」と。
生まれる前の名も、終わったあとの名も、六つの時に、決まっておりました。
そして、リーシェが決めました。逃がす、と。
みんな、言われる前から、そのつもりで動いておりました。デミウルゴは船を、アルトは書状を三枚(一枚目は字が曲がって、二枚目は判が滲みました)、ナディアは荷を、ハインツは西の言葉を十枚。
ゼルヴァーンは反対しました。それでも、止めませんでした。
「よくないが、君を止めるのは、もっとよくない」
「割れたままでも、隣にはいられる」
——そして、リーシェが、いちばん痛いところに行き当たります。
「ご一緒に、参りましょう」
「はい」
いつもと、まったく同じ「はい」でした。温度も、速さも。
命じたのです。優しい声で、良い理由で、正しいと信じて。カナンと、同じ手つきで。
差し出す先が、海から西へ、変わっただけでした。
「乗るかどうかを、あの方が、お決めになるようにします」
「決められるのか」
「決められません。——ですから、決められるように、いたします」
次回、第91話「嫌だ、の練習」。
十三歳が、十六歳に、「嫌だ」を教えます。
教えられるのは、たぶん、この子しかおりません。
ブックマーク・評価・感想、何卒お願いいたします。
優しい命令に、☆ひとつをお力添えください。
蒼空ルーシェ




