第89話 代わりに、ではなく
城が溶けている、という話は、その日のうちに町へ届いた。
港から見上げると、白い塔から、水が幾筋も落ちていた。日に当たると、それが光った。町の者は、桟橋に出てきて、それを見ていた。誰も、声を上げなかった。ただ、見ていた。
夕方、司祭団が来た。
七人。同じ歩幅で、同じ間隔をあけて。
先頭のカナンは、いつもより、少しだけ速く歩いていた。
◇
玉座の間には、水が溜まっていた。
深さは、くるぶしほど。溶けた氷が、床の低いところに集まっていた。
オーディルは、階段の上に立っていた。座らなかった。玉座の氷は、まだ半分残っていて、座れる形をしていなかった。
カナンは、水の中を歩いて、階段の下まで来た。
そして、深く、長い礼をした。
「陛下」
「……カナンか」
「はい」
「三十七年、務めたと言ったな」
「はい」
「一度も、答えなかった」
「はい」
「すまなかった」
司祭たちが、揃って顔を上げた。
カナンだけが、顔を上げなかった。
「もったいのう、ございます」
声が、少し、震えていた。
「陛下。お立ちになりましたか」
「立った」
「では」
彼女は、そこで、顔を上げた。
目が、輝いていた。
喜んでいた。心から、喜んでいた。
「では、お納めくださいますか」
水面が、わずかに揺れた。
リーシェは、その言葉を聞いた瞬間、足を踏み出していた。
◇
「カナンさま」
「半身さま」
「オーディルさまは、いま、お知りになったばかりです」
「はい。存じております」
「千年前のことを、今日、お知りになりました」
「はい」
「その方に、いま、そのお尋ねをなさるのですか」
カナンは、リーシェを見た。
その目は、変わっていなかった。柔らかいままだった。
「半身さま。三十七年でございます」
「はい」
「わたくしの前は、四十一年。その前は、五十年。誰も、お答えをいただけませんでした」
「はい」
「わたくしの代で、初めて、陛下がお立ちになりました」
彼女は、両手を胸の前で合わせた。
「これを、逃す司祭は、おりません」
リーシェは、言葉に詰まった。
この人は、悪意で言っていない。
三十七年、待った人が、待っていたものを見て、そう言っている。
◇
「カナン」
階段の上から、声が降りた。
「はい」
「あの娘の名を、聞かせろ」
カナンの背が、伸びた。
「セイレでございます。民の名を、セイレと」
「そうではない」
声が、低かった。
「三つ目だ」
応接間ではないが、水の溜まった玉座の間も、しんと静まった。
司祭たちが、互いに顔を見合わせた。六人の顔に、初めて、揃っていない表情が出た。
「陛下」
「言え」
「……三つ目のお名前は、陛下がお呼びになる時まで、封じておく作法でございます」
「呼ぶ時が来た」
「では、儀式を」
「いま、言え」
カナンは、動かなかった。
長いこと、そのままだった。
それから、懐に手を入れた。
小さな、油紙の包みを出した。三重に折られていて、蝋で封がしてあった。
彼女は、それを、両手で持った。
「陛下」
「ああ」
「この作法は、千年、変わっておりません」
「聞いている」
「四百十一人、すべて、同じ手順でございます」
彼女は、封を切った。
油紙を開いた。
中から、指ほどの幅の、細い紙が出てきた。
文字が、書いてあった。
カナンは、それを読み上げた。
「――アイラ」
水面が、揺れた。
リーシェは、自分の耳を疑った。
「……いま、何と」
「アイラ、でございます」
カナンは、繰り返した。
当然の顔で。
「陛下の名は、アイラでございます」
「セイレさまの、三つ目のお名前が」
「はい」
「アイラ」
「はい」
「……四百十一人の方々は」
リーシェの声が、震えた。
「その方々の、三つ目のお名前は」
「アイラでございます」
広間が、完全に静まった。
「全員」
「はい。全員でございます」
カナンは、細い紙を丁寧に折り直しながら、こう言った。
「千年前、陛下は、お一人を失われました。ですから、司祭団は、その方の代わりを差し出すことにいたしました。器の名は、お一人分しかございません。ですから――」
彼女は、顔を上げた。
「すべての候補に、同じ名を、用意いたします」
◇
誰も、動かなかった。
オーディルは、階段の上で、石になったように立っていた。
最初に声を出したのは、アルトだった。
「そ、そんなの」
十三歳の声が、水の上に響いた。
「そんなの、ひどいです」
「アルト様」
「四百十一人、ぜんぶ、べつの人です」
「はい」
「べつの人に、おなじ名前をつけたら」
彼は、そこで言葉に詰まった。
詰まって、それでも、続けた。
「その人が、いなくなります」
カナンは、少年をまっすぐ見た。
そして、こう答えた。
「アルト様。器に、名は、要りません」
その一言は、静かだった。
「必要なのは、陛下がお呼びになる名でございます。呼ばれる名が違えば、届きません。ですから、揃えます」
「でも」
「これは、三代前の司祭が定めた、いちばん確かな作法でございます」
彼女は、そこで、初めて、少しだけ目を伏せた。
「わたくしの姉も、アイラでございました」
リーシェの喉が、鳴った。
「十八年、姉は、その名を知らずに座っておりました。名を返す時に、初めて聞かされました」
「……お姉さまは」
「『そう』と、一言だけ仰いました」
カナンは、細い紙を、懐に戻した。
「それきり、何も仰いませんでした」
◇
その夜。
リーシェは、セイレの部屋の前に立った。
中に入る勇気が、出なかった。
伝えるべきだと思った。同時に、伝えてどうなるとも思った。
扉に手をかけた時、中から、声がした。
「半身さま」
リーシェは、動きを止めた。
「……はい」
「入っていらしてくださいませ」
入ると、セイレは、椅子に座っていた。
背筋をまっすぐにして、両手を膝の上に置いて。
いつもと同じ姿勢だった。
ただ、灯りが点いていなかった。
暗い部屋で、この娘は、一人で座っていた。
「セイレさま。灯りを」
「いいえ」
「暗いです」
「はい」
声だけが、返ってきた。
「聞こえておりました」
リーシェの心臓が、止まりかけた。
「玉座の間の声は、この部屋まで届きます。氷が溶けましたので、よく響きます」
「……セイレさま」
「はい」
「聞いて、しまわれましたか」
「はい」
沈黙が、あった。
窓の外で、雫が落ちる音がしていた。
セイレは、暗い中で、まっすぐ前を向いていた。
そして、こう言った。
「わたくしの名前は、四つ、ございました」
お読みいただき、ありがとうございます。
第4章「自分の名」、開幕です。
封じられていた三つ目の名が、開かれました。
——アイラ。
四百十一人、全員です。
千年前に一人を失ったので、その代わりを差し出すことにした。器の名は一人分しかないので、すべての候補に、同じ名を用意する。
「器に、名は、要りません。必要なのは、陛下がお呼びになる名でございます」
カナンの姉も、アイラでした。十八年その名を知らずに座り、名を返す時に初めて聞かされて、「そう」と一言だけ言ったそうです。
アルトの言葉が、この回の芯です。
「べつの人に、おなじ名前をつけたら——その人が、いなくなります」
氷が溶けたので、玉座の間の声は、セイレの部屋まで届いておりました。
暗い部屋で、灯りも点けずに、彼女は一人で座っておりました。
「わたくしの名前は、四つ、ございました」
——三つではなく、四つ。
この数え方の意味は、次回に。
次回、第90話「逃がす、ということ」。
リーシェが、決めます。
決めた直後に、自分がしようとしたことに気づきます。
——「その人が、いなくなります」で胸が痛んだ方。どうか、一押しを。
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蒼空ルーシェ




