第88話 海へ還った人
朝になっても、城は鳴り続けていた。
廊下の壁を、水が伝っている。天井から、細い雫が落ちる。床に、浅い水たまりができていた。
中庭の花壇では、凍っていた花弁が、一枚、落ちた。
千年、空中で止まっていた花弁が、ようやく、地面に着いた。
「ゼルヴァーンさま」
「ああ」
「浜へ、参ります」
「一人でか」
「いいえ」
リーシェは、振り返った。
廊下に、五人が立っていた。アルト、ハインツ、ナディア、デミウルゴ。そして、少し離れて、セイレ。
誰も、呼んでいなかった。
全員、自分で来ていた。
「みなさまと、参ります」
◇
浜に出た。
潮が引いていた。千年前と同じくらい、砂が広く出ていた。
リーシェは、波打ち際まで歩いて、しゃがんだ。
両手を、海に入れた。
白い花が、広がった。前より、ずっと速く、ずっと遠くまで。沖のほうまで、白い帯が伸びていった。
そして、見えた。
◇
冬の朝だった。
空が低く、風が強い。
娘が、桟橋を歩いていた。
白い髪。細い肩。歩くのが、遅い。三年前より、ずっと遅い。
彼女は、小舟の貸元で、何か言った。銀貨を一枚置いて、櫂を受け取った。
舟に乗った。
櫂を漕ぐ手が、細かった。それでも、まっすぐ、沖へ進んだ。
舟は、城の見えるところまで来て、止まった。
娘は、櫂を置いた。
そして、氷の城を、長いこと見ていた。
冬の日差しが、白い塔に当たっていた。窓は、どこも凍っている。人の影は、一つもない。
娘は、それを見て、それから、笑った。
口が、動いた。
――「まだ、ね」。
三十六回目の言葉だった。
◇
彼女は、舟の中で、髪をほどいた。
白い髪が、風に流れた。
それから、両手を、海に入れた。
掌を、下に向けて。
海が、応えた。
舟のまわりの水が、動きを変えた。波が、彼女のほうへ、揃って寄ってきた。二千年、狂ったままだった潮が、その一点で、拍を合わせた。
娘は、目を閉じた。
そして、口を開いた。
今度は、声が、聞こえた。
海の記憶が、千年ぶりに、その声を返した。
「オーディルさま」
澄んだ声だった。
よく笑う人の、笑っていない時の声だった。
「あなたは、わたくしに、要らない、と仰いました」
浜で、リーシェの肩が、震えた。
「けれど、海は、要ると申します」
娘は、目を閉じたまま、続けた。
「わたくしは、削れます。あなたは、それが嫌だと仰いました。ですから、お城の外に出ました。三年、待ちました」
風が、止んだ。
「けれど、あなたは、いらっしゃいません」
声は、責めていなかった。
「三年で、わかりました。あなたは、扉をお開けになりません。開けたら、また、わたくしが削れるからです」
娘は、そこで、少し笑った。
「お優しい方でございます」
舟が、ゆっくり、傾いた。
「ですから、わたくしは、海に参ります」
リーシェは、両手を海に入れたまま、動けなかった。
「盟約は、断たれました。器がなくなれば、潮は狂います。船が沈みます。あの方は、それを、二千年、当たり前だと思っておいででした」
娘の身体が、水に沈んでいく。
抗ってはいなかった。落ちるのではなく、還っていく速さだった。
「けれど、もう、当たり前ではございません。一度、揃ったものは、狂うと、わかります」
水が、肩まで来た。
「ですから」
彼女は、最後に、目を開けた。
薄い、青の瞳だった。
海の、浅いところの色だった。
「あなたが、いつか、外へお出になった時に――潮が、狂っていないように」
白い髪が、水面に広がった。
「わたくしが、器のまま、ここにおります」
海が、閉じた。
小舟だけが、残った。
櫂を置いたまま、誰も乗っていない舟が、ゆっくりと、沖へ流れていった。
◇
リーシェは、海から手を抜いた。
抜いて、そのまま砂の上に座り込んだ。
誰も、声をかけなかった。
ナディアが、外套をかけた。アルトが、その隣に座った。ハインツは、書き取りの板を、下ろしていた。デミウルゴは、眼鏡を外していた。
リーシェが、口を、開いた。
「アイラさまは」
声が、掠れた。
「――まだ、いらっしゃいます」
ハインツが、顔を上げた。
「まだ、と申されますと」
「海の中に」
「千年」
「はい」
リーシェは、濡れた手を見た。
「器のまま、海の中に、いらっしゃいます。だから、潮は、完全には狂いませんでした」
「では」
ハインツの声が、震えた。
「東の循環は、千年、器なしで回っていたのではなく」
「はい」
「あの方が、一人で」
「はい」
風が、砂を撫でた。
セイレが、少し離れたところで、立っていた。
彼女は、海を見ていた。
その頬が、濡れていた。
本人は、気づいていなかった。
◇
城へ戻ると、玉座の間の扉が、開いていた。
六人が、中に入った。
広間の氷は、半分ほど溶けていた。壁を伝う水が、床に流れ、段を伝って落ちている。
そして。
玉座の前に、男が、立っていた。
白い髪が、床まで届いていた。長身の、痩せた男。衣は、千年前のまま。
彼は、階段の上に立って、こちらを見ていた。
目が、動いていた。
千年ぶりに、その目が、人を見ていた。
「西の半身」
オーディルが、言った。
氷を通さない、生の声だった。
「はい」
「聞かせてくれ」
リーシェは、階段の下で、まっすぐ彼を見た。
そして、言った。
「アイラさまは、海に、いらっしゃいます」
オーディルは、こちらを見なかった。
「千年、器のまま」
「あなたが、外へお出になった時に、潮が狂っていないように、と」
三千年生きた魔王が、階段の上で、膝から崩れた。
声は、出さなかった。
ただ、床に手をついて、長いこと、そのままでいた。
落ちた雫が、床の水に、いくつも輪を作った。
どれが氷の雫で、どれがそうでないかは、誰にも、わからなかった。
◇
――花は、咲かせられるものでは、ありません。
海の底にも、咲いて、おりました。
第3部第3章「千年前の海」了。
お読みいただき、ありがとうございます。
第3章「千年前の海」、ここまでです。
アイラの、最後の一日でした。
三十六回目の「まだ、ね」を、彼女は舟の上で言いました。
彼女は、海に入りました。
逃げたのでも、絶ったのでもありません。器のまま、海に残ることを選びました。
「あなたが、いつか、外へお出になった時に——潮が、狂っていないように」
東の循環は、千年、器なしで回っていたのではありませんでした。
一人が、ずっと、支えておりました。
オーディルが「器がない」と思っていた千年、彼の半身は、彼の城の見えるところに、居続けたのです。
リーシェが海に触れると花が咲いたのは、そのためでした。
——氷の玉座から、千年ぶりに、魔王が立ちました。
そして、階段の上で、膝から崩れました。
床の水に落ちた雫のどれが氷のもので、どれがそうでないかは、誰にもわかりませんでした。
セイレも、浜に立っておりました。
頬が濡れておりましたが、本人は、気づいておりません。
——「悲しい」を教わっていない人が、最初に泣くのは、たぶん、こういう順番なのだと思います。
次回、第89話「代わりに、ではなく」。
第4章「自分の名」、開幕です。
セイレが、十六年、何のために育てられたのか。
その意味が、変わります。
ブックマーク・評価・感想、何卒お願いいたします。
海の底で千年支えていた人に、☆ひとつをお力添えください。
蒼空ルーシェ




