第87話 待っていない魔王
ゼルヴァーンは、他の者を、玉座の間から出した。
「僕とオーディルだけにする」
「ゼルヴァーンさま」
「リーシェ。頼む」
彼が「頼む」と言うのは、めずらしかった。
リーシェは、扉のところで一度振り返って、それから出た。
扉が、閉まった。
◇
広間には、魔王が二人だけになった。
扉が閉まると、音の残り方が変わった。人が七人いた時は、氷が声を吸っていた。二人になると、同じ声が、壁と壁のあいだで二度、三度と返ってくる。
ゼルヴァーンは、階段の下に立っていた。上らなかった。
千年前、この二人は一度だけ、同じ卓についたことがある。停戦の調印の日だった。四つの椅子が並び、四人が座り、それぞれの大陸の名で署名した。あの日から千年、二人は一度も顔を合わせていない。
その千年を、片方は数え、片方は数えなかった。
「オーディル」
「何だ」
「ひとつ、聞く」
「聞け」
「お前は、千年、何をしていた」
沈黙があった。
「信じていた」
「何を」
「あの娘が、幸せに老いたことを」
「待っていたのではないのか」
「違う」
声は、迷わなかった。
「待つのは、まだ会えると思っている者のすることだ。僕は、会わないと決めた。決めたものを待つのは、決めていないのと同じだ」
「そうか」
「お前は、待ったのだろう」
「待った」
「どのくらい」
「三十六万五千と、少し」
オーディルの声が、止まった。
「……数えたのか」
「数えた」
「毎日か」
「毎日だ」
「なぜ」
「数えないと、日が過ぎたことが、わからなくなる」
ゼルヴァーンは、続けた。
「僕は、庭を枯らした。城の者は減った。デミウルゴとナディアだけが残った。何もしないでいると、千年が、一日に見える。それが怖かった」
「僕は、一日も、数えていない」
「知っている」
「なぜわかる」
「城が、凍っているからだ」
ゼルヴァーンは、玉座を見上げた。
「数えている者の城は、腐る。止めた者の城は、凍る」
◇
「オーディル」
「何だ」
「記録が出た」
氷が、わずかに鳴った。
「町の帳面だ。司祭の手が入っていない」
「……何が書いてある」
「読む」
ゼルヴァーンは、懐から紙を出した。ハインツが書き写したものだった。
「『冬、十七日。アイラ。二階の奥、ひと月分。前払い』」
沈黙。
「同じ部屋を、三十六回、借りている」
沈黙。
「三年だ。港の宿の、二階の奥。同じ部屋を」
「……別の者だろう」
オーディルが言った。
「同じ名の者は、いる」
「毎朝、貝を売っている」
「――」
「一人が食う分より、少し多いだけの量を、毎朝」
「やめろ」
「毎月、同じ日に、花を買っている」
「やめろ」
「月の、二十一日だ」
城が、鳴った。
さっきまでの細い軋みではなかった。壁の奥で、太い氷が裂ける音がした。天井から、粉のような氷が落ちた。
ゼルヴァーンは、動かなかった。
「盟約の日だな」
「…………」
「三年、欠かさずだ。三十六回」
オーディルは、答えなかった。
氷の中の目は、開いたままだった。閉じられない目だった。
その目の下の、千年前に凍った二本の筋の上に、新しい罅が、細く重なっていた。
◇
「僕は」
ようやく、声がした。
「僕は、あの娘が、町で暮らしていると聞いた」
「聞いた」
「風が、そう運んだ」
「運んだのだろうな」
「暮らしていた。それは、本当だ」
「本当だ」
ゼルヴァーンは、否定しなかった。
「アイラは、三年、町で暮らした。宿を借り、貝を売り、パンを買った。生きていた」
「そうだ」
「だが、オーディル」
「……」
「お前は、その先を、聞かなかった」
沈黙。
「風は、運んできたはずだ。三年分だ。聞こうと思えば、聞けた」
「……聞かなかった」
「なぜだ」
オーディルは、答えるまでに、長くかかった。
「聞けば、迎えに行きたくなる」
その一言で、広間の温度が、変わった気がした。
「迎えに行けば、また対になる。対になれば、また削れる。だから、聞かなかった。三年目からは、風の話も、遮った。城を、深く凍らせて、外の音が入らないようにした」
「千年」
「千年だ」
「音を、入れずに」
「そうだ」
ゼルヴァーンは、そこで、初めて階段を一段上った。
「オーディル」
「何だ」
「信じるのは、楽だったか」
沈黙が、長かった。
「……楽だった」
氷の中の口が、動いた。
「楽だった。あの娘が幸せに老いたと決めてしまえば、僕は、何もしなくてよかった。悲しむ必要も、悔いる必要もなかった。正しいことをしたのだから」
「ああ」
「千年、僕は、正しいままでいられた」
「ああ」
「痛くなかった」
ゼルヴァーンは、階段の上を見た。
そして、静かに言った。
「僕は、痛かった」
「そうだろうな」
「毎日、痛かった。三十六万五千と少し、痛かった」
「……」
「だが、オーディル」
「何だ」
「痛いほうが、動ける」
城が、また鳴った。
天井の高いところで、太い氷が動く音がした。千年、一度も動かなかったものが、位置を変えようとしている音だった。粉のような氷が、光の中を落ちてきて、床に触れる前に消えた。
「僕は、痛かったから、扉を開けた。十年に一度、人間が差し出されるたびに、僕は謁見の間に出た。会いたくもなかった。会えば、また違うと知るだけだ。それでも、出た」
「なぜだ」
「痛いからだ」
ゼルヴァーンが、もう一段、上った。
「痛みは、まだ終わっていない者にしか、来ない。終わったと決めた者には、来ない」
彼は、階段を降りた。
降りて、扉のほうへ歩いた。
背中で、こう言った。
「お前の千年は、痛くなかった。だから、一歩も動かなかった」
扉に手をかけて、止まった。
「僕の千年は、痛かった。だから、リーシェが来た時、僕は、椅子から立てた」
扉が、開いた。
「オーディル。あの娘は、三年、お前を待った」
「……」
「その先は、僕は言わない」
ゼルヴァーンは、振り返らなかった。
「お前が、自分で聞け」
扉が、閉まった。
◇
その夜。
城の全員が、音で目を覚ました。
地の底から突き上げるような、低い音だった。壁が鳴り、床が震え、氷の粉が天井から降った。
リーシェは、寝台から降りて、廊下に出た。
ゼルヴァーンが、隣に立っていた。
二人は、同じ方向を見た。
玉座の間の方角だった。
「ゼルヴァーンさま」
「ああ」
「城が」
「割れている」
「壊れるのでしょうか」
「いや」
彼は、氷の壁に、手を当てた。
「――溶け始めている」
廊下の氷の壁を、一筋、水が伝っていた。
千年ぶりの、水だった。
お読みいただき、ありがとうございます。
魔王が二人だけの回でした。
ゼルヴァーンは、三十六万五千と少し、数えました。数えないと、千年が一日に見えるからです。
オーディルは、一日も数えませんでした。会わないと決めたものを待つのは、決めていないのと同じだからです。
「数えている者の城は、腐る。止めた者の城は、凍る」
そして、町の帳面が読み上げられました。
同じ部屋を三十六回。毎朝の貝。毎月二十一日の花。
「聞けば、迎えに行きたくなる」——だから聞かなかった。三年目からは、風の話も遮って、城を深く凍らせました。音が入らないように。千年。
この回の芯は、この四行だと思っております。
「信じるのは、楽だったか」
「……楽だった」
「僕は、痛かった。——だが、痛いほうが、動ける」
痛みは、まだ終わっていない者にしか来ません。終わったと決めた者には、来ません。
「あの娘は、三年、お前を待った。その先は、僕は言わない。お前が、自分で聞け」
——その夜、城が割れる音がしました。
壊れるのではありません。千年ぶりに、溶け始めております。
次回、第88話「海へ還った人」。
第3章、最終話です。
アイラの、最後の一日です。
氷の玉座から、千年ぶりに、魔王が立ち上がります。
——千年ぶりの一筋の水に、鳥肌が立った方。どうか、一押しを。
ブックマーク・評価・感想、何卒お願いいたします。
壁を伝う一筋の水に、☆ひとつをお力添えください。
蒼空ルーシェ




