第86話 ネイラの記録
「商いの帳面は、削られておりません」
ハインツが、そう言い出したのは、浜から戻った翌朝だった。
「司祭さまがお調べになるのは、記録と書物でございます。宿の帳面、市の帳面、船の貸し出しの控え——そういうものは、作法の外でございます」
「残っているでしょうか。千年前のものが」
「ネイラは、石で建っております。火事が少のうございます」
彼は、そう言って、少し笑った。
「そして、商人は、帳面を捨てません」
◇
三日かかった。
ハインツと、デミウルゴと、アルトの三人で、港を回った。宿を六軒、市の組合を二つ、船の貸元を四軒。
最初の二日は、何も出なかった。
三日目の午後に、いちばん古い宿の蔵から、木箱が三つ出てきた。
中身は、革を綴じた帳面だった。虫が食い、端が崩れ、頁がくっついていた。
ハインツは、それを一枚ずつ、蒸気で剥がした。
そして、四つ目の帳面の、真ん中あたりで、手を止めた。
「――ございました」
リーシェが、覗き込んだ。
東の古い文字は読めなかった。けれど、その一行だけは、わかった。
三文字が、並んでいた。
◇
「読み上げます」
ハインツが言った。
「『冬、十七日。アイラ。二階の奥、ひと月分。前払い』」
リーシェは、その一行を、長く見ていた。
千年前の冬。城が凍った、その冬。
娘は、港の宿に、部屋を取っていた。
「続きがございます」
「はい」
「『春、九日。アイラ。ひと月分。前払い』」
「はい」
「『夏、二日。アイラ。ひと月分』」
ハインツは、頁をめくっていった。
「三年分、ございます」
「三年」
「はい。三十六回、部屋を取っております。同じ部屋でございます。二階の奥」
「同じ部屋を」
「はい。宿の主が、毎回、書き足しております。『同室』と」
デミウルゴが、眼鏡を直した。
「千年お仕えしておりますが」
彼は、いつもの調子で始めて、そこで、いつもと違う続け方をした。
「――同じ部屋を三十六回借りる者は、待っている者でございます」
誰も、それに答えなかった。
◇
市の帳面も、出てきた。
こちらは、売り買いの記録だった。
「アイラの名が、二百四十一回ございます」
デミウルゴが数えた。彼は、数えるなと言われる側の人間だが、この時ばかりは誰も止めなかった。
「何を、売っておられましたか」
「貝でございます」
ハインツが答えた。
「毎朝、貝を売っております。量は、多くございません。一人が食べる分より、少し多い程度」
「買ったものは」
「パン。塩。油。それから」
彼は、指で行を追った。
「花でございます」
リーシェの指が、動いた。
「花を」
「はい。毎月、同じ日に、花を買っております。三年、欠かさず」
「同じ日」
「はい。月の、二十一日でございます」
アルトが、小さく聞いた。
「な、なんの日ですか」
ハインツの指が、帳面の上で止まった。
それから、別の帳面を開いた。城から持ってきた、削られた記録の一冊だった。
「盟約の日でございます」
応接間ではないが、埃だらけの蔵も、しんと静まった。
「千年前の、月の二十一日に、あの方は、盟約を結んでおられます。城の記録に、日付だけは残っております。名は削られておりますが、日付は削られておりません」
「毎月」
「はい。毎月、その日に、花を買って、像に供えておられました。三年、三十六回」
リーシェは、両手で顔を覆った。
覆って、そのままでいた。
◇
三年目の記録は、短かった。
冬に入ってから、貝の売り上げが減っていた。
「量が、減っております」
「お身体が」
「おそらく。半身の力は、盟約を断てば止まります。ただ、削られたぶんは、戻りません」
「戻らない」
「はい。三年ぶん、削られたままでございます」
リーシェは、自分の左手を見た。
自分も、削られている。ローシェの魂を引き継いだ日から、この身体は、世界の循環を支えている。
この先、自分がどうなるかを、彼女は考えないようにしていた。
「最後の記録は」
「船の、貸元の控えでございます」
ハインツが、いちばん薄い帳面を開いた。
「『冬、二十一日。舟一艘。アイラ。半日』」
リーシェが、顔を上げた。
「二十一日」
「はい。盟約の日でございます」
「半日」
「はい。半日の約束で、小舟を一艘、借りております」
彼は、そこで、頁をめくった。
次の頁も、その次も、めくった。
そして、止めた。
「返却の記入が、ございません」
「貸元の控えには、返した日を書く欄がございます。三十年分、すべて埋まっております。埋まっていないのは」
彼は、指で示した。
「この一行だけでございます」
◇
その日の夕方、リーシェは一人で、桟橋に立った。
千年前、同じ場所から、小舟が一艘、出た。
半日の約束で。
冬の、盟約の日に。
目の前の海は、静かだった。夕日が、水面を橙に染めていた。花は、咲かせなかった。今日は、見たくなかった。
背後で、足音がした。
振り向くと、セイレが立っていた。
一人で、城から降りてきていた。
「セイレさま」
「半身さま」
「どうして、ここに」
答えずに、リーシェの隣に来て、同じように海を見た。
二人で、立っていた。
「半身さま」
「はい」
「町の方が、話しておられました」
「何を」
「西の半身さまが、千年前の方をお探しだと」
「はい」
「その方は、お城を出られた方だと」
「はい」
セイレは、海を見たまま言った。
「わたくしは、出た方の話を、聞いたことがございません」
「……」
「捧げられた者は、返されぬのが、作法でございます。ですから、出た方の話は、館では、いたしません」
彼女は、そこで、ほんの少しだけ、間を置いた。
「けれど、いらしたのですね」
リーシェは、隣の娘の横顔を見た。
薄い青の瞳が、海のずっと先を見ていた。
「はい」
リーシェは答えた。
「いらっしゃいました」
「そうでございますか」
セイレは、それだけ言った。
そして、もう一度、口を開いた。
「そうでございますか」
二度目の声は、一度目より、わずかに、低かった。
潮が、満ちてきていた。
お読みいただき、ありがとうございます。
商いの帳面は、削られておりませんでした。司祭が調べるのは記録と書物で、宿や市の帳面は作法の外だったからです。
——そして、商人は、帳面を捨てません。
千年前の冬から、三年。
アイラは、港の宿の、二階の奥の同じ部屋を、三十六回借りておりました。宿の主は、毎回「同室」と書き足しております。
デミウルゴの一言が、この回の芯です。
「同じ部屋を三十六回借りる者は、待っている者でございます」
毎朝、貝を売っておりました。一人が食べる分より、少し多い程度。
毎月、同じ日に、花を買っておりました。三年、欠かさず。月の二十一日——盟約の日です。
三年目の冬、二十一日。小舟を一艘、半日の約束で借りました。
貸元の控えには、返した日を書く欄がございます。三十年分、すべて埋まっております。
埋まっていないのは、その一行だけでした。
最後に、セイレが、一人で城から降りてきました。
「けれど、いらしたのですね」
——館では、出た方の話を、いたしません。
次回、第87話「待っていない魔王」。
魔王が二人、氷の広間で、向き合います。
片方は、千年、待ちました。
もう片方は、千年、待っておりません。
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蒼空ルーシェ




