第85話 海に触れる
「セイレさま。海へ、参りませんか」
リーシェがそう言った時、セイレは、答えるのに時間がかかった。
「……外へ、でございますか」
「はい」
「司祭さまに、お伺いを立てませんと」
「立てません」
「え」
「立てずに、参ります」
セイレの薄い青の瞳が、初めて、はっきり揺れた。
揺れた、とリーシェは思った。この娘が揺れるところを、初めて見た。
「そのようなことは」
「叱られたら、私が叱られます」
「半身さまが」
「はい。私が連れ出しました、と申します」
セイレは、しばらく立っていた。
それから、小さく、こう言った。
「……外は、寒うございますか」
それが、この娘の、承知の返事だった。
◇
浜へは、アルトもついてきた。
舟で海を渡って、ネイラの外れの岩場を降りた。潮が引いていて、砂が広く出ていた。城のあたりだけ空気が冷えているので、浜に出ると、急に暖かかった。
セイレは、砂の上で、立ち止まった。
足の裏で、砂が沈む。彼女は、それを確かめるように、二度、踏み直した。
「セイレさま」
「はい」
「砂は、初めてですか」
「はい」
「六つの時から、一度も」
「館の中と、城の中だけでございます」
アルトが、口を開いた。
「ぼ、ぼくが、案内します」
「案内」
「はい。えっと、ぼくも、去年まで、家の中だけでした。だから、外の歩き方、わかります」
十三歳は、真面目な顔で、そう言った。
「まず、靴を、脱ぎます」
「靴を」
「はい。砂は、裸足のほうが、いいです」
「作法でございますか」
「ちがいます。そのほうが、たのしいからです」
セイレは、その言葉を、頭の中でひっくり返しているようだった。
たのしい、という単語の置きどころを探して、見つからなかったようだった。
それでも、彼女は、靴を脱いだ。
白い足が、砂に触れた。
「……」
「どうですか」
「……あたたかい、です」
「はい」
「砂が、あたたかい、です」
セイレは、しゃがんで、砂に手を置いた。
両手を、下向きに置いた。
掌を上に向けない置き方を、彼女は、生まれて初めてした。
◇
リーシェは、波打ち際まで歩いた。
打ち寄せる水が、足首を洗った。冷たかった。
彼女は、しゃがんで、海に手を入れた。
――そして、息を呑んだ。
指先から、白いものが、広がった。
花だった。
水面に、白い花が咲いた。一輪ではなかった。指の触れたところを中心に、輪を描いて、広がっていく。十輪。三十輪。百輪。
波に乗って、沖のほうまで、白い帯が伸びた。
「ね、ねえさま」
「はい」
「海が」
「はい」
リーシェは、動けなかった。
花は、水の上に浮いているのではなかった。水そのものが、花の形をしていた。
そして――
見えた。
リーシェの目の裏に、映像が、流れ込んできた。
◇
浜だった。
同じ浜。しかし、いまより砂が広い。岩の形が、少し違う。
娘が、歩いていた。
白い髪だった。若い娘の身体に、白い髪。腰まである髪が、風で流れていた。
彼女は、籠を持っていた。中に、乾いた花が入っていた。
浜の岩の上に、像が立っていた。
白い石の、若い女の像。両手を前に差し出して、掌を上に向けて。
――顔が、あった。
リーシェは、その顔を見た。
目があり、鼻があり、口があった。笑っている顔だった。よく笑う人の、口元の形をしていた。
娘は、像の前で膝をついて、籠の花を、足元に置いた。
それから、像の顔を見上げて、少し笑った。
何か言った。
声は、聞こえなかった。けれど、口の形が見えた。
三音。
――「ま、だ、ね」。
娘は、立ち上がって、歩いていった。
浜を、東のほうへ。
映像が、そこで、途切れた。
◇
リーシェは、海から手を抜いた。
白い花が、ゆっくり水に溶けていった。溶けながら、沖へ流れていった。
息が、荒かった。
「ねえさま」
「……大丈夫です」
「なにか、見えたんですか」
「はい」
彼女は、砂の上に座り込んだ。
「アルト」
「はい」
「桟橋の、像を、覚えていますか」
「は、はい」
「あの像には、顔がありませんでした」
「なかったです」
「千年前の像には、顔がありました」
アルトが、目を見開いた。
「え」
「笑っている顔でした」
リーシェは、自分の手を見た。まだ、指先が濡れていた。
「そして、その像の前に、白い髪の娘が、花を供えていました」
「し、白い髪」
「はい」
「……それって」
アルトは、そこで、言葉を止めた。
十三歳にも、答えはわかっていた。
言うのが怖かっただけだった。
◇
セイレは、少し離れたところに座っていた。
砂に、両手を置いたまま。
リーシェが近づくと、彼女は顔を上げた。
「半身さま」
「はい」
「海が、光りました」
「はい」
「あれは、半身さまが」
「はい。私の力です」
「……美しゅう、ございました」
リーシェは、その言葉に、少しだけ救われた気がした。
「セイレさま」
「はい」
「ひとつ、伺ってもよいですか」
「はい」
「像に、顔がないのは、なぜですか」
セイレは、当然の顔で答えた。
「顔は、ございません」
「昔から、ですか」
「はい。半身さまのお顔は、誰も存じませんので。ですから、彫らないのが、作法でございます」
「誰も、知らない」
「はい。書物にも、ございません」
リーシェは、砂を握った。
握った砂が、指の隙間から、こぼれた。
知らないのではなかった。
消したのだ。
名を削るのと、同じ手つきで。四百十一枚の札を並べるのと、同じ丁寧さで。
この大陸は、千年かけて、一人の娘の顔を、削り落としていた。
◇
帰り道、坂の途中で、リーシェは、桟橋の像の前で足を止めた。
顔のない、白い石。
その足元に、千年前の花束が、まだあった。
彼女は、しゃがんで、それに触れた。
乾いた茎の先に、また、白い花が一輪、咲いた。
――アイラが供えた花だった。
彼女は、確信した。
城を出た娘は、この像に、花を供えに来ていた。
顔のある像に。まだ笑っている像に。
そして、こう言っていた。
――まだね、と。
まだ、待っています、と。
お読みいただき、ありがとうございます。
セイレが、生まれて初めて、外へ出ました。
六つの時から、館の中と、城の中だけでした。
アルトの案内が、この回のいちばん好きなところです。
「まず、靴を、脱ぎます」「作法でございますか」「ちがいます。そのほうが、たのしいからです」
セイレは、砂に、両手を下向きに置きました。掌を上に向けない置き方を、生まれて初めていたしました。
そして、リーシェが海に触れました。
海が、千年前を返してくれました。
——白い髪の娘が、浜の像に花を供えておりました。
——その像には、顔がありました。笑っている顔でした。
——娘は、口だけ動かして、三音、言いました。「ま、だ、ね」。
いまの像に顔がないのは、誰も知らないからではありませんでした。
消したのです。名を削るのと、同じ手つきで。
千年かけて、この大陸は、一人の娘の顔を、削り落としました。
次回、第86話「ネイラの記録」。
アイラが城を出たあと、どこで、どう暮らしたのか。
港町に、足跡が残っております。
——「まだ、ね」が刺さった方。どうか、一押しを。
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「まだね」に、☆ひとつをお力添えください。
蒼空ルーシェ




