第84話 手放した、ということ
オーディルは、長く話した。
三千年生きて、千年黙っていた者の話は、途中で何度も逸れた。海の潮の話をし、昔の司祭の話をし、そのたびに戻ってきた。
誰も、遮らなかった。
ゼルヴァーンは階段の下に立ったまま、リーシェは七段目に座り、ハインツは板に書き取り、デミウルゴは書き取らずに聞いていた。
広間には、高いところに細い窓が一つあった。そこから入る光が、床の一箇所だけを白く切り取っている。話が長くなるにつれて、その白い形は、少しずつ床の上を移動していった。
誰も、それを目で追わなかった。追っていたのはリーシェだけだった。話の重さに耐えられなくなるたびに、彼女はその光の縁を見た。
◇
「僕は、二千年、半身を持たなかった」
それが、話の始まりだった。
「西の魔王は、千年に一度、半身を得ると聞いた。羨ましいとは思わなかった。二千年、一人でやってきたのだから、そういうものだと思っていた」
「二千年」
ゼルヴァーンが、繰り返した。
「そうだ。二千年、海の循環は、器なしで回っていた。回るには回る。ただ、遅い。潮が狂う。年に何度も、船が沈む」
「そういうものかと」
「思っていた。誰も、それ以外を知らなかったからだ」
オーディルの声が、少しだけ、柔らかくなった。
「その年、浜に、娘がいた」
リーシェは、膝の上で手を組んだ。
「貝を採る娘だった。腰まで水に浸かって、片手で籠を持って、片手で砂を掘る。十九だった」
「どうして、その方だと」
「潮が、その娘の周りだけ、揃っていた」
彼は、それだけ言った。
「僕は、二千年で初めて、そういうものを見た。海が、一人の人間の足元で、拍を合わせていた」
しばらく、誰も何も言わなかった。
「名を聞いた。アイラと言った。僕は、名を呼んだ。潮が引いて、砂に、その三文字が残った」
ハインツの手が、板の上で止まっていた。
歌のとおりだった。
◇
「盟約を、結んだ」
オーディルは続けた。
「西と同じ作法だ。器と、王が、対になる。海の循環が、正しく回り始めた。潮が揃った。船が沈まなくなった。二千年、当たり前だと思っていたことが、当たり前ではなかったと、その時に知った」
「三年、でございますね」
ハインツが、静かに確かめた。
「三年だ」
「その三年は」
「――良かった」
声が、そこで、途切れた。
「良かった。三千年で、あの三年しか、良い年はなかった。あの娘は、よく笑った。城の者たちと、よく喋った。厨房に入り込んで、貝の汁の作り方を教えていた。二十四人分の食卓が、毎晩、うるさかった」
リーシェは、広間で見た卓を思い出した。
凍った二十四人分の食事。引かれたままの椅子。
「三年目の冬に、気づいた」
オーディルは言った。
「あの娘の髪が、白くなり始めていた」
誰も、動かなかった。
「二十二だ。二十二で、髪が白くなる者はいない。手も、細くなった。歩くのが、遅くなった」
「……力の、代償でございます」
ハインツが言った。
「はい。西の書物にも、同じことがございます。半身は、循環を支えるほど、命を削ります」
「知らなかった」
オーディルの声が、初めて、荒れた。
「僕は、知らなかった。二千年、半身を持たなかったのだから、代償の話も、聞いていなかった。あの娘が、自分の命で、海を回していたことを――三年、気づかなかった」
玉座の氷が、細く鳴った。
「気づいた夜、僕は、盟約を、断った」
◇
「断つ、というのは」
リーシェが、聞いた。
「対を、解くことだ。器を、器でなくする。海の循環は、また器なしで回る。潮は狂う。船は沈む。だが――あの娘は、削られなくなる」
「アイラさまは、何と」
「嫌だと言った」
オーディルは、そう言った。
「あの娘は、嫌だと言った。『私は、これがしたい』と。『船が沈まないほうが、いい』と」
「それで」
「僕は、聞かなかった」
彼の声は、平らだった。
平らに戻す努力の跡が、聞いていてわかる声だった。
「あの娘は、三日、僕に食い下がった。三日目に、僕は、こう言った」
リーシェは、息を止めた。
「『お前は、要らない』」
広間が、静まった。
「『器は、他にもいる。二千年待てば、また現れる。お前でなくてもいい。だから、出ていけ』」
誰も、何も言わなかった。
「あの娘は、しばらく、僕を見ていた。それから、笑った」
「笑った、のでございますか」
ハインツが、掠れた声で聞いた。
「笑った。そして、こう言った」
オーディルの声が、初めて、震えた。
「『では、お城の外で、待っております』」
リーシェの膝の上で、涙が、一粒、落ちた。
「僕は、扉を閉めた。その夜のうちに、城を凍らせた。誰も入れないように。あの娘が戻ってこられないように」
「……食卓は」
「そのままだ。夕食の途中だった」
「二十四人の方々は」
「出した。全員、町へ帰した。城には、僕だけが残った」
彼は、そう言って、しばらく黙った。
「それから、千年、僕は、ここにいる」
◇
リーシェは、立ち上がった。
七段目から、玉座のすぐ前まで、三段上った。
氷の中の男の、開いたままの目を、正面から見た。
「オーディルさま」
「何だ」
「アイラさまは、そのあと、どうなさいましたか」
沈黙。
「知らん」
「知らない」
「知らん。僕は、城を凍らせた。外のことは、風の運ぶものしか届かない」
「風は、何も運びませんでしたか」
「運んだ」
「何と」
「あの娘は、町で暮らしていると」
リーシェの手が、握られた。
「――それだけだ」
「それだけ、ですか」
「それだけで、十分だった」
オーディルは、そう言った。
「僕は、正しいことをした。あの娘は、削られずに済んだ。町で暮らし、誰かと所帯を持ち、年を取って、死んだのだろう。人間とは、そういうものだ」
「お会いには」
「行かん」
「一度も」
「行かん。行けば、また、対になる。対になれば、また削れる」
彼の声は、一分の隙もなかった。
千年、繰り返し、自分に言い聞かせてきた者の、完成された文章だった。
「僕は、千年、待ってなどいない。待つのは、会える者のすることだ。僕は、会わないと決めた」
リーシェは、その場に立っていた。
床を切り取っていた白い光が、いつのまにか壁まで上がっていた。日が傾いている。この話は、半日かかっていた。
足の裏が、冷たかった。氷の階段に長く立っていたせいだった。彼女は、その冷たさを、わざと払わずにいた。
そして、静かに言った。
「オーディルさま」
「何だ」
「私の父は、私を差し出す時に、こう申しました。『お前で、ちょうどよかった』と」
氷が、動かなかった。
「あなたは、アイラさまに、『お前は、要らない』と仰いました」
「……」
「言葉は、同じでございます」
リーシェの声は、震えていなかった。
「理由だけが、違います」
オーディルは、答えなかった。
答えないまま、玉座の氷の、顔の真ん中を通る罅が、また一寸、伸びた。
お読みいただき、ありがとうございます。
オーディルの千年前でした。
二千年、半身を持たない魔王でした。海の循環は器なしで回り、潮は狂い、船は沈み、それが当たり前だと思っておりました。
浜に、貝を採る娘がおりました。十九歳。その足元だけ、海が拍を合わせていました。
三年、良い年でした。城の食卓は、毎晩うるさかったそうです。
三年目の冬、二十二の娘の髪が、白くなり始めました。
——半身は、循環を支えるほど、命を削ります。オーディルは、二千年半身を持たなかったので、その話を聞いていませんでした。
「お前は、要らない」
生かすために言った言葉でした。アイラは笑って、こう言いました。
「では、お城の外で、待っております」
その夜のうちに、城は凍りました。夕食の途中のまま。二十四人分の皿を残して。
リーシェの最後の一言が、この回の芯です。
「言葉は、同じでございます。理由だけが、違います」
次回、第85話「海に触れる」。
リーシェが、海に触れます。
海は、千年前のことを、覚えているようです。
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蒼空ルーシェ




