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要らない娘と呼ばれた私を、魔王は千年待っていたそうです ~捨てた公爵家は没落し、私は世界で一番幸せになりました~  作者: 蒼空ルーシェ


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第83話 アイラという名

 ハインツが広間に来たのは、夜明け前だった。


 彼は、灯りを一つだけ持っていた。書物は持っていなかった。手ぶらで来て、卓の前に立って、しばらく黙っていた。


 起きていたのは、リーシェとゼルヴァーンだけだった。二人とも、眠れていなかった。


「ハインツさん」


「半身さま。夜分に、申し訳ございません」


「何かありましたか」


「はい」


 彼は、椅子に座らなかった。


「削られております」


「削られて」


「はい。この城の記録の、ある期間だけ、人の名が、すべて削られております」


 ゼルヴァーンが、顔を上げた。


「どの期間だ」


「停戦の調印から、四年のあいだでございます」


 卓の上の灯りが、細く揺れた。



   ◇



 三人で、書庫へ行った。


 ハインツが、いくつかの書物を、床に並べていた。開いたまま、頁を上にして。


「ご覧ください」


 リーシェは、しゃがんで、一つを覗き込んだ。


 文字は読めなかったが、異常はすぐにわかった。


 文章の途中、ところどころに、白い空白がある。


 紙が破れているのではない。塗りつぶされているのでもない。文字のあった部分だけが、薄く削り取られて、その上から丁寧に均してあった。


「これは」


「刃物でございます。細い、薄い刃で、一字ずつ」


「一字ずつ」


「はい。乱暴ではございません。むしろ――丁寧でございます」


 ハインツは、指を空白の縁に沿わせた。


「憎んで消したのではございません。この削り方は、作法でございます」


「作法」


「はい。名を返す、という作法が、この大陸にはございました。司祭館で、務めを終えた者が三つの名を返す。それと、同じことを、記録に対してしております」


 リーシェの背が、冷たくなった。


 カナンの声が、耳の奥で聞こえた。


『ただ、名を、返します』


「では、この空白は、全部」


「同じ方の名でございます。文の形から、そう読めます」


「どうして、そう」


「削られた長さが、すべて同じでございます。三文字分」


 ハインツは、床に並べた本を、順に指した。


「ここも、三文字。ここも。ここも」


「その方は、どなたですか」


「――半身でございます」



   ◇



 ハインツは、四日かけて、削られた文章を復元しようとした。


 できなかった。


 削られた本は、全部で二十一冊あった。城の記録も、港町から取り寄せた写本も、すべて同じ場所が削られていた。


 五日目の朝、彼は、一冊だけ、別の棚から持ってきた。


「これは、記録ではございません」


「では」


「詩でございます」


 薄い、小さな本だった。革は擦り切れ、綴じ糸が緩んでいる。


「三百年ほど前に、この町の者が編んだ、古い歌の集でございます。記録ではないので、司祭の目が、届いておりません」


 彼は、ある頁を開いた。


 そこには、削られた跡がなかった。


「この歌は、千年前のものを、口伝えで残したものだそうでございます。歌には、こうございます」


 ハインツは、指で行を追いながら、ゆっくり訳した。


「『――氷の王が、名を呼んだ。/浜に立つ娘の名を。/潮が引いて、砂に文字が残った。/アイラ、と』」


 応接間ではないが、氷の書庫も、しんと静まった。


「アイラ」


 リーシェが、口に出した。


「三文字でございます」


 ハインツが言った。


「削られた空白と、同じ長さでございます」



   ◇



 その日の午後、四人で玉座の間へ行った。


 ゼルヴァーン、リーシェ、ハインツ、それからデミウルゴ。デミウルゴは、頼まれてもいないのに、書き付けの板を持ってついてきた。


 玉座の氷は、いつもどおり動かなかった。


 ゼルヴァーンが、階段の下で言った。


「オーディル」


「……何だ」


「ひとつ、名を言う」


「言うな」


 声が、鋭かった。


 三千年生きた魔王の声が、初めて、慌てていた。


「言うな、ゼルヴァーン」


「なぜだ」


「頼む」


 リーシェは、その一語に、身体が動いた。


 頼む、と言った。


 千年、氷の中で、誰にも頼まなかった人が。


 ゼルヴァーンは、それでも、階段を一段上った。


「オーディル。お前は、僕に、探してくれと言った」


「言った」


「探すには、名が要る」


「……」


「言うぞ」


 沈黙。


「アイラ」


 その瞬間、城が、鳴った。


 氷の柱が、天井が、床が、いっせいに軋んだ。細い罅の走る音が、四方から聞こえた。リーシェは、思わず耳を押さえた。


 軋みは、十を数えるほど続いて、それから、止んだ。


 あとには、静けさだけが残った。


 玉座の氷の表面に、細い罅が、一本、新しく走っていた。


 顔の、ちょうど真ん中を通って。



   ◇



「……千年ぶりだ」


 オーディルの声が言った。


「その名を、聞いたのは」


「お前が、忘れたのではないのだな」


「忘れるものか」


「では、なぜ、わからんと言った」


「言えなかった」


 声は、低かった。


「僕が名を呼べば、この城の記録が、それを書き取る。書き取られれば、司祭が削りに来る。千年、そうしてきた」


 ハインツが、小さく息を呑んだ。


「削りに、来るのでございますか」


「三年に一度、司祭が来る。城の記録を確かめて、その名があれば、削る。丁寧に、一字ずつ」


「なぜ」


「それが、作法だからだ」


 オーディルは、そう言った。


「務めを終えた者の名は、返す。返された名は、この世に置かない。――僕の半身は、務めを終えた者ということに、なっている」


 リーシェの唇が、震えた。


「務めを、終えた」


「そうだ」


「どなたが、そう決めたのですか」


 沈黙が、あった。


 長い、沈黙だった。


 玉座の氷の中で、新しい罅が、また一本、音を立てた。


「――僕だ」


 その一語で、広間の空気が、変わった。


「僕が、決めた」


「オーディルさま」


「僕が、あの娘に、こう言った」


 声が、掠れた。


 三千年ぶりに、言葉が喉に引っかかる音を、リーシェは聞いた。


「『お前は、要らない』と」

お読みいただき、ありがとうございます。


第3章「千年前の海」、開幕です。


記録から、名が削られておりました。停戦の調印から四年のあいだ、ただ一人の名だけが、二十一冊すべてから、一字ずつ、丁寧に。

憎しみではありませんでした。「名を返す」という、この大陸の作法でした。


ハインツが見つけたのは、記録ではなく、歌でした。記録ではないので、司祭の目が届いていなかったのです。


『氷の王が、名を呼んだ。/浜に立つ娘の名を。/潮が引いて、砂に文字が残った。/アイラ、と』


三文字。削られた空白と、同じ長さでした。


そして、ゼルヴァーンがその名を呼んだ時、城が鳴りました。

玉座の氷に、新しい罅が一本、顔の真ん中を通って走りました。


千年、名を言えなかったのは、忘れたからではありませんでした。

言えば、司祭が削りに来るからでした。三年に一度、丁寧に、一字ずつ。


——最後の一行です。

——「お前は、要らない」と言ったのは、この方でした。


次回、第84話「手放した、ということ」。

オーディルが、千年前を語ります。

「お前は、要らない」と言った、理由を。

——憎しみでは、ございませんでした。


——砂に残った三文字で、息を止めた方。どうか、一押しを。

ブックマーク・評価・感想、何卒お願いいたします。

砂に残った三文字に、☆ひとつをお力添えください。


蒼空ルーシェ

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