第82話 三つの名
その日の午後、セイレが、廊下でリーシェを待っていた。
待っていた、と言うと、待つのは務めのうちだった。夕方の一刻に城の方角を向いて座るのと同じ姿勢で、彼女は廊下の隅に立っていた。
「セイレさま」
「半身さま」
「どうかされましたか」
「いいえ」
「では、どうして、ここに」
セイレは、少し黙った。
それから、こう言った。
「わかりません」
リーシェは、その返事を、ゆっくり受け取った。
わかりません、というのは、この娘が初めて口にした種類の言葉だった。務めでも作法でもない。ただ、自分の状態をそのまま言っている。
「では、少し、歩きましょうか」
「はい」
◇
城の回廊は、長かった。
氷の柱が等間隔に並び、その間から中庭が見える。凍った花壇。散る途中で止まった花弁。
二人は、しばらく黙って歩いた。
「セイレさま」
「はい」
「ひとつ、伺ってもよろしいですか」
「はい」
「昨日、カナンさまが、名を三つ授けたと仰っていました」
「はい」
「三つ、あるのですか」
「ございます」
「教えていただけますか」
セイレは、立ち止まった。
柱の陰で、彼女の白い衣が、青く見えた。
「ひとつは、民の名でございます」
「はい」
「セイレ、と申します。町の方が、そう呼びます」
「セイレ」
「はい。古い言葉で、意味がございます」
「どんな」
「捧げられた者、でございます」
回廊の風が、鳴った。
リーシェは、その名を、口の中でもう一度言った。捧げられた者。
この娘は六つの時から、自分を呼ぶ声のたびに、その意味を聞いていた。
「ふたつめは、海の名でございます」
「海の」
「はい。ミアラ、と申します。海の循環に届けるための名でございます。司祭さまだけが、儀式の折にお使いになります」
「あなたは、呼ばれたことが」
「ございません。儀式の折だけでございますので」
「では、三つめは」
セイレは、そこで初めて、少しだけ言いにくそうにした。
「陛下の名でございます」
「陛下の」
「はい。お納めいただく時に、陛下が、初めてお呼びになる名でございます」
「……何と、仰るのですか」
セイレは、リーシェを見た。
薄い青の瞳が、まっすぐこちらを向いていた。
「存じません」
リーシェの息が、止まった。
「存じません、というのは」
「わたくしは、存じません」
「ご自分の、お名前を」
「はい。陛下の名は、陛下がお呼びになるまで、誰も口にいたしません。司祭さまがお決めになり、書き付けて、封じてございます」
「封じて」
「はい。司祭館の、いちばん奥に」
彼女は、当たり前のことを説明する声で、続けた。
「陛下がお呼びくださった時に、初めて、わたくしは、その名を知ります」
リーシェは、氷の柱に、手をついた。
立っているのが、少し、つらかった。
◇
「セイレさま」
「はい」
「では、あなたのお名前は、どれですか」
「三つでございます」
「そうではなくて」
リーシェは、言葉を探した。
「あなたが、あなたを、呼ぶときの名前です」
「……」
「心の中で、自分を呼ぶことは、ありませんか」
セイレは、長く考えた。
この娘が、こんなに長く考えたのは、初めてだった。
「ございません」
「一度も」
「はい。呼ぶ必要が、ございませんので」
彼女は、自分の手を見た。
「どれも、いただいたものでございます」
その言い方には、不満も諦めも含まれていなかった。
ただ、事実を言っていた。
三つの名は、すべて、他人がつけた。ひとつは町の人のため。ひとつは海のため。ひとつは魔王のため。
自分のための名が、ひとつも、なかった。
◇
回廊の突き当たりまで来て、二人は、引き返した。
半分ほど戻ったところで、セイレが、足を止めた。
「半身さま」
「はい」
「ひとつ、お尋ねしてもよろしいでしょうか」
リーシェの心臓が、跳ねた。
この娘が、自分から尋ねたのは、初めてだった。
「はい。何でも」
セイレは、少しのあいだ、言葉を選んでいた。
選ぶ、という動作を、初めてしていた。
「半身さまのお名前は」
「はい」
「どなたが、おつけになりましたか」
リーシェは、答えるまでに、少し時間がかかった。
「……母が、つけました」
「お母さまが」
「はい。私は、母を知りません。私を産んで、その日に亡くなりましたので」
「はい」
「ですから、母が私を呼んだことは、一度もありません」
「……はい」
「けれど、名前だけ、置いていってくれました」
リーシェは、胸元の銀のロケットに触れた。
「リーシェ、と申します。星と、光、という意味です」
セイレは、その言葉を、じっと聞いていた。
「星と、光」
「はい」
「それは」
彼女は、そこで、言葉に詰まった。
詰まって、下を向いた。
しばらくして、こう言った。
「それは、務めではございませんね」
リーシェの目が、熱くなった。
「はい」
「意味が、務めでは、ございません」
「はい。母は、私に、何もさせるつもりが、なかったのだと思います」
「……」
「ただ、そういうふうに、光っていてほしかったのだと思います」
セイレは、顔を上げなかった。
顔を上げないまま、こう言った。
「よろしゅう、ございますね」
それは、感想だった。
十六年、望みを持たぬように育てられた娘の口から出た、生まれて初めての感想だった。
リーシェは、返事をしなかった。
できなかった。
代わりに、隣に立って、同じ方向を見た。
氷の窓の向こうで、海が光っていた。
◇
その夜、リーシェは寝台の端で、ゼルヴァーンの背中に向かって言った。
「ゼルヴァーンさま」
「……ああ」
「起きていらっしゃいますか」
「起きている」
割れた夜から、二人は、ほとんど口をきいていなかった。
「あの子には、自分の名前が、ありません」
「聞いた」
「三つとも、他の方のものです」
「ああ」
「陛下の名は、ご自分でも、ご存じないそうです」
ゼルヴァーンが、動いた。
初めて、寝返りを打った。
「知らないのか」
「はい」
「自分の名を」
「はい」
彼は、しばらく黙っていた。
背中は、まだ、こちらを向いていた。
「……リーシェ」
「はい」
「僕は、まだ、君に賛成していない」
「はい」
「だが、いま、少し、寒い」
リーシェは、目を閉じた。
「はい」
「それだけだ」
彼女は、手を伸ばさなかった。
彼も、伸ばさなかった。
手のひら一つ分の距離は、まだ、そこにあった。
けれど、その夜、二人とも同じことを考えて眠れなかった。
自分の名前を自分が知らないまま、十六年、毎朝「お前は要る」と言われ続けた娘のことを。
◇
――花は、咲かせられるものでは、ありません。
咲かされた花にも、根は、あります。
第3部第2章「望まれた娘」了。
お読みいただき、ありがとうございます。
第2章「望まれた娘」、ここまでです。
セイレの三つの名でした。
民の名「セイレ」——古い言葉で「捧げられた者」。
海の名「ミアラ」——儀式の折に、司祭だけが使う名。
そして、陛下の名。お納めいただく時に、陛下が初めてお呼びになる名です。
——本人は、それを知りません。
司祭館のいちばん奥に、書き付けて封じてあります。呼ばれた時に、初めて知るのだそうです。
「どれも、いただいたものでございます」
この章の最後に、ひとつだけ、動きました。
セイレが、生まれて初めて、自分から尋ねました。「半身さまのお名前は、どなたが、おつけになりましたか」
リーシェの名は、母がつけました。星と光、という意味です。母は、リーシェを一度も呼びませんでした。名前だけ、置いていきました。
「それは、務めでは、ございませんね」
「よろしゅう、ございますね」
——十六年で、生まれて初めての、感想でした。
ゼルヴァーンとリーシェは、まだ割れたままです。ただ、その夜、二人とも同じことを考えて眠れませんでした。
次回、第83話「アイラという名」。
第3章「千年前の海」、開幕です。
ハインツが、古文書の中に、消された名を見つけます。
——千年前の、東の海の魔王の、半身の名です。
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蒼空ルーシェ




