第81話 揺らいでいい、が届かない
翌朝、リーシェは、セイレの部屋を訪ねた。
扉を叩くと、すぐに返事があった。この娘は、いつでも起きている。
部屋に入ると、セイレは床に膝をついていた。
目の前に、浅い鉢が置いてある。鉢には水が張ってあった。
彼女は、両手を鉢の上にかざしていた。掌を、上に向けて。
「稽古中でしたか」
「はい」
「続けてください」
「はい」
セイレは、そのまま続けた。
しばらく見ていて、リーシェは、その稽古の意味に気づいた。
水が、鉢から浮いていた。
薄い膜のような水が、掌の上に、二寸ほどの高さで留まっている。揺れていない。震えてもいない。
「……お上手です」
「はい」
「どのくらい、保てますか」
「一刻でございます」
「一刻」
「はい。以前は半刻でございましたが、十二の年に、一刻になりました」
リーシェは、自分の掌を見た。
彼女の力は、こういうものではなかった。花が咲くのは、勝手に咲く。止めようと思って止まらないし、咲かせようと思って咲くわけでもない。
「セイレさま」
「はい」
「その水が、こぼれると、どうなりますか」
「叱られはいたしません」
「では」
「もう一度、はじめから、いたします」
「一刻を」
「はい」
「何度も」
「はい。こぼれなくなるまで」
水は、揺れなかった。
リーシェは、その膜を見ていた。二寸の高さで、平らに止まっている。表面に、部屋の白い天井が映り込んでいた。映り込んだ像が動かないほど、それは静かだった。
こういうものを十年こぼさずにいるためには、どれだけの朝が要ったのだろうと思った。日の出前に起きて、海の水を汲んで、体を清めて、それからこの鉢の前に座る。その朝が、六つの年から数えて何千回。
◇
稽古が終わって、セイレが鉢を片づけたあと、リーシェは椅子を勧めた。
自分は、床に座った。
寝台にも椅子にも座らずに、床に座ったのは、この娘と同じ高さになりたかったからだった。
「セイレさま。今日は、お伝えしたいことがあって、参りました」
「はい」
「私の話を、聞いていただけますか」
「はい」
リーシェは、少し、間を置いた。
この言葉を、彼女は、何度も人に言ってきた。アルトに言った。ナディアに言った。ノエルにも言った。そのたびに、届いた。
だから、届くと思っていた。
「セイレさま。人は、揺らいでいいのです」
「……はい」
「私は、十七年、揺らいではいけないと思って生きてきました。要らない子だから、せめて、迷惑をかけないように。泣かないように。何も望まないように」
「はい」
「けれど、それは、間違いでした」
「はい」
「私に教えてくれた人が、こう言いました。『揺らがない、と決意するのが、いちばん危ない』と」
「はい」
「揺らいでも、いいのです。揺らいでも、消えません」
リーシェは、そこで、セイレの顔を見た。
薄い青の瞳が、こちらを見ていた。
まっすぐ見ていた。丁寧に、最後まで、聞いていた。
そして、こう言った。
「半身さま」
「はい」
「ひとつ、お尋ねしてもよろしいでしょうか」
「はい。何でも」
「揺らぐ、とは、どういう意味でございますか」
応接間ではないが、白い部屋も、しんと静まった。
「……揺らぐ、というのは」
リーシェの口が、動かなくなった。
「揺らぐ、というのは、その」
説明しようとして、初めて気づいた。
揺らぐ、というのは、行きたい方向があるから起きる。
留まりたい場所があって、それでも動いてしまうから、揺らぐと言う。
望みのない者は、揺らがない。
揺らげない。
「……セイレさま」
「はい」
「あなたは、行きたいところが、ありますか」
「ございません」
「なりたいものは」
「ございません」
「怖いものは」
「ございません」
「嫌なものは」
「ございません」
リーシェは、床に座ったまま、動けなかった。
揺らいでいい、という言葉は、揺らげる人にしか、届かない。
彼女が十七年かけて手に入れた言葉は、この娘の前で、何の意味も持たなかった。
◇
どれくらい黙っていたか、わからなかった。
気づいた時には、リーシェの目から、涙が落ちていた。
自分でも驚いた。慌てて、袖で拭った。
セイレが、それを見ていた。
じっと、見ていた。
そして、こう言った。
「半身さま」
「……はい」
「それは、何でございますか」
リーシェは、袖を目に当てたまま、動きを止めた。
「これは」
「はい」
「涙です」
「涙」
「はい」
「存じております。書物で」
セイレは、少し首を傾げた。
この娘が、首を傾げたのは、初めてだった。
「痛いのでございますか」
「……いいえ」
「では、寒いのでございますか」
「いいえ」
「では」
彼女は、そこで、言葉を探した。
探して、見つからなかった。
「――申し訳ございません。存じません」
リーシェは、袖を下ろした。
そして、涙のついた顔のまま、笑おうとした。うまく笑えなかった。
「セイレさま」
「はい」
「これは、悲しい、というものです」
「悲しい」
「はい」
「何が、悲しいのでございますか」
リーシェは、正直に答えた。
「あなたが、悲しくないことが、悲しいです」
セイレは、その言葉を、聞いた。
聞いて、しばらく、そこに置いていた。
それから、深く、頭を下げた。
「申し訳ございません」
「謝らないでください」
「はい」
「謝ることでは、ありません」
「はい」
彼女は、頭を上げた。
顔は、変わっていなかった。
けれど、膝の上の両手が、わずかに握られていた。
掌を上に向ける稽古を十六年した娘の手が、初めて、内側を向いて閉じていた。
リーシェは、それを見た。
見たが、何も言わなかった。
言ってしまえば、この娘は、また開くと思ったからだった。
◇
部屋を出て、廊下を歩きながら、リーシェは千年前の言葉を思い出していた。
リューシェの言葉だった。
『揺らがない、と決意することは、それを脅かす存在を、内側に認めることです』
『決意せず、ただ、揺らいでも構わない、と思うことです』
あの時、自分は、それを受け取れた。
受け取れたのは――と、リーシェは、廊下の途中で立ち止まった。
受け取れたのは、その前に十七年、揺らいでいたからだ。
揺らいで、苦しんで、消えそうになって、それでも消えなかった夜が、いくつもあったからだ。
言葉は、経験のある場所にしか、着地しない。
あの娘には、着地する場所がない。
なら、どうすればいいのか。
答えは、出なかった。
いつもなら、ここで、ゼルヴァーンに聞いた。
聞いたところで、答えが出たことは、あまりない。ただ、出ないまま二人で黙っている時間が、答えの代わりになっていた。
今夜は、聞けない。
聞けば、昨日の続きになる。
――手のひら一つ分。
その距離は、まだ、そこにあった。
廊下の突き当たりで、氷の窓が、青白く光っていた。
その向こうで、二つの月のうちの片方が、昨日よりもまた少し、細くなっていた。
お読みいただき、ありがとうございます。
リーシェの言葉が、届きませんでした。
「揺らいでも、消えません」——第1部から、皆さまと一緒に育ててきた言葉です。アルトに届き、ナディアに届き、ノエルにも届いた言葉です。
けれど、セイレは、こう聞き返しました。
「揺らぐ、とは、どういう意味でございますか」
揺らぐというのは、行きたい方向があるから起きるものでした。留まりたい場所があって、それでも動いてしまうから、揺らぐと言うのでした。
望みのない者は、揺らげません。
リーシェが十七年かけて手に入れた言葉は、この娘の前で、何の意味も持ちませんでした。
「あなたが、悲しくないことが、悲しいです」
——ただ、最後に、ひとつだけ。
掌を上に向ける稽古を十六年した娘の手が、膝の上で、初めて、内側を向いて閉じておりました。
リーシェは、それに気づきましたが、何も言いませんでした。言えば、また開いてしまうからです。
次回、第82話「三つの名」。
第2章、最終話です。
セイレには、名前が三つあります。
民の名と、海の名と、陛下の名。
——どれも、いただいたものだそうです。
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蒼空ルーシェ




