第80話 割れた夜
その日の夕方、玉座の間で、ゼルヴァーンがオーディルに聞いた。
「もし、あの娘を納めたら、氷は溶けるか」
リーシェは、その問いを、背後で聞いた。
聞いた瞬間、足の裏の感覚が、なくなった。
オーディルは、しばらく答えなかった。
「……溶けるだろうな」
「東の循環は、戻るか」
「戻る」
「二つの月は」
「知らん。だが、欠けているのは、僕のせいだ」
氷が、細く鳴った。
「千年、器がない。海の循環は、器のないまま回っている。無理に回れば、どこかが軋む。月は、その軋みだろう」
ゼルヴァーンは、それきり何も言わずに、玉座の間を出た。
リーシェは、そのあとを追った。
◇
与えられた部屋で、二人になった。
灯りは、まだ点けていなかった。氷の壁が、青白く光っていた。この城には影がない。どこに立っても、自分の影が足元にできない。幾日過ごしても、リーシェはそれに慣れなかった。
外套を脱ぐ手が、途中で止まった。
止まったのは寒さのせいではなかった。これから話すことの形が、もう見えていたからだった。話せば、どこかで折れる。折れなければ、割れる。そのどちらかにしかならないことが、部屋に入る前から、わかっていた。
「ゼルヴァーンさま」
「ああ」
「さきほどの、お尋ねは」
「聞いたとおりだ」
「セイレさまを、納めるおつもりですか」
「本人が望むなら」
「望んでおりません」
「望んでいる、と言っている」
リーシェは、外套を脱ぐ手を止めた。
「望みを持たぬように育てられた方の『望んでおります』は、望みではありません」
「では、何だ」
「作法です」
「作法でも、口にした言葉は言葉だ」
「違います」
自分の声が、思ったより強く出た。
ゼルヴァーンが、こちらを見た。彼の目は、怒っていなかった。ただ、まっすぐだった。
「リーシェ」
「はい」
「僕は、あの娘を助けたくない訳ではない」
「はい」
「だが、順番がある」
「順番」
「あの城が凍っている限り、この大陸の循環は戻らない。月は欠け続ける。西にも、いずれ届く」
「はい」
「オーディルが動けば、全部が動く。動かす鍵は、いま、一つしかない」
「セイレさまです」
「ああ」
リーシェは、寝台の縁に手をついた。
「その一つを使うことは」
「わかっている」
「あの方を、道具にすることです」
「わかっている」
「わかっていて、なさるのですか」
ゼルヴァーンは、答えなかった。
答えないことが、答えだった。
◇
「ゼルヴァーンさま」
「ああ」
「私を、覚えていらっしゃいますか」
彼の眉が、動いた。
「何の話だ」
「十年に一度の、人身御供です」
「……ああ」
「私は、差し出されました」
「ああ」
「父が、私を選びました。『お前で、ちょうどよかった』と言いました」
「聞いた」
「あの日、私は、行きたくありませんでした」
部屋が、静まった。
「行きたくなかったのです。怖くて、震えて、馬車の中で、三日、泣きませんでした。泣いたら、要らない娘のまま死ぬと思いましたので」
ゼルヴァーンの手が、動かなくなった。
「それでも、私は、行きました。行くしかありませんでしたので」
「リーシェ」
「はい」
「僕は、千年、待った」
彼の声は、低かった。
「三十六万五千と少し、数えた。誰も来なかった。千年、誰も来なかった」
「はい」
「来たのは――」
彼は、そこで止まった。
止まったが、リーシェには、その先がわかってしまった。
だから、彼女が続けた。
「来たのは、差し出された私でした」
氷の壁が、青白く光っていた。
「あなたは」
リーシェの声が、震えた。
「それで、よかったのですか」
ゼルヴァーンは、答えなかった。
長く、答えなかった。
そして、ようやく口を開いた時、彼はこう言った。
「……よかった」
リーシェの目の奥が、熱くなった。
「僕は、君が来なければ、千年、あのままだった。庭は枯れたままだった。僕は、あの椅子で、腐っていた」
「はい」
「差し出されたことが間違いだと言うなら、僕の千年は、間違いで終わっていた」
「間違いだったのは、父です」
「同じことだ」
彼は、はっきり言った。
「僕は、受け取った」
◇
しばらく、どちらも動かなかった。
外で、風が鳴っていた。氷の塔を渡る風の音は、細くて、途切れない。
「ゼルヴァーンさま」
「ああ」
「私は、あなたに来てよかったです」
「ああ」
「一日も、後悔しておりません」
「ああ」
「けれど」
リーシェは、自分の左手を見た。
十七年、何も握らずに握っていた手。いまは、握るものがある手。
「けれど、それは、私が、こうなったからです」
「……」
「もし、あの日、あなたが、千年待った人ではなかったら」
「ああ」
「もし、私を、道具として使う方だったら」
「ああ」
「私は、いまごろ、消えています」
彼女は、顔を上げた。
「差し出されて、よかったことになったのは、結果です。結果がよかったから、差し出してよかったことには、なりません」
ゼルヴァーンが、目を伏せた。
「セイレさまも、納めれば、あるいは幸せになるかもしれません。オーディルさまが、あなたのような方かもしれません」
「ああ」
「けれど、それは、賭けです」
「ああ」
「あの方の一生を賭ける権利は、私たちには、ありません」
ゼルヴァーンは、しばらく黙っていた。
それから、こう言った。
「――君の言うことは、正しい」
「はい」
「だが、それでは、誰も動かない」
「はい」
「月は欠け続ける。城は凍ったままだ。四百十一人の次に、四百十二人目が育てられる」
リーシェの息が、止まった。
「僕は、正しいことをして、何も変わらないのを、千年見た」
彼は、そう言った。
「もう、見たくない」
◇
その夜、二人は、初めて、背を向けて眠った。
寝台は広かった。氷の城の寝台は、どれも人が二人で寝るには広すぎる造りをしていた。千年前、この城には二十四人が暮らしていて、客も来た。その頃の寸法で作られたものが、そのまま残っている。
その広さが、今夜は、余計だった。
喧嘩をしたのではなかった。
声も荒げなかった。物も投げなかった。ひどい言葉も、一つも出なかった。
ただ、どちらも、相手が間違っていると思えなかった。
思えないまま、話が終わってしまった。
リーシェは、寝台の端で、目を開けていた。
背中に、彼の背中があった。触れてはいない。手のひら一つ分だけ、離れていた。
千年の魔王が、寝返りを打たないのを、彼女は知っていた。眠れない夜、この人は、まったく動かない。
だから、今夜、彼が眠っていないことも、わかった。
わかったが、声はかけなかった。
かけたら、どちらかが折れてしまう。
折れるのは、間違いだと思った。
――そう思っている自分が、いちばん正しくないような気も、していた。
窓の外で、氷が鳴った。
城のどこかで、セイレが、城の方角を向いて座っている時刻だった。
お読みいただき、ありがとうございます。
婚礼のあと、初めて、二人が割れました。
ゼルヴァーンは、千年待たされた側です。正しいことをしても何も変わらないのを、千年見ました。だから、動かす鍵があるなら使いたい。
リーシェは、差し出された側です。結果が良かったからといって、差し出してよかったことにはならない。だから、賭けさせたくない。
どちらも、間違っておりません。
二人の千年の傷が、違う形をしているだけです。
「僕は、受け取った」——この一言を言えるのが、ゼルヴァーンという人だと思っております。都合よく忘れない人です。
声も荒げず、物も投げず、ひどい言葉も一つも出ませんでした。
それでも、背を向けて眠りました。手のひら一つ分だけ、離れて。
この夜の決着は、まだ先です。第98話「帰りの船」まで、お待ちください。
次回、第81話「揺らいでいい、が届かない」。
リーシェが、セイレに、あの言葉を伝えようとします。
第1部から、皆さまが見てきた言葉です。
——けれど、届きません。
——どちらの言い分にも頷いてしまった方。どうか、一押しを。
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蒼空ルーシェ




