第79話 海の循環
ハインツは、三日、書庫から出てこなかった。
アルトが食事を運び、ナディアが毛布を運んだ。四日目の朝、彼は自分から広間に現れて、開口一番にこう言った。
「陛下。西と東で、半身の意味が違います」
ゼルヴァーンが、顔を上げた。
「座れ」
「はい」
「食え」
「……いただきます」
ハインツは、パンをひと口食べて、それから話し始めた。指のインクが、いつもより濃くなっていた。
◇
「西では、半身は、生まれます」
彼は、卓の上に一冊を開いた。氷から出したばかりの本で、頁の縁がまだ湿っている。
「世界の循環が、千年に一度、器を選びます。誰が選ばれるかは、誰にもわかりません。公爵家に生まれることもあれば、漁師の家に生まれることもございます」
「私は、公爵家でした」
リーシェが言った。
「はい。ローシェさまも、同じ家でございました。ただ、それは血ではなく、偶然だと、西の書物は書いております」
「偶然」
「はい。『循環は、家を選ばぬ』と。西の古語で、そう記されております」
彼は、頁をめくった。
「東は、違います」
「どう違いますか」
「東では、半身は――」
ハインツは、そこで一度、言葉を切った。
「――作ります」
誰も、匙を動かさなかった。
「作る」
「はい。東の書物では、循環を『海の循環』と呼びます。呼び方が違うだけで、同じものでございます。ただ、東の教えでは、海の循環は、自分では器を選びません」
「選ばない」
「はい。『海は、差し出されたものを受ける』と。ですから、人が選んで、育てて、差し出す。血を選び、作法を教え、望みを持たぬように育てる。器の側から、器になりに行くのでございます」
ナディアが、湯呑みを置く音がした。
少し、大きかった。
「ハインツさま」
「はい、ナディアさま」
「その作法は、いつからのものでございましょう」
「と、申されますと」
「わたくしは、千年前に、生まれております」
彼女は、紫の瞳を上げた。
「千年前、西の魔王城で、わたくしは侍女の作法を習いました。その時に、ひとつだけ、東の作法を教わっております」
「東の」
「はい。『東の海の向こうにも、循環がある。呼び名は違うが、同じものだ』と。それだけでございます」
「それだけ、でございますか」
「はい。『差し出す』とは、教わっておりません」
◇
ハインツが、席を立った。
そして、書庫から持ってきた包みを解いた。中から、三冊出てきた。
三冊は、見るからに年代が違った。新しいものは背が締まっていて、頁の縁が揃っている。古いものは、綴じが緩んで、頁が扇のように開いてしまう。いちばん古い一冊は、革が黒く変色して、もう本というより、一枚の塊に近かった。
彼は、その三冊を、卓の上に、新しい順に並べた。並べ方に、書庫の男の癖が出ていた。
「新しいほうから、申し上げます」
彼は、一冊目を開いた。
「これは、三百年ほど前の写本でございます。『海は差し出されたものを受ける』と、はっきり書いてございます」
二冊目。
「これは、六百年ほど前。同じ一文がございます。ただし、その前に、注が付いております」
「注」
「はい。『古き書に曰く、海は自ら選ぶ、と。されど今は差し出す』」
リーシェが、身を乗り出した。
「されど今は」
「はい。書き手が、違いを知っております。知った上で、新しいほうを書いております」
彼は、三冊目に手を伸ばした。
黒く変色した、いちばん古い一冊。
開くのに、時間がかかった。頁が凍りついていて、爪の先で、一枚ずつ剥がすように開いた。
そして、あるところで、止まった。
「――ございました」
「何と、書いてありますか」
ハインツは、指で行を追いながら、読み上げた。
「『海の循環は、自ら器を選ぶ。人は、これを知ることあたわず。ゆえに、待つ』」
応接間ではないが、氷の広間も、しんと静まった。
「待つ」
ゼルヴァーンが、その一語を繰り返した。
「はい、陛下。千年より前の東では、半身は、待つものでございました。西と、同じでございます」
「では、いつ変わった」
「この書の、次の頁でございます」
ハインツが、頁をめくった。
そこには、別の筆跡で、後から書き足された数行があった。
インクの色が違う。字の癖も違う。書き足されたのが、ずっと後だとひと目でわかる、雑な追記だった。
「何と」
「『されど、待つあいだに、王は失えり。よって、これより差し出すべし』」
リーシェは、その一文を、二度、頭の中で読んだ。
待つあいだに、王は失った。
だから、これからは、差し出す。
「ハインツさん」
「はい」
「これは、いつ書かれたものですか」
「千年前でございます」
彼は、頁の端を指した。
「年号がございます。停戦の調印から、四年後」
ゼルヴァーンが、立ち上がった。
「四年後」
「はい、陛下」
「オーディルの半身が、いなくなったのは」
「――調印から、三年後と、別の書に」
◇
誰も、しばらく口をきかなかった。
最初に言葉にしたのは、アルトだった。
「じゃ、じゃあ」
彼は、指を折って数えていた。
「王さまが、半身を、なくして」
「はい」
「そのつぎの年に、みんなで、差し出すことに、したんですか」
「そういう順でございます」
「だ、だれが、決めたんですか」
ハインツは、頁を見た。
「筆跡は、司祭のものでございます。名は、ございません」
「なんで」
「わかりません」
彼は、本を閉じた。閉じる時、少しだけ、丁寧すぎる手つきになった。
「アルト様。ひとつだけ、申し上げてよろしいでしょうか」
「は、はい」
「これは、隠されておりません」
「え」
「この本は、書庫の、いちばん取りやすい棚にございました。鍵もかかっておりません。誰でも読めます」
彼は、自分の黒い指を見た。
「ただ、千年、誰も開かなかっただけでございます」
リーシェは、その言葉を聞きながら、司祭館の棚を思い出していた。
四百十一枚の札。日焼けの違う、一枚分の隙間。
あれも、隠されていなかった。
鍵はかかっていなかった。誰でも見られた。
ただ、誰も、数えなかった。
お読みいただき、ありがとうございます。
ハインツが、三日で東の教義を読み解きました。
西では、半身は「生まれる」ものです。循環が器を選び、誰が選ばれるかは誰にもわかりません。
東では、半身は「作る」ものです。人が血を選び、作法を教え、望みを持たぬように育てて、差し出します。
けれど、千年より前の東は、西と同じでした。
『海の循環は、自ら器を選ぶ。人は、これを知ることあたわず。ゆえに、待つ』
その次の頁に、別の筆跡で、後から書き足された数行がありました。
『されど、待つあいだに、王は失えり。よって、これより差し出すべし』
——停戦の調印から、四年後です。オーディルが半身を失った、その翌年でした。
ハインツの一言が、この章の芯だと思っております。
「これは、隠されておりません。ただ、千年、誰も開かなかっただけでございます」
次回、第80話「割れた夜」。
ゼルヴァーンとリーシェが、婚礼のあと初めて、意見を違えます。
どちらも、間違っておりません。
——それでも、割れます。
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蒼空ルーシェ




