第78話 司祭カナン
潮の司祭団の館は、ネイラの一番高いところにあった。
白い石を積んだ、飾りのない建物だった。窓が小さく、扉が厚い。海風に耐えるための造りだと、案内の若い司祭が説明した。
リーシェと、ハインツと、アルトの三人で行った。ゼルヴァーンは城に残った。魔王が町を歩けば、それだけで話が変わるからだ。
通されたのは、広い部屋だった。
壁が、一面、棚だった。
棚には、木の札が並んでいた。掌ほどの大きさの、薄い板。それが、床から天井まで、何百枚も。
「これは」
「記録でございます」
カナンが、奥から現れた。
昨日と同じ、薄い青灰色の衣。背筋がまっすぐで、足音がしない。
「候補の、記録でございます」
「候補」
「はい。千年のあいだに、この大陸で選ばれた、半身候補の名でございます」
ハインツが、棚に一歩近づいた。
「札の一枚が、お一人でございますか」
「左様でございます」
「……何枚、ございましょう」
「四百と、十一枚」
リーシェの喉が、鳴った。
四百十一。
千年で、四百十一人の娘が、この大陸で「要る」と言われて育てられた。
そして、一人も、納められていない。
◇
茶が出た。
海藻を干して煎じたもので、塩の味がした。カナンは、それを両手で包むように持って、ゆっくり飲んだ。
部屋には、椅子が四脚しかなかった。三人が座って、一脚が空いている。壁一面の棚に対して、家具はそれだけだった。人が長く居るための部屋ではなく、札を置くための部屋に、あとから椅子を入れたのだとわかる造りだった。
窓が小さいので、昼でも薄暗い。棚の上のほうは、影になって見えなかった。アルトは、さっきから、その暗いあたりを何度も見上げていた。
「半身さま。お尋ねになりたいことが、おありでしょう」
「はい」
「どうぞ」
「四百十一人の方々は、どうなさいましたか」
カナンは、湯呑みを置いた。
「務めを、終えました」
「終えて、どちらへ」
「どこにも参りません」
昨日と、同じ言葉だった。
リーシェは、粘った。
「亡くなったのですか」
「いいえ。皆、生きて、老いて、この町で死にました」
「では」
「ただ、名を、返します」
「名を」
「はい。務めを終えた者は、三つの名をお返しいたします。民の名も、海の名も、陛下の名も」
アルトの湯呑みが、受け皿の上で、小さく鳴った。
「……名前を、返したあとは」
「名の無い者として、司祭館で暮らします」
「一生ですか」
「はい」
カナンの声は、変わらなかった。柔らかいままだった。
「この館には、いま、七人おります。皆、務めを終えた方々でございます。畑を耕し、像を洗い、次の子を育てます」
アルトが、湯呑みを握りしめた。
「そ、それは」
「アルト様」
カナンが、彼のほうを向いた。
「はい」
「かわいそうだと、お思いでしょう」
「……はい」
「そう思われるのは、当然でございます。西の方には、そう見えましょう」
彼女は、微笑んだ。
「けれど、あの方たちは、泣いておりません」
その一言は、昨日と同じだった。
同じことを、この人は何度でも言う。
同じことしか、言わない。
◇
「カナンさま」
リーシェが言った。
「はい」
「どうして、司祭になられたのですか」
初めて、カナンが黙った。
湯呑みの中の茶を見て、それから、棚を見た。棚の、下から二段目、右のほうを。
「わたくしの姉が、候補でございました」
「……お姉さま」
「はい。三代前の司祭が選びました。姉は八つで館に入り、二十六まで、毎日、城の方角を向いて座っておりました」
「はい」
「十八年でございます」
カナンは、立ち上がって、棚のところへ行った。
その札を、指で触れた。取り出しはしなかった。
「ある朝、姉が言いました。『もう、座らない』と」
リーシェの背が、伸びた。
「座らない、と」
「はい。生まれて初めて、務めを拒みました」
「それで」
「三日、館の外へ出ました。町を歩いて、市で果物を買って、桟橋に座って、海を見ておりました」
カナンの指が、札から離れた。
「四日目の朝に、戻ってまいりました」
「戻られた」
「はい。自分から。誰も呼びに行っておりません」
彼女は、椅子に戻った。座り方は、やはり、まっすぐだった。
「そして、こう申しました。『やっぱり、座る』と」
「……どうして」
「わかりません。姉は、理由を申しませんでした」
カナンは、湯呑みを持ち上げた。
「わたくしは、その時、決めました。姉が三日で戻ってきた場所を、無くしてはならない、と」
リーシェは、動けなかった。
「姉は、二十六で名を返しました。それから四十年、この館で、次の子を育てました。八年前に亡くなりました」
「……お姉さまは」
「はい」
「幸せ、でしたでしょうか」
カナンは、しばらく答えなかった。
それから、はっきりと言った。
「幸せでございました」
「そう、仰いましたか」
「いいえ。姉は、何も申しませんでした」
彼女は、まっすぐリーシェを見た。
「けれど、わたくしがそう思わなければ、四十年が、何も無かったことになりますので」
応接間ではないが、記録の棚に囲まれた部屋も、しんと静まった。
◇
帰り際、ハインツが、棚の前で立ち止まった。
彼は、下から三段目のあたりを、じっと見ていた。
「ハインツさん」
「半身さま」
「どうかされましたか」
「……いえ」
彼は、両手の指をこすり合わせた。黒いインクの染みた指を。考え事をする時の癖だった。
「札が、順に並んでおります」
「はい」
「古い順に、右から左へ。年号が彫ってございます」
「はい」
「その並びに」
彼は、声を落とした。
「――抜けが、ございます」
リーシェが、棚を見た。
言われてみれば、そこだけ、札と札のあいだが、わずかに広かった。
一枚分。
「取り外されたのですか」
「わかりません。ただ、そこだけ、板の日焼けが、違います」
「いつの、あたりでしょう」
ハインツは、隣の札の年号を読んだ。
それから、リーシェを見た。
彼の顔から、いつもの慇懃さが、少しだけ抜けていた。
「千年前でございます」
外で、鐘が鳴った。
夕方の鐘だった。町中の人が手を止めて、いちばん近い像に頭を下げる時刻だった。
司祭館の窓から、その音が入ってきた。
カナンは、部屋の奥で、いつのまにか、城の方角を向いて座っていた。
お読みいただき、ありがとうございます。
司祭館には、四百十一枚の札がありました。千年のあいだ、この大陸で「要る」と言われて育てられた娘の数です。
一人も、納められておりません。
務めを終えた者は、三つの名を返します。名の無い者として、館で畑を耕し、像を洗い、次の子を育てます。
カナンの姉は、十八年座って、ある朝「もう座らない」と言いました。三日、町を歩いて、桟橋で海を見て、四日目の朝に、自分から戻ってきました。理由は言いませんでした。
カナンは、姉が戻ってこられる場所を無くしてはならないと決めて、司祭になりました。
「わたくしがそう思わなければ、四十年が、何も無かったことになりますので」
この方を、悪人として書くことはできません。
棚には、一枚分の抜けがありました。
千年前の場所です。
次回、第79話「海の循環」。
ハインツが、東の書庫に入ります。
西と東で、半身の意味が違っておりました。
——こちらでは、半身は、選ばれるものではないそうです。
ブックマーク・評価・感想、何卒お願いいたします。
四百十一枚の札に、☆ひとつをお力添えください。
蒼空ルーシェ




