第77話 好きなもの
氷の城には、厨房があった。使われていない厨房が。
ナディアが、そこを使えるようにするのに、半日かかった。
凍った竈の火を落とし、新しく薪を組み、水を溶かした。デミウルゴが記録を取りながら手伝い、ハインツが書庫から古い燃料の台帳を持ってきた。アルトは、氷を割る係だった。
昼過ぎに、初めて、城の煙突から煙が出た。
千年ぶりだった。
港の方角で、鐘が鳴った。町が驚いているのだと、ハインツが言った。
◇
夕食の卓に、七人が座った。
六人と、セイレ。
セイレの席は、リーシェが決めた。アルトの隣にした。理由は自分でも説明できなかったが、ゼルヴァーンの隣でも、カナンの座っていたあたりでもない場所がいいと思った。
卓に並んだのは、簡単なものだった。町で買った魚と、パンと、豆を煮たもの。
それから、蜂蜜菓子が、七個。
ナディアが、六個の生地を七つに分けて焼いた。
セイレは、椅子に座って、両手を膝の上に置いていた。
誰も、食べ始めなかった。
ゼルヴァーンが、こう言ったからだった。
「セイレ」
「はい」
「この城で、僕は主人だ」
「はい」
「主人が食えと言えば、食うのが作法か」
「はい」
「では、食え、とは言わない」
セイレの睫毛が、わずかに動いた。
「……はい」
「好きなものから、取れ」
七人とも、手を止めたままだった。
セイレは、動かなかった。
長いあいだ、動かなかった。
それから、こう言った。
「申し訳ございません」
「何がだ」
「好きなものが、どれか、わかりません」
「食ったことがないのか」
「ございます。魚も、パンも、豆も」
「では、どれが旨かった」
「……お尋ねの意味が」
ゼルヴァーンは、それ以上聞かなかった。
彼は、自分の皿に魚を取った。
「では、僕が先に食う」
「はい」
「僕は、魚が嫌いだ」
リーシェが、思わず彼を見た。
「ゼルヴァーンさま、嫌いなのですか」
「嫌いだ」
「十年、召し上がっていましたよね」
「出されたからだ」
「今も出されています」
「今は、自分で取った」
彼は、魚をひと口食べて、眉を寄せた。
「やはり、嫌いだ」
アルトが、噴き出した。
ナディアが笑いをこらえ、デミウルゴが眼鏡を直した。
「千年お仕えしておりますが、陛下が魚を嫌いだと明言なさったのは、本日が初めてでございます」
「数えるな」
「ただいま記録しております」
セイレは、その様子を見ていた。
じっと、見ていた。
笑わなかった。けれど、目が、動いていた。この娘の目が、卓の上を左右に動いたのは、この時が初めてだった。
◇
食事が半ばを過ぎたころ、アルトが、皿を持ち上げた。
蜂蜜菓子の皿だった。
彼はそれを、セイレの前に置いた。
「ど、どうぞ」
「……」
「ぼくの分と、あわせて、二個です」
セイレは、皿を見た。それから、アルトを見た。
「いただく理由が、ございません」
「り、理由」
「はい。務めを果たしておりませんので」
アルトの手が、皿の縁で止まった。
「……務め」
「はい。わたくしは、まだ、お納めいただいておりません。ですので、いただく理由が」
「ちがいます」
アルトが言った。
声が、少し高かった。
「ぼくは、そういう意味で、あげたんじゃないです」
「はい」
「そ、そういう意味じゃ、ないんです」
「はい」
「はい、って言わないでください」
アルトの声が、天井の高いところで、細く跳ね返った。
アルトの顔が、赤くなっていた。彼は、自分の膝を握りしめて、下を向いた。それから、もう一度、顔を上げた。
「ぼくは、ずっと、要らない子でした」
リーシェが、息を止めた。
「ね、ねえさまが、いなくなった家で、ぼくだけが残されて。父上は、ぼくのことも、見ませんでした。だから、ぼく、ずっと、思ってました」
十三歳の声が、震えていた。
「ぼくが、いい子にしてたら、いつか、要る子になれるかもって」
「アルト」
リーシェが呼んだが、彼は止まらなかった。
「でも、ちがいました。ぼくは、要る子になったから、家族になったんじゃないです」
彼は、皿を、もう一寸、セイレのほうへ押した。
「ねえさまが、ぼくを、ぼくのまま、連れていってくれたからです」
セイレの薄い青の瞳が、皿の上の菓子を見ていた。
「だから、あなたも」
「……」
「務めとか、なくても、いいんです」
沈黙が、長く続いた。
セイレは、手を伸ばさなかった。
やがて、彼女は言った。
「申し訳ございません」
「い、いえ」
「わたくしには、その言葉の、置きどころが、ございません」
アルトが、下を向いた。
そして、小さく、しかしはっきりと言った。
「……ぼく、くやしいです」
それは、この十三歳が、姉以外の誰かのために口にした、最初の言葉だった。
◇
夜。
厨房の片づけを終えたナディアが、リーシェの部屋に来た。
「リーシェさま」
「ナディア」
「菓子は、召し上がりませんでした」
「はい」
「ですが、置いてまいりました。あの子の部屋の、机の上に」
「食べるでしょうか」
「わかりません」
ナディアは、紫の瞳を伏せた。
「わたくしは、千年、侍女をしております」
「はい」
「務めを持つ者の気持ちは、わかるつもりでおりました」
「はい」
「けれど、あの子は、違います」
「違いますか」
「わたくしどもは、務めを、持っております。あの子は」
彼女は、言葉を探した。
「あの子は、務めに、持たれております」
リーシェは、窓のほうを見た。氷の張った窓の向こうで、月が二つ、滲んでいた。
片方は、まだ、欠けたままだった。
◇
その夜遅く、廊下を歩いていたアルトが、セイレの部屋の扉の前を通った。
扉の下から、細く、灯りが漏れていた。
彼は、立ち止まった。
中で、音がした。
紙のような、乾いた、小さな音。
――皿の上の、菓子を、ずっと見ている音のようだった。
アルトは、扉を叩かなかった。
叩けなかった。
その代わり、扉の前で、少しのあいだ立っていた。それから、自分の部屋に戻った。
翌朝、皿の上の菓子は、二個とも、そのままだった。
欠けてもいなかった。
ただ、皿の位置が、机の端から、真ん中へ、少しだけ動いていた。
お読みいただき、ありがとうございます。
第2章「望まれた娘」、開幕です。
千年ぶりに、氷の城の煙突から煙が出ました。港の鐘が鳴りました。町が驚いたそうです。
ゼルヴァーンは、千年ぶりに「魚が嫌いだ」と明言しました。デミウルゴが記録しております。
——ゼルヴァーンは、セイレに「食え」と言いませんでした。この人は、命じられて生きた者に、命じることの意味を知っています。
そして、アルトです。
「ぼくは、要る子になったから、家族になったんじゃないです」
「ねえさまが、ぼくを、ぼくのまま、連れていってくれたからです」
十三歳が、姉以外の誰かのために、初めて「くやしい」と言いました。
菓子は、食べられませんでした。
ただ、皿の位置が、机の端から真ん中へ、少しだけ動いておりました。
次回、第78話「司祭カナン」。
潮の司祭団の長と、向き合います。
この方には、悪意がありません。
それが、いちばん手強いところです。
——皿が動いていた一行に、あっと思われた方。どうか、一押しを。
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動いた皿に、☆ひとつをお力添えください。
蒼空ルーシェ




